【29 毒花の住処】
目まいのするような感覚に包まれてすぐ、妙な浮遊感が体を襲う。
ジェズアルドに抱えられていなければ、気を失っていたかもしれない。私はしばらくそれに耐え、目を閉じて体を固くした。やがて浮遊感がなくなり、足が固い地面の上についた感触がすると、目を開けて大きく息をついた。
「大丈夫か?」
「はい……何とか。やっぱりこれ苦手です」
私はジェズアルドの声にそう答えた。苦笑が返ってくる。それから、周囲を見渡してみた。魔界に来て、初めて見る光景だった。何より、空の色がガズルラーヴ城や、例の湖とはまるで違っていたのだ。
「夜だ……」
思わずそうつぶやいて、私は馬鹿みたいに口をぽかんと開ける。ここしばらくずっと見ることのなかった夜空だ。しかも、よく目をこらせば、星がまたたいて見える。どうなっているのかはわからないが、ひどく綺麗だった。
出発したのは朝なのに、まるで飛行機で地球の反対側に来たみたいな気分だ。いや、海外旅行なんてしたことないから、ただの例えだけれど、本当にそう思えてしまうから不思議だと思う。
それに、周辺の闇も濃い。例えるとしたら、満月の夜くらいの明るさだ。見えないことはないが、見えにくい。ふと思い立ち、ガーグやビビアーナの目を見てみると、猫のように光っているのがわかった。彼らにこの暗さは関係ないようだ。
今さらながら思う。
ここで暮らすには、人間て本当に不便。
さらに視線をめぐらせてみると、左手側には森が広がっていた。ガズルラーヴ城周辺では本当に植物が少ないので、うっそうと茂る木々を見ると、ひどく清々しい気持ちになる。ただし、幹が青かったり赤かったり、つるつるだったり、時々、風もないのにうねうね動くのが混ざっているのを見つけると、やっぱりここは魔界なのだと痛感してしまう。
きっと、大型の生きものを襲って食う、食虫植物が巨大化したようなのがいたりするんだろうな。勝手な想像だが、あながち間違いでもないはずだ。そんな確信がある。
空気もどことなくねっとりと絡みつくような重さがあり、私は体が重くなったように感じた。
「サキュバスの集落はあちらだったな。では、行こう」
「……そうですね」
ビビアーナが妖艶にほほ笑む。私は、その笑顔のなかに何かを感じて、首をかしげた。ジェズアルドは気づいていないようだ。私はガーグを見やる。普段はかなりお喋りなのに、今朝からあまり声を聞いていない気がする。
何かが、おかしい気がした。まるで、罠に自分から飛びこんでいくような不快感。
それに、この甘ったるい匂いは何だろう。うっすらとただよう、紫色がかった霧から香っている気がする。花の香りと、動物的な香りの入り混じった匂い。正直、好きになれない。ずっと嗅いでいたら頭痛がして吐きそうだ。きっとこれは良くないものに違いない。
私はそう言おうとして、隣に立つジェズアルドを見やり、息を飲んだ。
「ジェズアルド……? ガーグ?」
「ふふ、ようやく効いてきた」
含みのある声を耳にし、私は弾かれたようにビビアーナを見た。黒い蠱惑的な唇が、三日月みたいな形の笑みを浮かべている。背すじが寒くなる。私は思わず怒鳴った。
「何をしたの!」
「知らないの? これは魅了の魔法よ。私たち、闇に生きて精を糧とする魔物は、たいてい使える魔法。まあ、個体によって強さが違うけれどね。大丈夫、あなたを傷つけたりはしないから。だって、それが我が主のご命令だもの」
ふふふ、という含み笑いが聞こえた。私は持ってきたハリセン(注※封魔扇)をバッグから取り出すと、柄を強く握った。ピンチだ。どうすればこの状況を打開出来るのだろう。
ジェズアルドとガーグは、死んだ魚みたいな目をして彫像のように立っている。私は彼らと違って、戦う力はない。ただの人間でしかない私に、この状況をどうしろと?
せめてマッシモかバルトがついてきてくれていれば良かったのに、と思い、私は違和感に襲われた。そうだ。どうして今回に限って、ふたりはついてこなかったのだろう。いつもだったら、来るなと言ってもついてくるようなふたりなのに……。
「待って、まさか、あなたマッシモとバルトにも何かしたの?」
「あら、やっと気づいたの? 彼らは私たちの計画に邪魔だから、寄せ付けないようにしたのよ。魔法を使ってね。あの偉大なカトブレパスも、あれだけ魔力を削られていれば私でも簡単に魔法にかけられたわ。情けないものよね」
楽しそうにビビアーナは言う。その様子は、完全に魔性の女だ。背中に黒い羽根があったとしても、その正体が魔物であろうと何だろうと、ふらふらついていく男性がいるのもおかしくはない。
「デュラハンは私たちと同じ闇属性だから直接はだめだったけれど、間接的になんとかしたわ。さて、じゃあ後は」
ビビアーナは言いながら、口の中で呪文らしきものを唱える。
動悸が激しくなった。私の前で、ビビアーナの姿がゆらいでいく。それはまるで、目の前の風景をマーブル状にかき混ぜたみたいだった。ぐにゃり、と歪んだ光景が今度は逆戻しに元に戻ると、私は唖然とそこに立つビビアーナ――いや、ビビアーナであったはずの存在を見た。
「何、私……目がおかしくなったの?」
「大丈夫、君はおかしくなんかなっていないよ」
聞こえた声は、中音で、優しげに響く男性の声。彼は私の前までゆったりと歩いてきて、ほほ笑む。やってきたのは、ジェズアルドにも引けをとらないほどの美しい顔をした線の細い青年だった。黒いさらさらの髪、体にぴったりした黒い服、黒い唇。その顔立ちはビビアーナとよく似ていた。
「僕たちは一種の雌雄同体でね、誘惑する相手によって性別を変えられるんだ。ビビアーナはサキュバスだけど、僕はインキュバスだ。そして、この姿になった以上、ただの人間の君に、僕の魅了から逃れるすべはない」
言いながら、そっと私の頬に触れて目をのぞきこむように見つめる。
私は必死に目を反らし、ジェズアルドとガーグを見やった。のどの奥から、助けてと叫んでしまいそうになるが、ふたりとも動かない。
「目をそらしちゃだめだよ」
笑い混じりの声が耳をくすぐる。私は後ずさろうとしたけれど、すぐにあごをつかまれ、視線が強制的にまじわる。私は呻きながら、脳が芯からとかされていくような眠気と心地よさを感じた。
――だめ! 私まで意識を失ってどうするの?
そう言い聞かせても、体は言うことを聞かない。目の前に立つ淫靡な青年に、すべてをゆだねてしまいたくなる。私はぎゅっとハリセンを抱きながら、悔しさに唇をかむ。
やがて、あらがいきれなくなった体は、青年に向かってぐらりと倒れた。