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教訓その六、変わるものばかりではない

 家を出たのは、結局午後になってからだった。

 「一番暑い時間帯に外出することないだろ」

 「いいのよ。あんまり早くに行くのも失礼になっちゃうでしょ」

 姉ちゃんはもっともらしいことを言うけど、本当は着て行く服が見つからなかった結果だということを、おれは忘れていない。

 「とりあえず降りた駅は間違いないはずだけど、道、こっちで合ってるのかな」

 「姉ちゃん、一度来たことあるんじゃなかったのかよ」

 「何年も前にね。すっかり様子変わっちゃってるから、初めて通るような感じ」

 「そんな調子で、ホントに着けるのかよ」

 おれのため息など露知らず、姉ちゃんは遠足気分で歩きまわっている。見知らぬ町で迷子になりかけている危機感など欠片も感じていないのが、傍から見ているとよくわかる。

 家の最寄り駅から電車に揺られること4駅、降りた先は地名なら知っているけど、一度も来たことのない町だった。おれと姉ちゃんは地図もなく、ただ住所が書かれたメモだけを頼りに彷徨っている。



 「安曇先生の家に行こう」

 昨日、姉ちゃんは重大な宣言でもするような重々しい口調で一言、そう言った。

 おれが呆気にとられて何も言えないでいると、姉ちゃんは「まさか司、先生のこと忘れちゃったんじゃないでしょうね」とひどく顔をしかめた。「男子、マジ信じらんないんだけど」と何かにつけて吐き捨てるクラスの女子の表情そっくりだ。

 「いや、覚えてるけどさ、でも」おれはとりあえずそれだけ急いで言ったものの、後に言葉が続かなかった。その先を口に出すのをためらうほどには、おれは先生のことが好きだったから。

 安曇先生は7年離れたおれたちきょうだいを、偶然にも両方受け持ってくれた中学校の頃の先生だ。

 定年を間近に控えた年齢に見合った白髪頭に分厚いメガネ、ちょっと屈み気味な姿勢、女子によっては見下ろされてしまう小柄な体格。

 安曇先生を誰かに説明しようとすると、とにかく年寄りで小さい人としか相手に受け取ってもらえないのがちょっともどかしい。

 生徒であるおれたちにも敬語を使って接するような律義さも、年齢に見合わず可愛らしい仕草も、その反面ふと浮かべる、長い間生き続けてきた人しか出せないような穏やかで寂しそうな表情も、言葉にして説明するのはなかなか難しい。

 おれも、確認したわけじゃないけど姉ちゃんも、安曇先生のそういう「説明しづらい」特徴が好きだった。

 会わなくなってもう何年にもなるけど、今でも鮮明に先生の姿は思い出せる。

 未だに、忘れられずにいる。



 「あ、ここだよ。青い屋根にオレンジのポスト!それにほら、表札も安曇だよ、変わってないなぁ」

 姉ちゃんははしゃぎながらおれを手招きする。無事目的地に辿りつけたことには安心しているけど、それを姉ちゃんのように無邪気に喜ぶには時間をかけすぎた。容赦のない日差しは、おれに  「母さんに借りた靴なんだから、走ってヒール折るようなことすんなよ」と言う力しか残してくれなかったようだ。

 安曇先生の家は和風というよりは「まさに日本家屋」という表現がしっくりくる家だった。玄関口になっている引き戸の前に立てば、すぐ横に控えめな広さの庭が見える。表札の「安曇」の文字は家主と同じくらいの古さを感じさせているけど、今もこうして役目をしっかりと果たしている。 それをじっと見つめていたら、視界の中に姉ちゃんの腕がにゅっと伸びてきた。表札のすぐ隣にあったインターホンを押す。腕時計焼けが目に新しい。いつもしているアクセサリーの延長みたいなカラフルな腕時計も、今日の服装にはふさわしくないからという理由で外してきたことを思い出した。

 「はーい、どなたぁ?」

 家の奥の方からかけられた声に、思わず背筋を伸ばす。姉ちゃんがインターホンに向かって話そうとしたけど、それを待たずにドアが開けられる。

 「あら」

 出て来た老婦人は、おれと姉ちゃんを前にして一瞬驚いた様子を見せたあと、ふっと笑顔になった。深い皺がすべてほぐされた、とても柔らかい笑顔だった。

 見知らぬ人間がいきなり尋ねて来たことに驚いたんだろう。

 その後笑ってくれたのは、おれたちの服装が理由だということはなんとなくわかった。

 学校の制服を着たおれと、この暑さのなか、白いブラウス以外はすべて黒一色の服装の姉ちゃん。女の人が、おれたちを一通り眺めてから浮かべた笑顔は、嬉しそうにも見えたし、それ以上に悲しそうにも見えた。

 「主人に用があって来てくれたのかしら?」

 「はい。安曇先生に預かっていただいた物を引き取りに伺いました」

 姉ちゃんの言葉に、奥さんらしき女の人は何か心当たりがあるらしく、「ああ」と安心したように頷く。

 「上がってちょうだいな。主人に挨拶、していってくれるでしょう?」

 「はい、ぜひお焼香させてください」

 必要なことは姉ちゃんが言ってくれたから、おれはただ黙って頭を下げた。

 動いた拍子に線香の控えめな匂いが鼻孔に入って、おれは回れ右をして駆け出したい衝動をなんとかこらえて玄関の敷居を跨いだ。



喪に服す期間は故人との関係にもよるそうなのですが、長くても1年くらいだと聞いた覚えがあります。

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