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教訓その八、わからないことは悪いことではない

 たたん、たたんと規則的に揺れる電車の中で、姉ちゃんは悦子さんから受け取った手紙を読んでいた。おれはとくにやることもなく、向かい側の窓からの景色を見るともなしに見ていた。

 「私、明日帰るわ」姉ちゃんは手紙を封筒にしまうと唐突に宣言した。「用事も終わったし」

 「用事って、まさかその手紙を探すために帰って来たわけ?」盆も正月も返上して何年も帰省してこなかったのに、という言葉は飲み込んだ。姉ちゃんの横顔が、とてもすっきりしていたから、それだけの力がその古びた手紙に込められていたことは想像できた。納得は出来なかったけど。

 「それ、先生からの手紙なの?」

 おれの言葉に、姉ちゃんは首を振った。「私の手紙。先生に預かってもらってたのに、昨日まで忘れてたの」

 悦子さんの「10年ぶりの再会」というのは、そういう意味だったのか。でも、先生に預ける手紙を預けるって、いったいどういうことなんだろう。

 「はい」姉ちゃんはおれに手紙を突き出す。反射的に、それを受け取る。

 「今度は、司が預かってて。また何年かして私が帰って来たときに、また読めるように」

なんでおれが、と言おうしたおれを、姉ちゃんは「読んでもいいから」と遮った。「たぶん、今度はあんたに必要だと思うから」

 おれは何か言い返してやろうといろいろ考えて、最後に姉ちゃんの何か吹っ切れたような表情を見て、「ホントに読むからな」とぶっきらぼうに言った。「預かっててやるから、たまには家に帰って、父さんと母さんを安心させてやれよ」姉ちゃんは笑った。帰って来てから見せた笑顔の中で、一番姉ちゃんらしい笑顔だった。



 10年後の私へ

             3年1組 望月渚

 こんにちは、10年後の私。元気だった?

 この手紙を読んでいるってことは、とりあえず元気なんだね。よかった。そうじゃなきゃ、バカバカしくてこの先を書けなくなっちゃうから。

 あなたに手紙を書くことにしたのは、安曇先生の提案なの。

 「今は会えない相手にどうしても言いたいことがあるんですけど、どうすればいいですか」って聞いたら、「手紙を書けばいいんじゃないかな。文字なら時間の都合に左右されずに伝えられるしね」って言われたの。先生のアドバイスは、毎回ナイスよね。

 さて、ここまで読んでわかっただろうけど、「会えない相手」も「どうしても言いたいことがある」相手も、あなた。10年後の私なの。

 あなたには聞きたいことが山ほどある。

 今、どんな仕事してる?結婚はした?司には身長抜かれちゃった?言い出せばきりがないくらい、私はあなたのことを知らないの。何も、知らないの。

 あなたのことを知りたいと、今までずっと思ってきた。

 どんな経緯を辿って私はあなたになったのか、教えてくれたらどんなに楽かなぁ。私はもう自分の頭で考えることをしなくていいし、自分の目を凝らして何かを探すことをしなくていいし、自分の足を使って彷徨うこともしなくていいんだよね。何もかも、私のすべてを自分以外の誰かに任せてやり過ごしていけるのなら、こんなに楽なことはないと思う。考えることも、何かに目を凝らすことも、歩いて行くこともすべて、命をすり減らすことだと、私は思う。

 安曇先生にそう打ち明けたら、「確かにそうですね」と言ってくれた。「でも、それじゃただ生きてるだけだ」とも。

 「ただ生きるのではなく、良く生きること」

 何かの標語みたいなこの言葉は、昔の偉い人が言っていたんだって。高校生になったら習いますよって、先生は笑って教えてくれた。その場ですぐに教えてくれればいいのにね。私がしつこく食い下がっても、結局先生はただ微笑むだけで教えてくれなかった。

ただ生きるのではなく、良く生きること。これって、どういう意味なんだろう。今の私には、その意味がよくわからない。

 あなたなら、知っているかもしれないね。もう高校は卒業しただろうし、何かの授業で習ったと思う。

 でも、不思議なことにね、その意味をあなたに聞きたいとは思わないの。だって、面白くないじゃない。先生が私に教えてくれなかった理由も含めて、自分で考えていきたい。


 あなたが今の私をどう思うかはわからない。くだらないことにどうしようもないほど悩んでいることに呆れているかもしれないし、「どうしてもっとこうしてくれなかったんだ」ともどかしい気持ちでいるのかもしれない。

 でも、私はあなたに今の自分を採点してもらおうとは思わないの。私は私で進んでいくから、あなたはそのときの自分のために全力を注いでほしい。

 あなたが今、何か辛い事情を抱えていたとしても、それは今の私のせいじゃない。すべては「今」のあなたのせいだよ。「今」なんてすぐに過去のことになっちゃうけど、それでもいつだってそのときが「今」だから、あなたはあなたの「今」のために頭を使ってほしい。目を凝らしてほしい。歩き出してほしいよ。

 私にはわからないことだらけで、昔を振り返っては「あのときはのんきだったな」と羨ましがったり、先の見えない不安に駆られて立ちすくんだりする。あなたにはそうなってほしくない、とは言わないよ。あなたは私だから、同じようなことをしている。そんな気がする。私、方向音痴だから、あなたも何度も迷子になったんだろうな。

 それでいいんじゃないかな。時間が経ったからといって、私はなんでも出来る万能人になんかなれっこない。落ち込んだり、見失ったり、何をしていいかわからなくなることはある。絶対、ある。これから先もなくならない。それが、あなたに言いたかったこと。

良 く生きること。私はその言葉の意味を探しながら、ゆっくりあなたになる。会えたら、答え合わせしよう。どんな食い違いが生まれるんだろう。それが、ちょっと楽しみだな。



 「見つかった?」

 おれの言葉に、姉ちゃんは「うーん」ともったいぶるように間を置いてから「教えない」と言って意地悪く笑った。

 「司が見つけなきゃ。それが一番の正解だよ」

 電車を降りるとすぐに、姉ちゃんは駆け出した。おれと距離を離してから「家まで競争しよーっ。負けたらアイス奢りね!」と叫んだ。

 おれはちょっとためらってから1歩踏み出し、走り始めた。

 遠ざかった姉ちゃんの背中に追いつくために。




お疲れ様でした。ありがとうございました。

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