【34 歓喜と絶望】
私はロレンツィオが苦汁を飲まされたような顔で言った言葉に、振り向いた。心が一気に希望で満たされたような気分に、のどがつまって声が出ない。
「そのようだな……正直、少し危なかったが、余はひとりではないのでな」
そう告げると、ジェズアルドの脇からガーグが姿を現す。彼の後ろには風が目に見えるほどの勢いで渦巻いてかたちづくられた、球形の空間があり、中にはビビアーナが女性の姿で閉じ込められている。
「……その風、その顔……まさか、バルバラの子か」
「そうだ。まだ幼いから彼女ほどの力はないが、幼いがゆえに、ビビアーナの魅了があまり効かなかったようだ。余より早く魔法から解放されたガーグのおかげで、ここへすぐに駆け付けることが出来たが、少し遅かったようだな」
ジェズアルドは楽しげに笑いながら告げた。
「お妃さま!」
ガーグが心配げな顔で駆けよってきて、私に抱きついた。私も思わず抱きしめ返す。ああ、とにかくふたりが無事で本当に良かった。後で、もっと詳しく話を聞こう。
「無事で良かったっス、あいつの魔法から覚めたらお妃さまがいなくて、オレ、役に立てなくてごめんなさいっス……」
「そんなことない、こうして来てくれただけで十分よ。ありがとう」
背中を優しく叩きながら私は言う。心からそう思っていた。小さな肩が震えている。泣いているみたいだ。私はそのまま抱きしめ続け、ふと彼が身につけているものを見てはっとした。ガーグは、私のショルダーバッグを持っていた。どうやら、気を失ったときにビビアーナに奪われたらしい。
ガーグは、私の見ているものに気づいて、体を離すと、鼻をすすりながら手渡してくれた。
「これ、あのサキュバスが持ってたっス。封魔扇には触れなかったみたいっスから、中身は大丈夫だと思うっス」
「そっか、やっぱり。ありがとう、これであいつをぶっ叩けるわ」
言いながら、私はバッグの中からハリセンをひっぱりだした。ガーグの言ったとおり、中は全く荒らされておらず、ガズルラーヴを出てきたときのままだった。私はかがんだ体勢から立ち上がると、ハリセンの先をロレンツィオに向けて言った。
「よくも吸血鬼にしようとしたり、皆を騙したり変な魔法にかけたりしてくれたわね。これで思いっきり恨みをこめて叩いてやる。マッシモのときみたいに手加減なんてしないから、痛いわよ!」
「へぇ~、君に僕がつかまえられると本気で思ってるんだ。ただの人間のくせに……それに、僕はまだ負けてないよ。囲んだだけで勝ったと思うなんて可愛いね……君たちで僕を捕まえられるって言うんなら、やってみるがいいさ」
余裕たっぷりに言うと、ロレンツィオは両腕を大きく広げた。彼の背後から、薔薇のつるが凄まじい勢いでのびて、私たちへと向かってくる。あれにからめとられたらまた磔にされてしまう。とっさにそう思った私だったけれど、それは杞憂に終わった。
私の隣にいたガーグが、風の魔法を放ったのである。目には見えないカッターが荒れ狂い、薔薇のつるは見る間にみじん切り状態になる。
「うわ、凄い……!」
私は思わず歓声をあげた。
「だろうな。こう見えて、ガーグは魔界の風属性を持つ魔物の中でも極めて強力なのだ。だからこそ、お前の付き人に選んだんだ」
いつのまにやって来ていたのか、ジェズアルドの声がすぐ近くからした。私はガーグと薔薇のつるとの戦いから目を反らし、首だけで振り返って彼の顔を見ると、声が出なくなってしまった。言いたいことがたくさんあったはずなのに、こうして間近で無事な姿を見ると、全部どうでも良くなってしまう。
それでも必死にのどをこじ開けて、私はぎこちなく笑いながら、つぶやくように言った。
「……そう、だったんだ。私、知らないことがいっぱいあるのね。……と、とにかくふたりとも無事で本当に良かった。すごく心配だったから」
ジェズアルドは嬉しそうにほほ笑み、私の肩に手を伸ばしかけて、ふいにやめた。どうしたのだろうと思って視線を追うと、彼の目がある場所に釘付けになっていることに気づく。
室内ではガーグが次々と薔薇のつるを刻み、バルトが剣で払い、マッシモが砂で根から枯らせているのだが、あの姿見のようなものは、彼らの攻撃対象から外れて、まだ残っていたのだ。中央のガラス状の部分は、まだ映像を映している。
本来のジェズアルドの姿も、くっきりと映っていた。
「あれを……見たのか?」
ジェズアルドは掠れた声で問う。その顔は、衝撃と絶望に暗くかげっている。私は暗い顔を見て、彼が話してくれたことを思い出した。確か、人間では二番目に妃として連れてこられたひとの話だ。彼女はジェズアルドの本性に恐怖して、自害したのだった。
「……見たわ。で、でも! 私は平気だから!」
慌てて言う。けれど、彼の目から疑いの色が消えない。私の言葉を信じていないのだ。どうすれば信じてくれるのだろう。何も思いつかなくて、私は焦った。
そのうえ、考えている暇もなかった。
大きな音がして、剣が床に落ちる音が響く。ガーグの風をかいぐくった薔薇のつるが、バルトの巨躯を捕らえたのだ。マッシモも砂を使うだけでなく、剣を手につるを払っているが、追いつかない。ロレンツィオは、最初にいた場所から一歩も動いていないというのに。
ジェズアルドの目が、私から反らされた。
彼はロレンツィオに向けて叫んだ。
「余の部下を離せ!」