教訓その二、夏の日差しの下では利口でいられない
ビニールプールに水を張る賑やかな音を聞き流し、おれは部屋に戻って勉強を始める。
少年老いやすく、学成り難し。受験生になってからは、すごく時間が経つのが早くなった。
まだ覚えていないことが多すぎるのに、たくさん問題を解いてはバツ印を自分に増やしてく。正直、すごく気が滅入る。
こんだけやっても、実際試験に出るのは1%程度っていうんだから、やってらんないよな。
そうわかっていても参考書から目を離せないのは、根性があるというべきか、諦めが悪いというべきか。
そんな雑念も、問題の趣旨を飲み込み、解答へのプロセスを自分で組み立てていくうちに消えていった。
自宅学習のスタートは理数系の科目がいいと聞いたので、物理から始めるようにしている。物理は センスが一番問われる科目だというけど、おれはわりと好きだ。筋道立てて考えれば、ちゃんと正解が出る。
その点、国語や英語のような言語系の科目はいくらでも化けるし、肝心なことがすごくさりげない表現でさらりと書いてあったりする。それに、こっちのペースで考えることが出来ない、というのがどうにも好きになれない。
人間味があると言えば聞こえはいいけど、誰かが好きに書いた文章を、読み手であるこちらが一生懸命になって理解しようとするのは、なんだか腑に落ちない。
だから、という言い方は言い訳がましいのかもしれないけど、「姉ちゃん」はおれの苦手分野ということになる。
「…今度は、何」たったこれだけの短い言葉を発するのに、こんなにエネルギーを使うのかと呆れるくらい、疲れた。
「何、なんてすぐ聞かない。あんた、仮にも受験生でしょう。受験生は、考えるのが仕事。わからない問題が出たからって、試験官は親切に教えちゃくれないわよ」
ようやく勉強に集中し始めたところで急に庭にひっぱり出され、子ども用のビニールプールと25歳の姉を目の前にして、いったい何をどうしろと言うのだろう。姉ちゃんの物言いにおれはくらくらした。
そういえば、今日は真夏日だって、天気予報で言ってたっけ。そんなことをぼんやり思い出した。おれ、何やってんだろう。
ぼうっとしているおれにしびれをきらした姉ちゃんは、やれやれといった感じで首を振ったあと、ぽつりと言った。
「この水、どうしたらいいのかな」
「は?」
「ほら、プールに水張ったものの、後始末が、よくわかんなくて。流すにしてもうちの庭、コンクリート製だから水たまりになっちゃうし。放っておけば蒸発するんだろうけど、これだけの量だと何日もかかるだろうし、それまで置きっぱなしにできるほど、うちの庭、広くないでしょ。邪魔になるし」
「まぁ、そうだね」
「では司くんに問題です。ビニールプールに張られた水は、どうすればいいでしょう?」
おれは、今度こそ目まいがして座り込んでしまった。これは真夏日の日差しのせいじゃない。それだけはわかった。
「だいたいさぁ、なんで片づけ方も知らないのに、プールを広げようなんて思ったわけ」おれは脱力感と倦怠感を少しでも体から出してしまおうと、ため息をつきながら言う。
「うーん、物置あさってたらこのプールが出てきたから、ちょっとやってみたくなって」
「あんた、ビニールプールをちょっとやってみたくなる年じゃないだろ…」
「だって、私、ビニールプールなんてやったことなかったし」
「嘘つけ。おれは、これで遊んだ覚えがあるぞ」
「ほんとよ。これ、私が家にいたときにはなかったんだから」
嘘つけ、とまた言い返そうとして、思い出した。
そういえば、父さんが福引きでこのプールを貰ってきたとき、姉ちゃんはすでに家を出ていた。まだぎりぎり小学生だったおれがちょっと遊んで、すぐに使わなくなって、それっきり物置にしまい込まれたんだっけ。
「ビニールプールなんて、でかくなってからやったって、楽しくないだろ」
自分だけ遊んだことがあるというのは、やっぱり少しだけ後ろめたくて、おれの声は小さくなっていた。
「そりゃね、小さい体の方が楽しめるんだろうけど、なんか、今やりたかったのよ。大きくなった、この体でさ」
「何それ。意味分かんないんだけど」
額からまた一滴、汗が流れた。さっきからおれの体力は水分となって出て行くだけの一方通行だ。戻って来ない。
並々と水を張られたビニールプールは、真夏の太陽を反射してきらきらと輝く。この光に手を入れたら、どんな感覚がするんだろう。
気付いたら、片手を突っこんでいた。透明な色を裏切らないような心地よさにつられて、もう片方の手も入れる。
「あ」つぶやいていた。「けっこう、気持ちいいかも」
「でしょう?やっぱり、夏はプールなのよ」
我が意を得たりとばかりに胸を張る姉ちゃんの服装はさっきと変わっておらず、腕と足の部分のそでがまくられているだけのところから見ると、姉ちゃんもどうせおれと同じように手や足をちょっと浸した程度なんだろう。子ども用のプールで、大の大人が一人で出来ることなんてたかが知れてる。
そこまで考えたら、プールに浸していた手を水の中で併せ、姉ちゃんに向かって放っていた。
水をかけられた姉ちゃんは一瞬、すごく驚いていた。まさかおれが水遊びみたいなことをするとは思わなかったんだろう。おれだって、手を突っこんだ段階では、まさかこんな子どもっぽいことを自分でやるとは思わなかった。
ただ、夏の太陽の日差しをいっぱいに浴びた、この光の結晶のような水を浴びたら、何かがきれいに流れ落ちるような気がしたのだ。姉ちゃんを覆っていた、何かが。
かけてから目が覚めるように、冷静になった。何をやっているんだ、おれは。
姉ちゃんがきょとんとしているぶん、余計にきまりが悪い。我ながら、いったい何を考えていたんだと責めずにはいられない。夏の暑さにあてられてしまったんだ、そうとしか思えない。
ばしゃっという音がして、おれは自分が水をかけられたことに気付く。そしておれに何か言う隙を与えずに2回目3回目の水飛沫が飛んでくる。
「あんたから先にやったんだからね、覚悟しなさいよ」
言葉の乱暴さとは裏腹に、姉ちゃんは楽しそうだ。やっぱり、一人でプール遊びはつまらなかったんだろう。
おれは「ちょっ、顔はやめろよ」と言ったばかりに、姉ちゃんに顔面を重点爆撃された。たかが水遊び、という遠慮は一切ない。
狭い庭を逃げ回りながら、おれはこのビニールプールで遊んでいたときのことを思い出していた。
姉ちゃんも、このプールで遊びたかったかなと、幼心に気がかりだったんだっけ。
その頃に戻ることは出来ないけど、これで勘弁してよ。
水飛沫の向こうで笑う姉ちゃんを見て、自分のなかでくすぶっていた「7年前のおれ」は、少しだけ頷いてくれた。
季節外れなのはわかっています。