【32 闇と涙】
最初のうちは、遠すぎて石に刻まれた字が読めなかった。けれど、食い入るように見続けていると、距離が近くなり、読めるようになる。
――ああ、そうか。
私はお墓に書かれた名前を見て、ふいに悟った。
ここに映し出されていることが本当なら、私にはもう、家族がいないということになる。完璧に、誰もいなくなってしまった。親戚はいる可能性があるけれど、話に聞いたところによると、母とは仲が悪かったというから、縁は切れていると考えて間違いないだろう。
虚脱感におそわれながら、それでも私は鏡を見つづけた。
――知りたいことは、自分の過去だけじゃない。
ここで座り込んで、目を反らすわけにはいかないのだ。本当は、足が崩れ落ちそうなくらい震えている。それでも、私は見ることをやめるつもりはなかった。
つづいて、映し出されたのはこの魔界だ。でも、今とは風景がかなり違う。何より、空の色が赤くなく、どちらかというと薄青と金の雲にいろどられた、ひどく美しい色合いだ。
ガズルラーヴ城らしき影があり、人の姿をしているジェズアルドや、近くでようすを見ているロレンツィオの姿があるから、魔界で間違いないと思う。
彼らは、何かと戦っていた。
ガズルラーヴ城の上空には、青味をおびた黒雲が渦巻いている。そこに、何かとても禍々しい印象を受ける顔が浮かんでいた。どうやら。あれと戦っているようだ。
画面には他にも、マッシモらしき黒い牛、緑色の髪をした綺麗な女性などがいた。やがて、彼らの姿が霧につつまれ、その本性があらわとなる。
魔王ジェズアルドの、魔物としての姿がゆらめく霧の中から、少しずつその姿をあらわにしていく。
私は、声を出せずに、ただ見ていた。
すると、ロレンツィオが懐かしそうな声音で教えてくれた。
「……それは、かつて魔王が狂ったときの戦いだよ。僕と、カトブレパスとシー・サーペント、そして彼を含めた四体の魔物は、魔王をのぞいて最も力が強かったから、魔界の四大公爵と呼ばれていた。実質、魔王の配下として、それぞれの領地も与えられていたしね。その主君が狂った……だから、僕たちで倒すしかなかったのさ」
言葉は耳に入ってくる。けれども、意味がなかなか飲みこめない。私は、画面にくぎづけになりながら、小さくその名前を舌にのせた。
「ケルベロス……」
どうしてすぐに思いだせたのかは分からない。どこかで読んだ程度の知識しかなかったのに、首が三つある漆黒の巨大な犬の姿を見たら、その名前がするりと口から飛び出して来たのだ。
「へぇ、知ってたのか。そう、それが魔王ジェズアルドの魔物としての姿さ。彼は生れてからずっとこの場所に暮らす魔物だよ。この魔界はね、人間たちによって駆逐された存在が最終的に行きつく場所になってしまったんだ。もともとは、ここは冥界だったんだよ。僕ら吸血鬼も、かつては人間に混じって暮らしていたんだ」
「人間に……駆逐? 冥界?」
突然にいろいろと語られて、私は混乱した。
「そう。もっと昔、闇が色濃く地上を覆い隠す、蜜のように甘い夜がまだ存在していたころは、僕たちは地上に暮らしていたんだ。森には精霊と魔物が住み、人も死ねば人外の存在となって、闇に生きられたころのことさ」
私は鏡から視線をロレンツィオへと動かして、彼の顔が郷愁にいろどられるのをじっと見た。
故郷を失う、ということがわからない私には、その思いを本当に理解することはできないけれど、つらそうに伏せられた長いまつ毛が、湿っているように見えた。
「少しは闇も残されたけれど、あの忌々しい電気の明りによって、僕らは地上に生きる場所を失くした……特に、僕の配下の魔物にはそういう理由で魔界落ちしたものが多い。なぜなら、僕らは人間から生まれた魔物だからね、純粋に最初から魔物だったものたちとは違い、人の近くでしか生きられない」
「人から生まれた魔物だから?」
なんとはなしに聞いてみると、ロレンツィオは私を真っ直ぐに見た。
「まさにその通りさ……僕らは、人の血をもらう代わりに、同じ種族にしてしまえる。だから、魔王のように別種同士でつがうことにはならない」
「私に、あなたと同じものになれというの? その方が、ジェズアルドよりも良いはずだって、そう言いたいわけ?」
「良く分かっているじゃないか」
言いながらロレンツィオはゆっくりと私に近づいてきた。私は火かき棒を構える。
私は歩いてくるロレンツィオに集中した。近寄ったら、これで殴りかかってやるつもりだ。だが、ふいに足もとに違和感をおぼえて視線を下に向け、私はぎょっとした。
「何よこれ、痛っ!」
足に、薔薇のツルがからみついていたのだ。たくさんあるとげが肌に刺さり、そこから幾筋もの血が流れだす。つるは生きもののように俊敏に動き、痛みにひるんだ私からから火かき棒をあっさりと取り上げてしまった。
「あっ!」
思わず手を伸ばすが、二本の火かき棒ははるか遠くに放り捨てられる。これで、十字架が効くかどうか、試してみることも出来なくなった私は、自分のまぬけさに小さく悪態をついた。
「むだな抵抗はやめなよ、せっかくきれいな肌をしているんだし、傷をつけたくない」
私は足だけでなく、腕や胴にまでからみついてきたつるから逃れようともがいた。けれど、つるは意外に固く、ちぎってもちぎっても次々と再生してくるため、ついには手首もからめとられる。こちらにはとげがなく、血だらけになることはなかったが、締めつけが痛い。
「結局は力にものを言わせようってわけね、最低! ジェズアルドは紳士的だったわよ。あなたのはただの見かけ倒しね、そんな服装じゃなくてもっとそれらしくしたらいいわ」
私は怒って言った。
「いくら姿や種族が同じでも、こんなやり方する奴なんか私は好きにならない! 軽蔑するだけよ、ジェズアルドの姿を見せて言いくるめようったってそうはいくもんですか」
「へぇ、じゃあ君はあの巨大な犬の妻になってもいいんだ」
問われて、私は言葉につまった。
心の中はぐちゃぐちゃだった。まるで磔にされたみたいな格好で、今にも吸血鬼に襲われそうな状況の中、まともにものを考えるなんてできるわけがない。しかも、その前に天涯孤独であることを突きつけられ、淡い恋心を抱いた相手の、人間ではない姿を見せられているのだ。
涙が勝手に涙腺からあふれ、頬を伝う。
――わからない、なにもかも。
でも、このまま吸血鬼になるのは嫌だ!
涙を払いたくて、まぶたを閉じる。そこに浮かんだのは、優しくほほえむ魔王ジェズアルドの顔だった。




