【1 魔界へようこそ!】
私は、叶わない恋をしている。
ずっと、彼には大切に思うひとがいた。けれど、その思いが叶うことはなぜかずっとなくて、いつかこっちを見てくれるんじゃないか、と私は淡い期待を抱き続けては、ふともれ聞く声に胸をおどらせていた。
同時に、その恋しい声が彼女の名前をささやくのも耳にして、深い傷を負う。
それが、ここしばらくの日課だった。
「……あ」
それは、弱い雨が降りしきる暖かな午後。
休日だからと買い物に出かけていた私は、またしても降ってきた雨にゆううつな視線を向けつつ歩いていた。楽しみにして出掛けると雨が降るこの体質、どうにかしてほしい。
欲しい服があったので、私は人でにぎわう大きな百貨店を楽しく見て回った。でも、高すぎて手が届かなかった。たかがジーンズが一万円とか、私の収入からすればぼったくりじゃないのかと思える値段だ。
そのあとはカフェでごはん。まあ、ジーンズを買えなかったことを除けば、悪くはない休日だったかも。
そんなことを考えながら歩いていたら、見慣れた影が楽しそうな笑い声をあげながら歩いてくるのが視界に入った。なんて偶然だろう。一瞬、胸が高鳴る。嬉しくなって、声をかけようとして、私は動きを止めた。
その隣りに、彼がずっと想っていた彼女がいたから。
ふたりは、仲良く手をつないでいる。
傘を落とさなかったのだけは、褒めてもいいと思う。
それくらい、ショックだった。私は傘で顔を隠しながら、彼らとすれ違う。嬉しそうに、弾んだ声が耳をかすった。彼はこちらに気づきもしない。
涙がにじむ。どんな努力も、結局は意味なんかなかったんだ。
私は、必死に目をぬぐいながら歩いた。しばらくバスには乗りたくない。こんな顔をして乗り込んでいくなんて嫌だった。
彼が好きだと言うから、髪をのばした。目の大きい子が好きだと訊いたらすぐに、アイメイクを頑張った。料理の出来る子がいいよねというのを聞きつけては、ひとり暮らしの家で必死に料理の本とにらめっこをして手に切り傷ややけどを作って練習した。好きだという音楽も訊いたし、本も読んだ。
そのすべてが、無駄だったのだ。
「あ~あ、馬鹿みたい」
自嘲気味に言って、どんどんと歩き、人気のない瀟洒な民家の並ぶ通りへと入っていく。歩いたことのない場所だったけれど、位置さえわかっていれば帰れる。今はただ、歩きたかった。
くるくると、空色の雲模様の傘をまわす。
その行為に意味なんてない。
頭から、今までのことすべて追い出したい。忘れたい。どうしよう、まだこんなに好きなのに。どうしたらいいんだろう。涙は勝手ににじんで、頬を伝う。
せめて、一度でいいから、好きな人に好きだと言われてみたい。
私の方から誰かを好きになることはあっても、他の誰かに恋愛対象として見られたことはなかった。
近くを、男性と腕を組んだ女性が通り過ぎていく。
彼女と私。何が違うというのだろう? 容姿の面では、大差ないはずなのに。寂しくて悔しくて、足もとの石ころを蹴飛ばす。
私はさらに歩いて、歩いて、小さな水音をたてて水たまりにブーツの先をつっこんだ。そして、ふいに足もとが崩れ去るような感覚に襲われた。
ああ、ついにショックで転んじゃったかな、私、と思ったら違った。
とりあえず、涙はすぐにとまった。
ただし、別の衝撃で違う涙がこぼれる。口からは悲鳴も一緒に飛び出した。
そう、私は落下していたのだ、高い高い空中にいきなり放りだされていた。地面は本当に崩れ去っていたのだ。見上げた上には灰色のどんよりと曇った空が広がっている。あれが、今まで私が見ていた空だ。手を伸ばして、戻ろうと空を引っ掻くが、もちろん手が届く訳もない。
このまま死ぬのか、そんな思いで落下して近づく地面を見る。赤茶けた大地が広がっている。なんなの、ここはなに、どうしてこんなことになってるの?
心の中で叫ぶも、答える者はなく、私はなすすべもなく落下していき、自殺死体みたいになることを覚悟して目を閉じた。が、そうはならなかった。ふわり、とお尻が浮いた感覚がある。奇妙な浮遊感は、ジェットコースターで下るときのあれに似ていた。
「はいはい、お妃さまのご来界~」
のんきな声が聞こえた。ついでに羽ばたきの音もする。私は恐る恐る目を開けて、叫んだ。
「ぎゃあああああああああ! 嫌ーっ、離して離して気持ち悪い!」
「え~、助けに来たのにひどいっス」
私は、その生きものにお姫様だっこされた状態で宙を飛んでいた。
その生きものは、全身が真っ赤で、顔が毛のないニワトリだった。背中に生えた黒いコウモリみたいな翼で浮いている。肌はいわゆる鳥肌というやつで、鶏肉の皮みたいに穴がぷつぷつしているのが非常に気持ち悪い。
「離して! 降ろして、ここ何? どこ? あんた何?」
「何とか言わないで下さいよ。ここは魔界っス、オレはガーゴイルのガーグっス、よろしくっス」
よろしくされても激しく困る。どうすればいいんだ。
私は気色悪さにしばらく耐えて、足のつく場所に降ろしてもらってから、凄まじい勢いで後ずさった。それこそ光速の勢いで。
「あ、ありがとう。でも来ないで、触らないで、だめなのよそういう肌、ぷつぷつしてるのは無条件にだめなの、ホント、ごめんなさい?」
大混乱の中、必死になりながら言う。
もう訳がわからない。さっきこの気持ち悪い生きものは何て言ってた? 魔界? そりゃ私は漫画好きですから名称は知ってますけど、そんな場所が存在しないことくらいわかってます。
「むぅ、仕方ないっスね。じゃあ人に化けますから待ってて下さいよっと」
ガーグとやらはそう言うと、全身に力をこめて毛穴からなぞの灰色をした煙を出す。私はそれを手で払う。こんななぞの煙、死んでも吸いたくない。というか、吸ったら死にそうだ。
さらに後ずさりしながら見ていると、彼はひとりの少年の姿になった。
赤毛に赤茶色の目をした、可愛らしい少年である。
赤いパーカーみたいな上着と、同じく朱色の半ズボン姿だ。足もとはなぜか包帯をぐるぐる巻きにしたような感じだが、とりあえず人間の姿をしている。しかし、中身はアレなんだ、騙されんな私と言い聞かせつつも、先ほどまでの嫌悪感は薄れている。
「これならいいっスよね? では改めまして、魔界へようこそ!」
「え、それ本気で言ってるの?」
「当然です。あなた様はこの魔界を統べる第300代目魔王ジェズアルド様の十人目のお妃さまとして召喚されましたっス! おめでとうございますっス!」
胸を張ってそう言いきったガーグの言葉に、私は頭が真っ白になった。