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教訓その七、自分のことは自分にしかわからない

 「望月さん、ね。喪なんてもう何年も前に明けちゃったから、たまに尋ねてくる人たちはみんな普段着なのに、わざわざかしこまった服装で来てくれたもんだから、驚いちゃったわ。この暑さに喪服の黒は大変だったでしょう」

 奥さんである悦子さんに居間に通され、お互い自己紹介を終えると、まずそう言われた。

 悦子さんの言葉通り、たしかに大変だった。道中ではなく、着るまでが。

 帰省中に姉ちゃんが喪服を持ってきているはずもなく、母さんが昔着ていた物を探し出すことに午前中は費やされた。履いてきていたサンダルで出るわけにもいかないから、それ用の靴まで探した。付き合わされたおれの心中を察してくれる悦子さんは、本当に出来た人だと思う。

 「いえ、職業柄、こういうのはちゃんとしておきたいんです。何年も経ってから伺って、今さら遅いとは思うんですけど」

 姉ちゃんは気まりの悪さを誤魔化すように、出してもらった麦茶を口に含む。おれはひたすら黙って、姉ちゃんの用事が終わるのを待った。

 「職業、というのはやっぱり、門出に関わるものかしら?」

 悦子さんの言い方はすごく回りくどかったけど、ちらりと向けた視線の先が先生の写真が飾られた仏壇だったことでピンときた。

 「はい、看護師をやっているんです」

 姉ちゃんの口調は淡々としていて、自分の言葉に何の感情も出さないようにしているみたいだった。

 悦子さんもそれを感じ取ったようで、普通ならこの後に続く「どう?順調?」とか「やりがいのあるお仕事でしょう」というセリフを出して話題を引っ張ることはなかった。

 「主人に受け持たれていたのは、いつ頃だったのかしら」

 「中学3年生の時です」姉ちゃんの視線を感じて、おれは慌てて「おれも同じです」と付け加え る。

 「そう。定年も、たしか中学校だったわ。あなたたちは、主人の持った生徒さんの中でも最後の方だったのね」悦子さんはいたずらっぽく笑う。「どう?ボケてたり、物忘れひどかったりした?」

 「いえ、本当に、いい先生でしたよ。私、先生の授業のおかげで社会科が好きになったんです」

 姉ちゃんは懐かしそうに笑う。倫理の教科書を見て連想しただけあって、先生は姉ちゃんの在学中も社会を教えていたようだ。

 居眠りしている生徒がいてもまったく咎めず、のんびり授業を進めていた先生の姿を思い出す。青筋を立てて怒鳴るような人じゃなかったから舐めていたやつらもいたけど、先生は慕われていた。勉強に限らず、「質問」に行く生徒は多かった。おれも一度だけ行ったことがある。特に何をしてくれるわけでもないけど、神社に佇む大木のように、そこにいるだけで人に何か感じさせることが出来る人だったから。

 姉ちゃんと悦子さんは、先生の思い出話や、最近のうだるような暑さについて楽しそうに話している間、おれは所在なく麦茶の入ったグラスを眺めていた。

 どうしておれ、先生の家に来たんだろう。

 姉ちゃんがおれを振りまわすのは今に始まったわけじゃない。だけど、来る理由なんてよく考えればおれにはないわけだし、断って家に引きこもることも出来たはずだ。学校があると言えば、姉ちゃんは無理におれを連れてくることはなかったとも思う。

聞きに行こう。行けば、何かわかるはずだよ。

 姉ちゃんの言葉に、おれは不覚にも頷いていた。

 先生はこの家に限らず、世界中探しても、もうどこにもいない。何年も前から知っていることだ。

 それなのに、おれはこの暑さの中、姉ちゃんと一緒に電車に揺られ、知らない町を歩き回り、線香の匂いを嗅いで、ふいに泣きたくなった。

 おれは、先生に何か聞きたいことがあるのかもしれない。

 「司、お線香、上げさせてもらおう」

 姉ちゃんの声で我に帰る。

 「ごめんなさいね、長話に付き合わせてしまって。この年になると、やることなんて家の掃除くらいしかなくて、おしゃべりが楽しくてしょうがないのよ」悦子さんは、笑うと本当に先生の奥さんなんだろうかと思ってしまうくらい若く見えた。

 目に入る位置にあった仏壇の前に座り、おれと姉ちゃんは然るべき手順を踏む。線香に火をつけたり、銅製のお椀みたいなものを棒で軽く叩いて「チーン」と鳴らす際の手順はよくわからなかったから、姉ちゃんに合わせた。

 手を合わせ、目を閉じる。瞼の裏は、さっき自分で挿した線香の火が残っているようにちかちか光っている。線香の香りとは不思議なもので、近寄ったからといって強く香るわけじゃないようだ。香りは家全体に均され、ふとした拍子に蘇る。その香りが自分の中に入ってくるのを感じながら、おれは先生に語りかけた。

 先生、ご無沙汰してました、おれ、望月司です。忘れられちゃってるかもしれませんね。お久しぶりです。

 先生に受け持ってもらってから、3年経ちました。また受験生です。

 今は後藤先生っていう、先生とは正反対の人に受け持ってもらっています。いや、何が正反対かって言えば、全部なんです。見上げるほど体格いいし、居眠りする生徒がいればチョーク投げてくるし、くしゃみなんて隣の教室まで響くほどデカイし、何かにつけては「根性」って単語使いたがるし、体育祭やりたくて教師になったんじゃないかってくらい、暑苦しい先生なんですよ。ホント、先生とは正反対なんです。

 でも、同じこと言われました。「自分で考えて、自分で決めろ」って。安曇先生、あなたもおれに同じこと言いましたよね。

 おれ、わからないんです。自分が何をやりたくて、どこに向かいたくて、どんな人間になりたいのか。全然、わかんないんです。

 後藤先生には、国立の大学に行きたいって言いました。学費が安いから。姉ちゃんは大学、行かなかったんです。なんか、高校卒業したら看護師の見習いから始める学校があるらしくて、そこに行きました。勉強もしてましたけど、実際は働いていたも同然です。仕事も勉強も両立して、今では一人前の看護師になれたみたいです。

 おれは姉ちゃんみたいに目標があるわけじゃないから、とりあえず大学に進学しようと思いました。学費に拘ったのは、親に負担かけずに見習い生活していた姉ちゃんに引け目を感じていたからだって、わかってます。

 おれには、それしかなかった。やりたいこともないから、後藤先生の質問に何も返せなかった。おれには、自分のものが何もない。

 もう少し先に行けば、何か変わると思ってたんです。今まで、ずっとそうでした。中学生のときは高校生に、高校生になった今は大学生に、それぞれ期待してたんです。何もないおれにも、いつか何か芯が出来るんじゃないかって。姉ちゃんのずっと後ろをうろうろしているおれじゃなくて、一点をしっかりと見据えて走り出せるときが、いつか来るんじゃないかって。

 中学生のとき、おれはあなたに聞きました。「いつになったら、考えなくてよくなるんですか」と。高校受験を控えて初めて進路が割れる場面に立たされて、自分で選んで進んで行かなくちゃならないことに、途方に暮れていたから。

 「いつになったら、と聞かれれば、『いつまでも』と答えるしかありませんね。僕たちは自分として生きていくかぎり、自分で考えて自分で決めていかなくちゃならないんですから」

 先生のこの言葉に、おれは今でも向き合えずにいるんです。



 「ほら、望月渚さん宛て。ちゃんとあるわよ」

 悦子さんは四角いクッキーの箱を開けると、一通の手紙を取り出した。何年も前のものだと一目でわかる、黄ばんだものだった。

 「主人に言われてたの。いつかきっと受け取りに来るはずだから、必ず渡してくれって。来てくれてよかったわ。あの人ったら、住所も残さずに逝っちゃうんだもの、本人に送れなくて困ってたのよ」

 姉ちゃんはとても小さい声で「ありがとうございます」とだけ言った。手紙を受け取る手は震えていた。

 「10年越しの再会ね。大事にしてね。私が書いたわけじゃないけど」悦子さんは、今にも泣きそうな姉ちゃんに、とても優しい声で言った。


ありがとうございました。次で最後です。

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