【19 湖のカトブレパス】
そんな思いが届いたのか、ほどなくして馬車は止まった。が、停止すると同時に壊れるんじゃないかと思うくらい激しく揺れる。魔王に支えられていなければ天井か床に頭を打ち付けていたところだ。
顔を引きつらせていると、扉が開いてバルトが顔を出す。
「到着しましたぞ! どうです、早かったでしょう?」
そう、確かに速かった。ただし、早くても命の危険にさらされるのは困る。どう答えたものか頭の中で言葉を出したりしまったりしていると、魔王が先に口を開いた。
「早いのは結構だが、中は危なかったぞ。もっと安全運転を心掛けたほうが良い」
「そ、そうでしたか。申し訳ありませぬ……つい」
バルトは大きな体を小さくしてうなだれる。首がない代わりに、肩がものすごく落ちていた。私が声を掛けようかと迷っていると、近くにガーグがふわりと舞い降りる。
「到着したっスね、見て下さいよ。あいつ、もうあんなに魔物を石化させてるっス」
私の近くに立ったガーグは、初めて聞く硬い声で言う。彼の視線を追いながら、私は馬車の中から周囲をながめる。空はガズルラーヴ城にいたときと同じだが、岩石と土、砂ばかりだった光景が一変していた。なによりも驚いたのは、湖があったことだった。
ただし、水は緑色ににごり、湖底からかなり大きな水泡が上がってきては水面で弾けている。久しぶりに水気を見たのは嬉しかったが、なんとも気味の悪い場所だ。
周辺は湿地だったが、魔界は砂漠化しつつあると聞いたとおり、少し遠くを見やれば乾いた大地が見える。残されたオアシスのような場所なのだろう。魔物たちが、ここへ水を求めて集まって来ているのはすぐにわかった。彼らの姿がいくつもあったからだ。
ただし、その魔物たちすべてが、石像となって地面から生えている。
「なに……これ」
「カトブレパスの仕業だ。あいつの能力は見たものを石化させるというものだからな。自分の意思でコントロール出来るから、全てを石化する訳ではないが」
魔王が説明してくれた。すると、私の頭の上でクロスケが震えるのがわかる。置いてくれば良かったと今さらちょっぴり後悔したが、もう遅い。それに、あの黒い牛は私を世話係にするとかなんとかいっていたから、多分、標的にはされないはずだ。
「これ、元に戻るの?」
「……一度石化させられたら、カトブレパスが元に戻さない限りだめっス」
「そんな」
私は、たたずむ石像の数に圧倒された。自分のせいなのだ……手に持ったハリセンを強く握りしめて、私は激しく打つ心臓をなだめる。怒りがこみあげる。何としてでも、これでもう一度封印するのだ。そして、彼らを元に戻してもらう。
「そんなに気負うな……事故だったのだから、仕方がない」
魔王が優しく声を掛けてくれる。だけど、私は首を横に振った。
「いいえ、出来ることは何でもします。自分のミスで、こんなにたくさんの命が消えるなんて、そんなの嫌です」
「そうか……ああ、奴が気づいた」
魔王が湖面を見て、表情を引き締める。私は、彼の視線を追いかけた。緑色のどろりとした水面に、ごぽごぽと大きな泡がわき出してくる。泡は次々と湖面で弾けた。それが激しさを増すと、勢いよく水しぶきがあがる。
私たちの目の前に、あの牛がいた。薄いしゃぼん玉のようなものの中に、巨体が浮いている。
「おでましか、言っておくが、簡単に封印される俺様じゃないぜ」
「かつて余にあれほどの大敗を喫したことを忘れるとは、ずいぶんとお目出度い頭をしているな」
魔王が不敵に笑いながら、てのひらを上に向けた。そこに、紫色を帯びた電撃を、むりやり丸い形にしたようなものが現れる。私は驚いて後ずさった。
すごい、魔法だ。映画の中で繰り広げられているような光景が、現実のものとなっている。
「うるせぇよ……俺だって対策を考えてこなかった訳じゃないぜ」
黒牛は言って、首を左右に何度も振る。やがて、巨体がかげろうのように揺らぎ、小さくしぼんでいく。気づくと、黒牛は人の姿に変化していた。私は、ガーグに聞いた話を思い出してぞっとする。人間に化けられるのは、ごく一部の魔物と、凄まじい力を持つ魔物の二通りだけだというものだ。
つまり、相当手ごわいということである。
「ほう、その姿は久しぶりだな、マッシモ」
「魔力合戦するんなら、牛より小回りのきくコッチの姿の方がいいからな。あのときもこうしてれば勝てたって封印されてる間中、ずっと考えてたんだ。今度は負けねえぜ、魔王の地位も、その娘も俺が頂いてやるよ!」
マッシモと呼ばれた黒牛は、そう言うと叫んだ。
「スオール・ストゥッファ! 砂よ、俺の声を聞け!」




