教訓その五、どうしても知りたいのなら人に聞くことをためらってはいけない
家の玄関のドアを開けると最初に目に入ってくる、奥までまっすぐに伸びる廊下。その一番奥に面しているところにおれの部屋、つまりおれしか使わない部屋がある。
その一番奥のドアが開け放たれていた。
「…何やってんの」
「司、あんた、帰ってきたら最初に何か聞かずにはいられないわけ?もっと他に言うことがあるでしょう」
「ここ、おれの部屋なんだけど」
足を崩して座り込んでいる姉ちゃんの足元は、ゴミともガラクタともつかないもので散らかっている。押し入れが開いていることから考えると、そこから引っ張り出してきたんだろう。
「懐かしいでしょ、お母さんが取っておいてくれたみたい」
姉ちゃんは自分の周りに並べた小学校の頃の通知表だの運動靴だの、もう絶対に使わないと断言出来るものたちを見渡して嬉しそうに言う。「思い出は大事じゃない」と言い張って、なぜかおれの部屋にそれをため込んでおくスペースを設けた母さんの表情そっくりだ。やっぱり、親子って似るんだな。
「思い出に浸るのは結構だけど、おれの部屋なんだから勝手に漁るなよな」
「あら、もともとは私の部屋じゃない。私が家を出た後にあんたが使い始めたんだから、いわば 私が貸主なのよ。それとも、見られたら困るものでも隠してたわけ?」
突っ立ったままで目線の合わないおれを仰ぎ見た姉ちゃんは、にやにやしていた顔をふと真顔へと変えた。
「あんた、夏期講習行くとか言ってたけど、マラソン大会でもやってたわけ?」
姉ちゃんの真っ直ぐな目から逃げるように、おれは鞄を下ろすついでのように視線をそらした。
「こんな暑さの中でマラソンなんてやったら死んじまうだろ。職業柄、そういうのはわかるんじゃないの?」
「それは、そうだけど」姉ちゃんは珍しく口ごもるような間を空けてから、独り言のように「ずいぶん疲れた顔してるから」と漏らした。本当に、口の間からうっかり出てしまいましたと言わんばかりの、不本意さを滲ませて。
「受験生なんて、みんなマラソンランナーみたいなもんだろ。常に誰かと張りあってんだから」
おれは軽い調子で言い返し、立ちあがった姉ちゃんの横を素通りしてデスクチェアに腰を下ろす。
座ってから、自分がすごく疲れていることに気付いて驚いた。立っていたさっきまでは何も感じなかったのに、もう足に力が入らない。
自分の足で立っていなくていいというのは、今のおれには笑い出したいくらい素敵なことに思えた。
行き場所を決めて、あるいは踏みとどまる理由を抱えて、自分の動力を頼りに生きていくのって、途方もないエネルギーを使う。一度止まると、それがよくわかる。
「じゃあ、司は今、走っているわけだ」姉ちゃんは何かを含ませるように、ゆっくりと言った。行間を読めと授業で怒鳴っていた後藤先生の声が、ふとよぎる。
「止まってるけど、見ての通り」
茶化すように、おどけて言った。柄にもなくマジになってる姉ちゃんを笑ったつもりだったのに、おれ自身がダメージを受けて、視線がまた下がる。
自分の足で踏ん張る力もなく、行きたい場所もない、今のおれ自身を、おれは笑いたかったのかもしれない。
そう思ったとたん、おれをなんとか支えていた背骨まで仕事を止め、おれの全体重を引き受けさせられたデスクチェアが悲痛な音を上げる。
疲れた。体に力が入らない。
今まで自分の重心を支えていたものが何だったのか、忘れちゃったみたいだ。
背もたれにだらしなく寄りかかると、重い頭は垂れ、自然と目線は上にいく。表情のない天井に 視界が遮られ、他に何が見えるわけでもないのに、視線を何かに逸らすことはひどく億劫だった。特に見ていたいものなんて、ない。この楽な姿勢を動きたくなかった。
おれはいったい、どうやって立ちあがって、これから歩いて行けばいいんだろう。
「そうだね、止まってるね」姉ちゃんは笑わなかった。さっきまでの強張った表情も、今はない。
「また、走り出せそう?」
「そりゃ、そのうちはそうしなきゃならないんだろうな」おれは天井に顔を向けながら投げやりに言う。「ずっとこのままってわけにはいかないだろうし」
そう言いながらも、本当にそう出来るか自信がなかった。
別に行きたい場所があるわけじゃない。この部屋は狭いけど、自分の足を酷使してまで出て行きたい思えるほどの何かを、おれは知らないんだから。
さっきの後藤先生の寂しそうな顔が浮かんで、それから逃げるように、おれは姉ちゃんの方に首をひねる。
「で、姉ちゃんは何やってんだよ。押し入れなんて、昔のものしか入ってないだろ。中のものこんなに引っ張り出してきて、今になって学生時代の運動靴でも必要になったわけ?」
「ちょっとね、探し物」姉ちゃんは自分のまわりに散らばった書き初めの紙やケースに入ったリコーダーなんかに順番に視線を配ってから「昨日物置も見たんだけど、見つからなくて」と途方に暮れたようにつぶやいた。
昨日の人騒がせなビニールプールは、探し物の最中に出て来たということか。呆れたけど、ようやく納得した。存在すら知らなかったはずのものを見つける過程は、一応あったわけだ。
「卒業アルバムなら、たぶんここにはないぜ。母さん、一応おれが使いそうなものを集めたみたいだから」
もっとも、それは母さんの基準であって、この部屋が明け渡されてから1年ほどで中学生になったおれに、リコーダーや書道セット、小さくて履けなくなった運動靴なんて必要ないのだが。
姉ちゃんは打ち明けるのをためらうように視線を泳がせる。そして自分が出してきた物の圧倒的な量を目の当たりにして、このまま一人で探していても仕方ないと観念したのか、おれから目を逸らしながら「書類っていうか、紙、なんだけど」とようやくそれだけ言った。
「紙?卒業した後にも必要な書類なんてあんの?」
「だから、書類じゃないんだってば」姉ちゃんは不機嫌そうな低い声を出すけど、恥ずかしがっていることがなんとなくわかった。見られちゃ困るものってことか。ラブレターの類なのかもしれない。
「紙っぽいものは、たしか上の段にまとめられてたはずだけど」
「知ってる。一つだけ白っぽい色の箱に、でしょ?」
姉ちゃんの指さした先には、たしかにおれの示した段ボール箱がすでに開封され、内容物が箱を取り囲むように出されていた。あまりにも物が多かったから気付かなかった。
「教科書くらいしかなかったわよ」
姉ちゃんが非難を込めておれに突き付けて来たその一冊に、おれは「あ」と思わず声を漏らした。
「何?司の世代って、倫理やらないわけ?」おれの反応を不審に思った姉ちゃんは、手にした教科書をまじまじと見る。「時代って、変わるのねぇ」
「いや、今も倫理はあるよ。おれが取ってないだけ」
姉ちゃんから半ば取り上げるように、古びて端々が黄色くなっている教科書を受け取る。
「何?倫理に興味あるの?」おれがページの隅々に素早く目を配っている様子に驚いたように姉ちゃんはきょとんとしている。
「いや、興味があるって言うか」索引を引いた方が早いことに気付いたおれは、一度閉じてから後ろの方を表にして、またページをめくる。「友だちと倫理の話したときに出た名前、わかんなくてさ。なんか、悔しいじゃん、そのまま放っておくのって」
「何て名前?」
「ソクラテス。倫理の教科書で一番有名な人だって言ってたけど」
姉ちゃんは心当たりがあったようで、「ああ、ムチノチの人か」と嬉しそうに言う。7年も前に学生をやめた姉ちゃんに、去年まで取っていた科目で後れを取っていることが判明してしまったわけだけど、今はどうでもよかった。
「ムチノチ?どういう字?人種?まさか国の名前じゃないよな」現役で地理を取っているおれは、そんな地名は知らない。
「無知の知。何も知らないの『無知』と、知っているの『知』で『無知の知』。地名じゃなくて、座右の銘みたいなもんかな」
ますますわけがわからず、首を捻らずにいられないおれに、姉ちゃんは得意げに説明してくれた。
「ソクラテスはね、神殿から『ソクラテス以上の賢者はいない』ってお告げを受けたの。神様から世界一のお墨付きを貰ったんだもん、そりゃ驚くわよね。で、ソクラテスはその大それた言葉を否定してくれる誰かを探していろんな知識人に会って話をするわけ。世の中にはこんなに物知りな人たちがいて、神様が言うような人間は決して自分のことじゃないって、納得したかったのね。でも、結局、ソクラテスは自分が世界一知恵があるって結論を出すの。有名な政治家や詩人、いろんな分野の職人にまで話を聞いた末に、よ。とんだ傲慢よね」
姉ちゃんはおれの方へと視線を戻すと、「そう思わない?」と、おれの答えを促してくる。
おれが答えられずにいると、姉ちゃんは「でも、実は違うんだな、これが」と楽しそうに言う。おれが頷かずにいたことを喜んでいるのが、なんとなくわかった。
「みんな、知ったかぶりだったの。知ったつもりになってたのよ。ソクラテスの素朴な質問に、筋の通った答えを返せなかったの。ソクラテスはね、自分が何も知らないって自覚があったから、普通の人や、まして自分の知識に自信のある人が素通りしてしまうような些細な疑問を考えずにはいられなかった。疑問が尽きないことを、知識がない結果だと思ってたわけ。そこが、自分の知識量に絶対の自信があった知識人たちとソクラテスの違いだったのよ。つまり、無知の知っていうのは、自分が何も知らないことを知っているってことなの」
姉ちゃんは説明を終えると「何年も前にやったきりだったけど、けっこう覚えてるもんね」と言って笑った。
「ホント、やればやるほどわからなくなることばっかりだよね。習ってた頃はピンとこなかったけど」
姉ちゃんはそう言うと、窓の方に視線を向ける。その向こうに広がる夏の青空は、果てを見せないほど青く、どこまでも続いている。
ソクラテスの言葉の意味がわからないと言ったときの鳥羽もそうだった。とても遠いところを見ていた。
おれたちが本当にマラソンランナーだとして、いったいどこまで走ればいいんだろう。目に見えるゴールは、本当にあるんだろうか。もう誰とも張りあわなくても良くて、自分の足を酷使することもない場所に、いつになったら辿りつけるのだろう。
姉ちゃんはおれよりずっと先を走っている。昔からずっとそうだった。おれの足場には、いつだって姉ちゃんの軌跡があった。
それなのに、どうしてそんなことを言うんだよ。
やればやるほどわからなくなるなら、おれは何のために走って行けばいいんだよ。
そう思ったら、おれはもう口走っていた。
「それって、変だよ」
姉ちゃんとまた目が合う。
「何だよ、無知の知って。知らないことを知ってるって、いったい何がそんなに偉いんだよ。知識なんて、あればあるほどいいんじゃないのかよ」
受験が終わればいいと思った。そうすれば、もう「しんどいだけ」の勉強をしなくてすむから。試されるのも終わりだと思った。
でも社会人になって働く姉ちゃんという「現実」が、おれのゴールをまた遠ざけた。あんなに大きかった姉ちゃんを縮めてしまう「将来」は、確実に待ちかまえているのに、未だに何を目指して走っていけばいいのかわからずにいる。
「頑張った分だけ何か見返りがあると思っちゃいけないのかよ。どうして進んだ分だけわからなくなっちゃうんだよ。おれたちは、時間が経つほど成長していけるんじゃないのかよ」
おれは今まで自分を納得させてきた「建前」と対極にあるもののおぞましさに身震いした。こんなに醜くて、浅ましい期待が、ずっとおれを形作ってきていたなんて、情けなくて消えてしまいたくなった。
姉ちゃんはしばらく何も言わなかった。当たり前だ。弟に急にこんなことを言われたら、何と言っていいかわからないだろう。
「じゃ、聞きに行こう」
きっぱりと放たれた声に呼び覚まされるように、おれは顔を上げる。
「明日は休みでしょう?司、あんたも来なさい。行けば、何かわかるはずだよ」
姉ちゃんは一人、大きく頷いた。
頑張ってください。あとちょっとです。




