教訓その一、年上のきょうだいは容赦がない
年上のきょうだいって、ちょっと先に生まれて来たってだけで、どうして弟に対して、「遠慮」という言葉がこの世にないもののように振舞うことが出来るんだろう。
というのも、真夏の昼下がり、太陽の光を直に浴びながら歩き、ふらふらになって家に帰って来たおれに姉ちゃんが突き付けたものは、足踏みポンプだったからだ。
「…何これ」何年も会っていないきょうだいの再会の一言目に使われるセリフじゃないなとは思った。夏の日差しというのは、とことんまで人間の思考を鈍らせてしまうものらしい。
「何これ、はないでしょう、司。家に帰って来たんだから、まずはおかえりって言う。ね?」姉ちゃんの答えもとことんずれているような気がしたけど、こっちは別に日差しの有無は関係ない。もとからずれているのだ。全然、変わってない。
ため息が出た。自分の子どもが迷子になって、さんざん心配してようやく探し出したというのに、「えーっ、まだ遊んでいたいんだけど」と言われた親の気持ちって、たぶんこんな感じなんだろうな。
何年も帰って来ないから、それなりに心配していたというのに、のんきなもんだ。
素直に言われたことに従うのも癪な気がして、おれはわざと声をとがらせて言ってみる。
「今おれが帰って来たところなんだけど」
「何甘いこと言ってんのよ。社会人として家を出た姉が久しぶりに帰省してきたんだから、親の脛かじってる弟のあんたが私におかえりを言う。これが順序というものよ」
よくわからない理屈を平然と言ってのける姉ちゃんには、8月の太陽に負けないだけの力強さがあって、順序うんぬんというくだりにはまったく納得していなかったのに、おれの口からは自然に「おかえり」という言葉が出た。
「ただいま、司」
姉ちゃんは嬉しそうに笑った。
その笑顔が昔と全然変わってなかったから、おれはちょっと顔をしかめて見せた。
元気そうで安心した、なんて思ったことを認めるのは、やっぱり癪だったから。
「ときに、司くん。今日は暑いと思わない?」
姉ちゃんは手に持った足踏みポンプをちらちら見ながら言う。
おれは自分の眉間にしわが寄っていくのを感じた。
姉ちゃんがくん付けしてくるときは、おれにやっかいなことを押しつけようとしてくるときだからだ。
「うん、すげー暑い。庭に長居するのはよくないよな、やっぱり。おれ、部屋行かなきゃ。勉強しないと」玄関のドアノブに手を伸ばすも、姉ちゃんは割り込む形でそれを遮った。
「そんな司くんに朗報です。これはね、踏むだけでこの殺人的な暑さから逃れられる魔法のポンプなの。そんなわけだから、踏んでみなさい」
姉ちゃんが、できの悪いキャッチコピーを並べ立てている間に、おれは色あせた黄色いポンプの先を目でたどった。チューブは、ポンプと同じく色あせ、くしゃくしゃになったビニールのかたまりにつながっていた。
「要するに、ビニールプールを膨らませろってことだろ」
「まぁ、夢のない言い方をすれば、そういうことになるわね」
姉ちゃんのあっけからんとしたもの言いにおれはため息をつく。世の中の25歳って、みんなこうなんだろうか。
「踏むだけで涼しくなれるんなら、姉ちゃんが踏めばいいだろ。おれ、譲ってやるから」それだけ言って自分の部屋に逃げ出そうとするおれを、姉ちゃんは素晴らしい反射神経で捕える。
「何言ってんのよ。踏むだけで涼しくなれるわけないでしょう。あんた高校生にもなってそんな甘ったれたこと言ってると、すぐに社会に出てカモられちゃうわよ。ほら、そうならないためにも、これを踏んで世の中の厳しさを体に刻みなさい」
涼しくなるって言ったのはどこのどいつだとか、ポンプ踏んで強い精神が身に付くなんてそれこそ甘い考えだ、とか言うべきことはたくさんあったんだろうけど、おれは言わなかった。言えば10倍になって返ってくることがわからないくらい付き合いが浅いわけじゃない。
「おれ、勉強したいんだよね。ほら、受験生だし、学校からの課題もあるし。それに、学生の本分って、勉強だろ」と、正論を盾にしおらしく言ってみた。泣き落としみたいでちょっと抵抗があったけど、このままだと姉ちゃんのペースに巻き込まれてしまう。
おれだってもう高校生だ。しかも最高学年。ビニールプールを膨らませて喜んでいるような年ではないのだ。
姉ちゃんの中では、おれは何年も前の「小さな弟」のままなんだろうけど、そうそう振りまわされてばかりもいられない。自分の立場を確立するためにも、ここはなんとしても逃げ切らなきゃいけない。
我ながらみみっちい戦いだと呆れてしまうけど、こういう些細なところから白星を拾っていかなくちゃ。
そんなおれの健気な試みを知ってか知らずか、姉ちゃんはすぐに「あら、足踏みポンプを踏むことだって、立派な勉強よ。物理の試験で関連問題が出るかもしれないじゃない。それに、大学だってビニールプールをふくらました経験のないような世間知らずな学生なんか、今どきほしがらないわよ」と、よくわからない屁理屈を返してくる。
姉ちゃんのすごいところは、どんなに根拠のないほら話であろうと、堂々と断言できてしまうことだ。
そしておれの情けないところは、その勢いに根負けして何も言えなくなってしまうところだろう。
おれは反論するのを諦めて、おとなしく足踏みポンプを踏む作業に入る。
何が嬉しくて、真夏の昼下がり、自宅の庭で、汗だくになりながら足踏みなんてしているんだろう。
ビニールプールはおれの気分とは反比例に、踏むたびに盛り上がっていく。
姉ちゃんとおれは7歳離れている。二人しかいないきょうだいにしては、けっこう年の差がある方なんじゃないだろうか。
小学生の頃は頻繁に友だちの家に遊びに行ったりもしたけど、ランドセルの隣に物理の教科書が転がってる家は、余所では見たことがなかったような気がする。
「ひゃー、なんだこれ、呪文?」遊びに来た友だちが姉ちゃんの教科書を勝手に拾い上げて驚くのを、「おいおい勝手に触るなよ。姉ちゃん、怒るとマジめんどくさいから」とたしなめながらも、内心まんざらでもなかったことは今でも覚えている。
その頃の7歳差というのは、「子ども」と「大人」くらいの開きがあったように思う。
アルファベットをようやく全部覚えたかどうかというおれは、姉ちゃんが使い込んでいる英語の教科書の密度を前にしてただ言葉を失くした。
この教科書と向き合える未来が本当にあるとしたら、未来って、なんて遠いところにあるんだろう。
月まで歩いて行くのと同じくらい、途方もないことのように思えた。
「宿題だから」
教科書と、それを使って勉強している姉ちゃんを見比べて神妙な顔をしているおれに、姉ちゃんはそう言った。
「別に、全部をそっくり理解出来てるわけじゃないよ」
その口調が、なぜか言い訳しているみたいに気まり悪そうだったことが、余計に姉ちゃんとおれの差を際立たせていた。
それが7年分の開きなのか、おれがもっと大きくなれば埋められる距離なのか、今でもわからない。
その後おれは中学生になり、姉ちゃんは働くために家を出た。
使う人間のいなくなった教科書を、おれはたまに開いてはそのたびにため息をついた。わからない単語だらけの現状に脱力したというのもあったけど、それだけじゃない。
いつかおれが姉ちゃんの年齢になれば、こんなわけのわからない文字の羅列も理解出来るようになるだろうかと、せっかちに膨らむ期待を押し出すためというのが大きかったような気がする。
そのくせ、ときどきマーカーで線が引かれていたり、単語の上にその意味がメモしてあるのを見つけるたび、姉ちゃんをすごく遠くに感じた。
おれが紙飛行機のように頼りなく、乗れる風をさがしているあいだに、姉ちゃんはジェット機のように、音速でおれを引き離していく。
飛行機雲をまっすぐ残して、見えない場所に行ってしまう。
おれにとって、姉ちゃんはそんな存在だった。
ようやくビニールプールを蘇らせ、姉ちゃんを呼びに家の中に入ると、話し声が聞こえて来た。
うちは一直線に伸びた廊下に面していくつかの部屋が並んでいる構成だから、姉ちゃんがどの部屋にいるのか、おれからは見えない。
最初はテレビでも点けているのかと思ったけど、姉ちゃんの声がそれに混じっているのは変だ。家には今、おれと姉ちゃんしかいない。おれがこうして黙っていることを踏まえると、話し相手はいないはずだ。一人暮しをするうちに、独り言やテレビに話しかける癖でもついてしまったんだろうか。
「すみません、ええ、はい」
姉ちゃんの話し声が急に大きくなり、おれは身を硬くする。
声の聞こえてきた部屋をそっと覗き込むと、こちらに背を向けた姉ちゃんが携帯を握って頭を下げていた。
姉ちゃんらしくない早い口調にたじろいで、そこを離れることも出来ずに、おれはただ立ち尽くした。
「はい、そうです。先生には伝えておきましたので、いつも通りにやっていただいてかまいません。はい、大丈夫です」
仕事の話、か。自分に言い聞かせるように、胸のなかで反芻した。
そうだよな、姉ちゃん、働いてるもんな。電話くらい来るよな。上司だっているだろうし、クレームが来れば謝るのは普通だよな。
頭ではわかっているのに、受けた衝撃はなかなか引いていかなかった。
すごく子供じみたことだとは思うけど、姉ちゃんが誰かに頭を下げているという現実が信じられなかったのだ。
べつに、姉ちゃんが敬語も使えないような無礼な人間だと思っていたわけではない。記憶をちゃんと辿れば、怒られたり謝っている場面なんていくらでも出てくるはずだ。家庭訪問で担任の先生が家に来たときだって、ちゃんと礼儀正しく接していた覚えがある。
おれにするような振舞いを、全員にしているわけじゃないことも知っている。
でも、たぶんそういうことじゃない。
今、背中を丸めて、ここにいない誰かに頭を下げ続けている姉ちゃんは、「姉」でも「生徒」でも「子ども」でもない、知らない名前を生きている。
その片鱗を見てしまったことは、すごく悪いことのような気がた。それでも目を逸らすことが出来なかったのは、おれが姉ちゃんとは違う名前を生きているからだろうか。
「はい」の間隔が狭まり、最後に「失礼します」と言うと、相手が先に切るのを待つような間を空けて、姉ちゃんは携帯を耳から離した。
「わ、びっくりした。いつからいたのよ」
こっちに振り返った拍子に驚く姉ちゃんに何と言ったらいいのかわからず、目を合わせられないおれに、姉ちゃんはふっと笑って言う。
「仕事の電話。ちゃんと連絡伝わってなかったみたい」
休み中にまでかけてくるんだからびっくりしちゃうよね、とおどけて付け加えた言葉は、おれに言い訳していかのように、気まり悪さを少しだけ滲ませていた。
「帰って来ちゃって、大丈夫なわけ?」言ってから、これじゃまるで、家に帰ってくる暇があるんなら仕事してろと言っているように取られかねないことに気付いて、「いや、仕事うまくいってんのか、ちょっと気になって」と慌てて付け加えた。
姉ちゃんはおれの言葉のニュアンスを取り違えなかったようで、とくに気を悪くした風でもなく「うん、大丈夫」と言って笑った。
その表情に、切れかけた豆電球を連想して、おれは目をそらす。
このまま姉ちゃんを見ていたら、知らなくてもいいことまで見えてきてしまいそうで、それが怖かったからだ。
人はいろんな顔を持っているという。おれにだって、それがどういうことなのかはわかる。
姉ちゃんの本名は「望月渚」で、おれにとっては「姉ちゃん」でしかないけど、父さんや母さんの前では「娘」で、先生の前では「生徒」。いろんな名前があって、それに合わせた顔がある。当たり前だ。そんなことはわかっている。
だからこそ、おれは「姉」以外の姉ちゃんを知りたいとは思わない。
職場先での「部下」だったり、「後輩」だったりする「望月渚」が、背中を丸めて、ここにいない誰かに平謝りする人間だというのなら、おれはその姿を知ってはいけないような気がしてならないのだ。
「なんて顔してんのよ」
ふいに姉ちゃんはおれを見て笑った。
「司、今考え込んでますって顔、してたよ」
なんだよ、誰のせいだと思ってんだよ、そう言おうとしてやめた。
こっちを見ている姉ちゃんの表情は、いつもどおりのものだったから。
ちょっとずれてて、おれを振りまわしてばっかりで、そしてジェット機の軌跡のようにまっすぐな、おれの知っている姉ちゃんだったから。
「大丈夫だって。私は、ちゃーんと仕事はやって来たから。今は休暇。休みなのよ。労働者にも、実家でくつろぐ権利はあるわ。学校で、習わなかった?」
「ふーん。姉ちゃんにも労働者なんて大層な名前が付くんだ。それは知らなかった」
「失礼ね。盆と正月も返上して、何年も帰省せずに健気に働く人間に、他にどんな名前がつくってのよ」
「知らねーよ。姉ちゃんは姉ちゃんだろ」
おれの投げやりとも取れる言葉に、姉ちゃんは不意を突かれたかのように押し黙った。おれもまさかそんな反応をされるとは思っていなかったので、図らずも二人して黙り込んだ。
鏡を見たわけじゃないけど、おれ、今姉ちゃんがしているような間の抜けた顔をしているんだろうな。
先に笑いだしたのは姉ちゃんだった。
「言うじゃん、司」
何がだよ、とは言わなかった。なんとなくだけど、お互い会話の間に同じことを考えていた気がしたのだ。
姉ちゃんは姉ちゃん、つまりおれの姉だ。この事実は動かない。
でも、姉ちゃんにとっては違うはずだ。「姉」なんて、自分に付いたたくさんの名前の一つでしかない。
でも、本名はある。「姉ちゃん」でも「労働者」でもない、自分の名前が。
自分は自分、他の何者でもない。当たり前のようでいて、これってけっこう忘れてしまいがちなことなんじゃないだろうか。
少なくとも、姉ちゃんの反応を見て、おれはそう思わずにはいられなかった。
「プール、膨らんだ?」
「とっくに」
「そう、ありがとう」
立ちあがり、ドア付近に立っているおれとすれ違うように出て行こうとする姉ちゃんが、ふいに立ち止まった。
「なんだよ」すごく近い場所で止まるものだから、姉ちゃんの顔が近い。そこで初めて、薄く化粧をしていることに気付いた。
今さらだけど、姉ちゃんももう化粧をするような年齢になったんだ。
「司、背、伸びた?」
「えっ」
「だって、前は私の方が目の位置高かったじゃない?今、司の方が目線高い」
言われてみてようやく気付いた。いつの間に追い抜いていたんだろう。
「あー、なんかムカつく。もっと牛乳、飲まなきゃダメかなー」
「なんだよ、おれの方が高くて当然だろ。むしろ高校生にもなって姉ちゃんより小さいんじゃ、おれが恥ずかしいよ」
姉ちゃんは女子にしてはけっこう背が高い方だったから、別に追い抜けないからと言っておれが特別チビということにはならないけど、男子として女きょうだいは抜いておかなきゃいけないような気はしていた。
「なによ、その余裕。昔は、姉ちゃんなんてすぐ追い抜いてやるって、肩並べるたびにムキになってたのにさ」
たしかにそんな張り合いをした覚えがある。おれが一方的に姉ちゃんに対抗心を燃やしていたから、張り合いという言い方は間違っているのかもしれないけど。
「私、縮んだのかな」
姉ちゃんがぽつりと言う。ほとんど独り言だった。
「やだね、年をとるって。成長から遠ざかっていくみたい」
おれより少し低い場所にある顔は、汗ではがれた薄化粧からうっすらクマを覗かせていた。年をとる、という言葉がふいに現実味を帯びて姉ちゃんにのしかかってくるのが見えた気がして、ぞっとした。
さっき電話していたときに見せた小さな背中と、それを隠そうとした弱弱しい笑顔がふいによぎる。
「おれが伸びたんだよ」姉ちゃんの小さな声をかき消したくて、自分でも驚くほど大きい声を出していた。
きょとんとしている姉ちゃんに、おれは言わずにはいられなかった。
「縮んだって、なんだよ。おれが大きくなったの。べつに姉ちゃんが小さくなったわけじゃないし。姉ちゃんがそんな調子じゃ、おれ、抜いたって嬉しくないじゃん。おれ、姉ちゃんを抜くのが目標だったんだぞ」
言いたいことが伝えられたような気がちっともしなくて、もどかしくて腹が立った。
昔はたしかに姉ちゃんを追い抜きたかった。でも、同時に、いつまで経っても抜けないだろうなとも思っていた。
だって、姉ちゃんはいつもおれのずっと先にいる人だったから。
意地になったり、ため息をつきながらでも、おれはその背中をずっと追っていたかった。
姉ちゃんが先を走ってたから、おれはこれから目指すずっと先の場所に辿り着きたいと思えた。
先回りしておいて、「ここにはいいもの、何もなかったよ。あんたはこれから通るの?悲惨だね」なんて言うのはずるい。
姉ちゃんにはいつも、今の自分に自信を持っていてほしい。
そう望んでしまうことは、自分勝手なことなんだろうか。
「そうだね」
おれの思考を読みとったかのようなタイミングで言われた一言につられて、姉ちゃんと目が合う。意識していないうちに目をそらしていたようだ。
「司は、大きくなった」
姉ちゃんはおれとの身長差を確かめるように、ちょっと上を見て笑う。
「とっても、大きくなったね」
のんびりした姉ちゃんの口ぶりからは、喜んでくれているのをちゃんと感じた。
だから、同じくらいの寂しさが含まれていたことは気付かないふりをしよう、そう思った。
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