【33 理解と反撃】
最初の出会いからずっと、ジェズアルドは優しかった。私はただ、ひとりで勝手に怯えたり、美形なのは外側だけで、中身は魔物で人間ではないのだから普通に考えて結婚なんて無理だ、と決めつけたりして、自分のことしか考えてこなかったのに、彼はずっと優しかった。
何度も拒絶した。ロレンツィオみたいに、むりやり言うことを聞かせようとすれば出来たはずだ。でも、ジェズアルドはそうしようとはなかった。絶対に結婚するし、逃がさないとくりかえしながら、それでも、私が嫌がることはしなかったし、馬車や移動のつらさをすぐに察してくれた。
ちゃんと、私を見ていてくれたのだ。
気づくのが遅かったけれど――今なら、その優しさが身にしみてわかる。だからこそ、気づいたときにはもう、心なんて決まっていたのだ。
――ああ、もう私の馬鹿……。
でも、例えジェズアルドが生きてくれていたとしても、噛まれてしまえば、本当の気持ちを言うことが出来なくなってしまう。私は、ものすごく後悔していた。自分で自分の気持ちを疑ったばかりに、言う機会が永遠になくなってしまうなんて思わなかったのだ。
「ホント――どうしようもない、私」
腕は疲れきって筋肉が悲鳴をあげているし、足は無数の傷のせいで熱をもったように熱くて痛い。横に視線を移動させれば、まだつるで出来た姿見はそこにあり、彼らの過去の戦いを映し出している。大きな黒い犬が、口から炎を吐き出し、全身に紫がかった雷を帯びて突っ込んでいく。
あの強さが私にもあれば良かったのに。非力さを恨んだのはこれが初めてじゃないけれど、今までで一番つらい。
「本当はね、こんなやり方は好きじゃないんだ。でも君は僕の言葉に酔わない、顔を見ても、ただ睨むばかり。言うことをきかせるには、力ずくしかないとわかったよ」
つ、と伸びてきた優美な人差し指が、私の首すじをなぞる。
私は小さく呻いて、恍惚の表情で舌なめずりしているロレンツィオを見た。
――嫌だ! 誰か、誰か助けて!
心の中で、私は悲鳴を上げた。
そのとき、頭の上で何かが動いた。私はそれがクロスケだとわかった。まだ私の頭にくっついていたのだ。早く逃がしておけば良かった。さらなる後悔が心を締めつける。
だが、クロスケは私の頭のうえでざわざわとその黒い毛を逆立てて、威嚇しているみたいだった。
「クロスケ! いいから、あなただけでも逃げて」
頭の上の小さなふわふわした生きものが死ぬところなんか見たくない。私は頭を左右に振って、クロスケを払い落して逃がそうとした。けれど、クロスケは小さなかぎ爪がついた足で髪につかまり、落ちてこない。威嚇の音はますます大きくなっていく。
「……そいつは、黒毬! まさか」
やがて、ロレンツィオがクロスケの存在に気づいた。
気のせいだろうか。私には涙で曇った視界に映る彼の顔が、妙に怯えているように見える。けれど、私がまばたきをくり返す前で、ロレンツィオは狼狽したように自身の足元や背後を見やっている。
やがて、その理由が明らかとなった。
「う……わぁ」
思わず、感嘆のため息がもれる。
足もといっぱいに、小さくてふわふわした、うさぎやハムスターのような小動物が波のように押しよせて来たのだ。ねずみや、猫みたいなのもいる。ただし、みんな魔物らしく、牙が鋭かったり、角が生えていたり、武器なんかを持っているものも混じっている。
クロスケが頭の上で、さらに音を立てる。
すると、集まった小動物たちが動きだした。私を捕らえている薔薇のつるをかじり、切り刻み、ロレンツィオの足を針みたいな剣で刺しては逃げてみたりしている。可愛いが、これは恐ろしい。なにしろ、数が半端ではないのだ。
最も多いのは、灰色のねずみだろう。目がくりっとしていて愛らしいものの、かつては伝染病を運び、食料を食い荒らす害獣としい忌み嫌われていた。その鋭い牙が、次々と薔薇を細切れにしていく様を見ていると〝かわいい〟という単語が自分の中から消え失せていくのがわかる。
こんな集団で襲われたらと思うと、寒気がする。
じりじりと、つるが細かくなっていくのを見ていると、外から轟音がした。私は驚いてそっちを見たが、壁しかない。だが、轟音の正体はすぐに知れた。
派手派手しい音を立て、壁が破壊されたのだ。
「きゃああっ!」
思わず目を閉じて悲鳴を上げる。
もうもうと砂ぼこりがあがり、私は思わず咳をしてしまった。
「よお、よくもこの俺様を騙してくれたな、この蚊野郎が!」
そう声を上げたのは、牛に変じたマッシモだった。大きく穴の空いた壁から、バルトも入ってくる。じっと見ているとマッシモはすぐに怪しい霧をだし、人の姿へと戻った。この時ばかりは、マッシモがものすごく格好良く見えた。
「おお! 無事でしたかお妃さま! 我らはこやつの部下らに騙されたのでございます。全く、面目次第もございませぬが、とにかく御無事でなにより!」
言いながらバルトは鎧をがちゃつかせて私の側へ来て、大きな手で手足を拘束している薔薇のつるをむしりとってくれた。小動物たちによってもろくなっていたつるは、簡単に引きちぎられ、床にばらばらと細切れになって散らばった。
私はバルトに受け止められ、赤いあざのついた手首をさすりながら、血のにじむ足首を見た。大したケガではないようだ。ほっとして、私はお礼を言った。
「ありがとう、バルト、クロスケ……それにマッシモ」
「無事で良かったな。お礼に俺の世話をさせてやる、だが、その前に……こいつを何とかしなけりゃな」
私はマッシモの言葉に、小動物たちを追い払っていたロレンツィオに視線を戻した。小さな生きものたちはすっかり追い払われ、中には傷を負っているものもいるようだ。私はそれを見て、後で手当てしてあげようと思った。
「もう来たのか。でも、忘れているようだね、君は一度封印されたことにより力が半分になってしまっているんだろう? しかも、僕はまだ全力を出していないしね」
そう告げると、また薔薇のつるがざわめきはじめる。ロレンツィオが力尽きない限り、この薔薇が枯れることはなさそうだった。限りなく増殖していく薔薇のつるを苦々しい思いで見ていると、背後から突風が吹きつけた。
その風はカミソリのようにつるを切り刻み、ロレンツィオの服と肌を少し傷つける。
彼の視線が鋭くなった。口もとに、悔しげな笑みが浮かぶ。
「そうか、生きていたか……ジェズアルド」