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教訓その三、聞いただけじゃわからないけど聞いてみてもわからない

 チャイムが鳴って、教室に音が戻ってくる。

 テスト中というのは、どうしてあんなにも押し殺したような音しか聞こえてこないんだろう。

 鉛筆が焦りながら紙の上を走っていく音、消しゴムが自分をすり減らしていく音、行くあてのないため息しかなかったさっきまでとは違い、今はいろんな音がある。

 肺の中の空気をそっくり入れ替える空気の流れや、判別しきれないたくさんのおしゃべり。

 人間が、ここで生きて活動しているのだとたしかにわかる音が溢れるこのタイミングが、おれはけっこう好きだ。安心する。

 「司、飯にしようぜ」

 鳥羽が、移動するたくさんのクラスメイトの流れに逆らいながら、近くにある椅子を引き寄せて来る。片手には、いつも通りコンビニの袋を提げている。

 「いやー、ようやく終わったな、実力テスト」開放感のあるセリフに反して、鳥羽の表情はそんなに嬉しそうじゃない。

 受験というラスボスを控えた今、夏休みの夏期講習での実力テストなんて中ボスをやり過ごしたくらいでは、手放しで喜べない気持ちはよくわかる。

 「大門3の最後の問題、わかった?」おれは鞄から弁当を取り出しながら鳥羽に尋ねる。どうせすぐに解答が配られるけど、誰かと答え合わせしたくなってしまうのが、受験生の悲しいところだ。

 「さっきの科目、社会だろ?おれ、たぶん司と違う科目だぜ」

 「えっ、鳥羽、地理じゃないの?」

 「おれ、倫理。なんか、地理って性に合わなくて」

 科目に性が合うとか、あるんだろうか。

 おれの疑問に気付いたのか、鳥羽は「ほら、世界中の地名をちまちま覚えてくのって、面倒じゃん?」と付け加える。

 鳥羽には「重人」という立派な名前があるのに、「重くておれに合わないから」という理由で、文字通り軽い名字を呼ぶように強要してくる。

 たしかに鳥羽には、女子を含め誰とでも気軽に話せるようなノリの良さがあるけど、本人が思っているほど「軽い人間」ではないというのがおれの見立てだ。指摘すると不機嫌になるので言わない。まったく、照れやすい人間というのは面倒くさい。

 「倫理だって、思想家の意見とか全部覚えなきゃいけないんだろ?同じくらい面倒だと思うけど」

 おれと鳥羽は理系だから、志望校によってまちまちだけど、社会系の科目は一つ取ればいい。

 おれの周りではその一枠に地理を選ぶやつがほとんどだった。地理は小学生の頃からやってきた基礎があるけど、倫理は高校になってから始めて手をつける科目だ。とっつきにくい、という気持ちがある人間が多いのは自然なことだろう。

 「おれも2年のときに倫理やったけど、なんか、厄介な科目じゃね?抽象的っていうか、よくわかんなかったし」

 日本史のように事実を学ぶのならわかるけど、「おれはこう思うんだよね」という一個人の意見を延々と覚えていくあの科目を続けていくのは、「昨日、こんな夢見たんだよね」と語られるくらい、反応に困る。「はぁ、そうですか」という感想しか出てこないのだ。

 「そうでもないぜ。おれ、けっこう倫理、好きだし」

 鳥羽は菓子パンを手で千切りながら笑う。

 パンを千切って食べる男子を、おれは鳥羽の他に知らない。おれは、そんな鳥羽の品の良さを買っている。

 「そうか?おれはどこが楽しいのか、全然わかんないんだけど」

 「楽しいって言うより、面白いっていうのに近いかな。ソクラテスって覚えてる?」

 「まぁ、一応」

 本当は、せいぜい「初めて聞いた名前ではないな」という、ずいぶん頼りない記憶でしかない。

 倫理の先生が「倫理の教科書の中で一番有名な人だからな」と言っていたけど、おれにとっては先生がその直後にしたデカいくしゃみの方がずっと印象的だった。

 「おれ、ソクラテスが教科書の最初の方に出て来たから、倫理好きになったんだよね。授業について先生に質問しに行ったのなんて、それまでなかったのに、ソクラテスだけはどうしても気になっちゃって」

 授業の大半を夢の世界で受けている鳥羽にそこまで言わせるソクラテスって、いったい何者なんだろう。

 一応授業は寝ないで受ける主義のおれが鳥羽に素直に聞くのは抵抗があったから、わかったようなフリをして少しずつ情報を拾っていくことにした。

 「ソクラテスの何がそんなにいいんだ?おれ、特に印象に残らなかったんだけど」

 鳥羽はちょっと考えるような間を空けてから「性格?」と自信なさそうに言う。

 会ったこともない人間の性格を好きになれるって、いったいどういう理屈なんだろう。

 おれの不審が露骨に顔に出ていたのか、鳥羽は「やっぱりわかんないよな、こんな説明じゃ」と、困ったように笑った。

「でもさ、知ったかぶりしないのって、かっこいいと思うんだよね、おれは。だからかな、惹かれ たんだと思う」

 鳥羽はおれがソクラテスを知っていることを前提に話しているせいか、理由をずいぶん端折っていた。

 おれがこの説明から得られたソクラテスの情報といえば、「とても謙虚な人らしい」ということだけ。それだけで倫理という科目自体好きになれるなんて、鳥羽の考えることはよくわからない。

でも、好きなものを誰かにわかってもらおうと言葉を選びながら話す鳥羽の姿は、なんだか眩しかった。

 おれは、こんなふうに人に自分の考えを共有してほしいと思えるほど、勉強に入れ込んでいない。

 倫理だろうが地理だろうが、他のすべての科目も、おれにとっては「受験に使うもの」でしかないのだ。

 受験が終わったとして、おれは今必死になってやっている勉強を、ただ「すごくしんどい思い出」としか思えなくなっているんだろうか。

 自分から戻ってくる答えが、決しておれを前向きにしてくれないことがわかっていたから、おれは鳥羽に視線を戻す。

 「先生に質問に行ったって言ってたよな?何を聞きに行ったわけ?」

 言いながら、教科書とノートを胸に抱えて一人職員室に入っていく鳥羽を想像してみた。

 授業中に決して目が合わない類の生徒が「ここ、もっと詳しく聞きたいんですけど」なんて真面目くさって言ってきたんだから、先生はさぞかし驚いただろう。

 そんな光景が目に浮かんでいたから、おれは鳥羽の一言に、すぐには反応出来なかった。

 「良く生きるって、どういうことですかって、聞いた」

 鳥羽は、「空はどうして青色なんですか」と尋ねる子どものように、おれを何も言えなくさせた。

 余計なものが何も着いていない、ただ純粋に「不思議だ」「知りたい」という欲求しかそこにないのがよくわかるだけに、ヘタな一言で台無しになってしまいそうな脆さがあって、それがおれから「冗談で流す」とか「知ったように言ってみる」という常套手段を奪っていた。

 「司も授業でやったと思うけど、これってソクラテスの言葉なんだ。おれバカだから、どういう意味なのかわかんなくてさ」

 鳥羽はふいにおれから目を逸らすと、窓の外に広がる真っ青な空を仰ぎ見る。そこに答えを探そうとしているようにも見えたし、宇宙に繋がっている空の奥行きに、ただ呆然としているようにも見えた。

 ソクラテスがどんなやつなのか未だにわからないけど、おれは鳥羽と違って、そいつのことを好きになれないような気がする。

 良く生きること。充実した人生にしろってことなのか、悪いことをするなという意味なのか。簡単な言葉しか使っていないぶん、どんな意味にも取れるじゃないか。それって、なんだかずるい気がする。肝心な部分を教えてくれないなんて。

 毎日、それこそ夏休みにもこうして勉強するために学校に来て、「もうすぐ受験だ」とあくせくしているおれの生活は、たぶん世間のほとんどの人から見て充実していると言えるだろう。悪いことも特にしてない。

 受験が終わって、大学生になって、就職して、ネクタイを自分で絞められるようになったら、おれはその後どうするんだろう。

 きっと、今日鳥羽と話したことも、ソクラテスなんて大昔に死んだおっさんのことも思い出すことなんてなくて、ただ今と同じように、別の何かに追われるようにあくせくしている。きっとそうだ。今までが、そうだったんだから。

 「受験生」から「大学生」、「社会人」へと名前を変えていく中で、おれは今の疑問を覚えていられるのだろうか。

 何もかもが急ぎ足で変わっていく中で、会ったこともないおっさんの言葉と、その言葉に何かを見出そうとした友だちと、そいつを羨ましく思ったおれ自身のことを、抱えて進んでいくことなんて出来るんだろうか。

 鳥羽はこっちに視線を戻すと、ふいにおれを見て笑った。

 「司、今、途方に暮れてますって顔してる」図星を突かれて何も言えないおれに、鳥羽はあっけからんと続ける。

 「司はおれよりずっと頭いいから大丈夫。大門3の答えだって、たぶん合ってるって。心配すんなよー」

 「なんだよ、どうせなら絶対って言えよな」おれはいつもの調子で鳥羽に笑ってみせる。うまく笑えたかどうかは、自信がない。

 「バーカ、絶対なんて言葉がそうそうあるかよ」

 鳥羽は楽しそうに笑った。腹を立てる気が起こらないほど、その笑顔には清々しさがあった。

 「ほら、次の時間、進路面談だぜ。しゃきっとしろよ、司」

 チャイムが鳴った。その音に急かされるように、鳥羽は席を立つ。

 また少しずつ、音が消えていく。


倫理の授業は一番好きでした。

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