教訓その四、広ければいいとは限らない
「失礼します」
一声かけてからドアを開ける。予想していたよりずっと狭い部屋の中の、一つしかない机の向こう側に座っている後藤先生と目が合って会釈をする。
「とりあえず座れ。今、資料出すから」
先生が机に積まれた書類をめくったり取り分けたりしている間に、おれは初めて入った進路指導室を見渡した。
トイレの個室3個分くらいしかない狭いスペースに、飾り気のない事務机が一つと、今おれたちが腰を下ろしている無個性なパイプ椅子が二つ。この部屋にあるものはそれだけ。先生の後ろ側に窓が据えられていなかったら、さぞかし息の詰まる空間になるんだろうな。もっとも、あったところでこの狭さに何か変化が出るわけじゃないんだけど。
おれの視線がきょろきょろと落ち着きなく動き回っていることに気付いた先生は、おかしそうに笑う。
「望月は、この部屋に入るの初めてだったか。名前のわりに普通の部屋だから、驚いただろ」
「はい、まぁ」
普通と言うにはあまりにも殺風景だ。進路を相談するためだけに作られましたと言わんばかりの無駄のない様が、なんだか新鮮だった。
「おれも、あんまり好きじゃないんだよな、この部屋。狭いし、圧迫感あるし」
先生は大きな体を縮めるような仕草をしながら言う。
たしかに、後藤先生には窮屈だろう。
後藤先生に担当してもらっていない生徒は、ほぼ全員先生を体育教師だと思っている。がっしりした体躯と、体育祭で誰よりも張り切っている姿を見れば無理もない。授業で滑らかに古典の活用形を暗唱しているのを見てきていなかったら、おれも未だに国語の先生だと納得できずにいたに違いない。
「望月は第一志望、決めたか」
「はい、一応」おれは用意しておいた学校名を口にする。おれの成績ならなんとか狙えるところにある国立の大学だ。
先生も、手にした資料を見ながら頷いてくれる。おれの今までの成績や模試の結果なんかが書かれているであろうその資料には、おれの身の丈にあった希望を否定する材料にはならないから、予想どおりの反応ではある。
「まぁ、望月は授業も真面目に受けてるしな。今の調子で頑張れば、行けるだろ」
先生の肯定的な言葉に、おれの体から力が抜ける。知らず知らずのうちに力んでいたみたいだ。
「もちろん、油断は禁物だぞ。あくまで、今のペースを維持できればの話だからな」
先生は念を押すように言いながらも、表情は柔らかかった。つられるように、おれも笑った。緊張がほどけると、人間というのは笑ってしまう仕組みになっているらしい。
「ところで、どうしてこの学校を志望したんだ?」
「国立がいいんです。私立は学費、高いんで」
「そうじゃなくて、この大学がいいと思った理由だよ」
先生はあくまでも穏やかに言った。おれが先生の質問の意味を勘違いしていているとでも言いたげに。「望月の今の答えじゃ、学費以外に選考基準を持ってないと取られかねないぞ」
言葉に詰まった。図星だったからだ。
それでも、なんとかそれらしい理由を言わなければと、おれは口を動かす。
「それは、おれの取ってる科目が受験科目として優遇されていて、有利だから…」
「それじゃ、目指す理由にはならないだろ。学費が安くて、入れそうだったから選んだってことになる」
先生と目が合う。笑ってはいなかった。
おれは自分の図星がとっくに見抜かれていることにようやく気付いた。
「べつに、責めているわけじゃないんだ。自分の努力に見合っていない学校の名前を大っぴらに言えることが美徳ってわけじゃないからな。望月の選択は現実的だし、親に負担をかけないように考えていることは偉いと思う」
眉間にしわを寄せ、言葉を慎重に選んでいる先生が、とても寂そうに見えたのは、なぜだろう。
「だがな、『入れるから入る』じゃないんだ。『入りたいから入る』。そうじゃなきゃ、義務教育を終えた後にも学生を続ける意味がないだろ」
先生は、諭すような穏やかな調子を変えなかった。それが辛かった。自分がどんどん小さくなっていくみたいで、このまま消えてしまえる気がした。
「たしかに、今は大学全入時代って言われてるし、名前さえ書ければ誰でも大学生になれる。望月は真面目に勉強している方だし、そこそこの大学には入れるだろう。でも、入るだけでいいなら、学生を続ける意味はないとおれは思う」
先生はパイプ椅子の背もたれに大きな体を預け、椅子が大げさな音を立てる。この部屋には、今この音しかない。
「自分で考えて、自分で決めろよ。学費とか、レベルがどうとかは、その後で考えることなんだから」
先生はそう言って、大きく伸びをしてから「それにしてもこの部屋、本当に狭いな」とつぶやいた。
面談が終わってから廊下に出てみて、たしかに進路相談室は狭かったなと実感した。
窓がいくつも並んだ廊下は比べ物にならないほど開放的だし、いろんな場所からいろんな音が聞こえてくる。
その広さが、今のおれにはたまらなく鬱陶しかった。
私の母校の進路指導室はやけに狭かったです。他の学校もそうだとは言い切れませんが。




