【30 薔薇の城】
頭が痛い。体がだるい。
私は重いまぶたを開けて、ぼんやりする頭で考えた。思考にかかった霧はなかなか晴れず、疲れ切ったときのように、すべてが気だるい。けれど、ゆるゆると思考力が戻ってくると、私は飛び起きた。
と、同時に、またしても唖然とした。
「ちょっ、何コレ、何ココ、気持ち悪い!」
思わず叫ぶ。まだ頭はガンガン痛むが、それどころじゃない。私が寝かされていたのは、天蓋つきのふかふかベッドで、なぜか周囲に薔薇の花びらが散らされていたのだ。しかもすごい量。
それだけではない。ベッドの外にも花びらが絨毯よろしく敷きつめられ、目まいを起こしそうなほど強い芳香が部屋に充満している。室内はやや薄暗く、枕もとや壁などにろうそくが灯され、やわらかなオレンジ色の光がそれらを照らし出していた。
天蓋も薔薇模様で、ピンク色をしており、緑色の壁にも淡い桃色の薔薇が描かれている。あまりに薔薇だらけすぎて、むしろ薔薇嫌いになりそうだ。好きな花ではあるけれど、ここまで来ると完全に狂気の勢いである。
ジェズアルドが整えてくれたピンクだらけな妃の部屋が、ごく普通の部屋に見えてしまうほどだ。
突っ込みどころが満載過ぎて、むしろどっと疲労を感じた。突っ込み。その言葉で私はようやくショルダーバッグがないことに気づいた。うそでしょう。あの中にハリセンが入ってたのに。私は焦って、周囲をきょろきょろと見まわすが、それらしいものは見えない。取り上げられてしまったようだ。
「ああ……どうしよう」
つぶやくと、頭の上がもぞもぞ動いた。しばらくじっとしていると、手もとにクロスケがぽとりと落ちてくる。小さな体を震わせて、何かを伝えようとしているのだが、残念なことにさっぱりわからない。
「ごめんね、でもあなただけでもいてくれて嬉しいよ」
ぼやくように言うと、私は少し冷静さを取り戻した頭であらためて部屋を見る。ここは寝室らしい。重厚な扉が足の方にあるので、そこを開ければ他の部屋に行けそうだ。妃の部屋よりも大きいような気がする。
全体的に陰鬱な印象で、壁は灰色の石。薔薇の花びらのすきまからのぞく床も、おなじ材質。窓は大きいが、外が暗いのであまり意味をなしていない。
「ああ、なんとなくわかってきたかも」
私はすぐ横の花びらをつまんで目の前まで持ち上げて眺める。疲れたような、乾いた笑いがこみあげる。これには見覚えがあった。
あの吸血鬼――ヴァンパイアがまき散らしていた花吹雪がこれだった。あの時は目や鼻や口をふさいでくれて、果てしなく迷惑だった。
「これって、罠よね」
ため息をついて、私は寝台から下りる。クロスケは私の頭に戻る。ふと、姿見が置かれているのに気づいて、着衣を直す。服は着てきたままだ。特になにかされたようすはない。ちょっとほっとしてから、心に不安が忍び寄るのを感じた。
「ジェズアルドとガーグ、大丈夫かな……」
もしもここがあの吸血鬼の根城だとすれば、私たちは完全に罠にかかったということになる。用があるのは恐らく私だけ。私はどんどん思考がマイナスの方へ向かって行くのを感じ取り、思いっきり首を左右に振った。
「私がなんとかしなくちゃ……」
そう言ってはみたものの、ハリセンがなければ私にはどうにもならない。
腕輪はきちんとある。ただし、マッシモの黄色い腕輪はない。赤と青の腕輪に触れたあと、指輪を見る。ビビアーナ?に妖しい魔法をかけられたとき、これは反応しなかった。もしかしたら、ジェズアルドがあの状態ではきちんと機能しないのかもしれない。
とりあえず、怪しい扉の前に立つ。鍵がかかっているかもしれない。そうなら、ここにあるもの全てぶつけてでも破壊してここを出てやる。私は気合いを入れて取っ手に手を掛けた。そっと押してみる。だが、扉は音もなくあっさりと開いた。
拍子ぬけした気分で、私は扉の向こうへ足を踏み出す。
そこは居間のようになっていて、テーブルとソファ、大きな暖炉がある部屋だった。暖炉の上には油絵が飾られており、あの吸血鬼とよく似た美麗な男性がこちらを見ている。その近くには、似た顔立ちの女性や子どもの絵もあった。
ヨーロッパの貴族の館みたいだ。映画で見た印象でしかないけれど、城館か何かのように思える。
吸血鬼に城館。ぴったりすぎる。
「あ、そうだ」
私はそこまで考えて、もっと良く室内を見渡した。
「もしかしたら」
吸血鬼の弱点を幾つか思いだして、私はごくりとのどを鳴らした。もし、もしも、効果があるとしたなら、私ひとりでもなんとかなるかもしれない。だけど、と私は思った。そもそも、マッシモの時はうまく行き過ぎだったのだ。あんな簡単に終わるだなんて、予想の範囲外だった。
まあ、おかげで鏡をひとつだめにしただけで済んで良かったが。
「それでも、何もないよりはマシね」
武器であるハリセンがない以上、にわか知識の産物でもあった方が良い。私はそう決めて、とりあえず細長い棒を探す。室内にあるのは、カフェみたいなテーブルと椅子の組み合わせが三つほど。椅子は、かなり重厚な作りで、私が壁に叩きつけたくらいでは壊れそうにない。
「ふ~む」
顔をあげると、きらびやかなシャンデリアが吊るされている。
さすがにあれには手が届かない。視線を暖炉に戻したところで、なにやら長い鉄の棒が見えた。確か、中の灰をかきだすやつじゃなかったっけ。私は暖炉のそばへ行き、それを二本手に取った。
「とりあえず、これを持っておこうかな」
つぶやいて、くっついた灰を叩き落としていたとき、背後から声がかかった。
「何をしているんだい?」
私は振り向いて、ものすごく嫌そうな顔をした。そこには、予想通りの人物が、やたら気取ったポーズを決めて佇んでいた。