ねこのきもち
はじめまして&こんにちわ。
本作は諸事情から長い間封印していたものに、加筆修正を加えて、ようやく公開に踏み切った物語です。
何の変哲もない、淡々とした物語ですが、楽しんでいただけたら幸いかと存じます。それでは、最後までお楽しみくださいませ。
細かい話は「後書き」にて。
俺の名はタマキチ。
今、変な名前だとか、ダサい名前だなとか思ったヤツ、前へでてきやがれ。俺の鉄鎌より鋭い爪で、その澄ましたお前の顔を血まみれになるまで引っ掻いてやる。
『タマ』の付く名は、俺たち猫にとって、とても由緒正しい名前なのだ。
今、雑種の黒猫のくせに何が由緒正しいだとか言ったヤツ、どうやら俺の黄金の腕が繰り出す『必殺猫パンチ』を喰らいたいみてえだな。
いいか、血統だとか、品種だとか、そういう由緒なんつうもんは人間が勝手に決めたことじゃねえか。それが猫社会にまで適応されるなんて、思い上がりもほどほどにしておけよ。猫社会において決定づけられる地位は、たった二つしかない。誇り高く己の生き様を貫く『野良猫』か、人間どもに文字通り猫なで声で媚を売る『飼い猫』の二つだ。どちらが上かなんて、言うまでもねえ。
俺の親父もおふくろも野良猫界のエースだった。そういった意味じゃ、俺は由緒正しい野良猫だった……だったなんて過去形なのには、理由がある。
俺がヘマをやらかしたのは、去年の暮。昼すぎから降り始めた雨が、いつの間にやら雪に変わるなか、俺は危うく行き倒れになるところだった。
そのいきさつを語るには、まず野良猫の社会と掟ってやつを語らなきゃならねえ。
猫に社会があるのか、なんて思っただろう? たしかに、人間界では「猫はあまり群れを成さない」とか、「社会性は薄い動物」と認識されているようだが、それはあくまで猿から進化した人間が形成する社会の尺度で測っているに過ぎない。
野良猫は街ごとにいくつかの派閥に別れていて、おのれの領土を固く守っている。所謂縄張りだ。ボスを頂点とする猿型社会とは違い、どちらかと言えば利益共有する集合体みたいなものだ。そのため、よそ者が無断で縄張りを侵せば、全員で袋だたきにするのが掟だ。
一方、どの派閥にも与しない、一匹狼ならぬ一匹猫という、イカした風来坊もいる。町から町へあてどない旅をする、生き方は野良猫のなかの野良猫、猫の真の姿と言ってもいいと俺は思う。かく言う俺は、その風来坊だった。
親父は故郷の派閥に与し、一目置かれる存在だったが、俺は親父のあとを継ぐ気はさらさらなかった。故郷を捨てて、人間の社会を横目に、あちらこちら旅をする生き方を選んだ。
そんな風来坊にも掟がある。第一に、風来坊同士は、助け合わなければならないという掟だ。だれも縋る者のいないその日暮らしの生活だからこそ、困った時はお互い様の精神を忘れちゃならねえ。これは、人間の社会でも言えることだ。そして第二の掟が、派閥の縄張りを横断する時には、きっちりスジを通さなければならねえということだ。
派閥にとって俺たち風来坊は、結局よそ者だ。スジの通し方は、いろいろだ。顔の利くやつ頼むとか、通してもらうために賂を支払うとか。
え? 人間社会も似たようなものだって?
そうか、まあ、だいたい社会なんてものは、一部のヤツが住みよい暮らしを続けるために、残りの一握りが辛い目をみなきゃならねえ。そういうもんだ。たしか、あれだ。人間社会ではそういうのを「格差」とかいうんじゃなかったか?
まあ、それはさておき、俺は第二の掟を破っちまった。それほど大きな縄張りでもないし。折しも猫にはつらい季節。ほら、人間の歌であるじゃねえか「猫はこたつで丸くなる」ってやつが。あれは言い得て妙だ。猫は冷たいのが苦手だ。ついでに水も苦手だ。雨や雪に濡れるなんて、命にかかわる。だから、とっととこんな小せえ縄張りは通り抜けて、落ち着いて雨宿りできる場所を探そう。そう思ったのが運のつき。
話は変わるが、俺は強い。口で言っても分からねえかもしれねえが、腕っぷしなら相当なもんだ。そこいらの猫どもに引け劣らねえ。
とは言え、それは一対一での決闘の場合に限っての話だ。「多勢に無勢」とは良く言ったもので、いくら腕っ節を自慢したところで、実力の限界くらいは、弁えている。三十六計逃げるに如かず。実力知らずで突撃して玉と砕けることは、俺たち猫の美学じゃあねえ。
だが、その時はあっという間に退路をふさがれた上に、文字通り袋叩きにされて、逃げることもできなかった。もともと、油断してスジを通さなかった俺のミスだ。命を捕られなかっただけでも、ありがてえと思わなけりゃならねえだろう。
いや、アイツがいなかったら、その命すら危うかった……。
道端に倒れ、雪が積もり黒猫が白猫になりかけた俺を助けてくれたのは、人間だった。正確に言えば、人間の若い女。やたらと顔一面に塗りたくった化粧の匂いをプンプンさせ、豊満な胸を強調した赤のワンピースと、ふさふさのカシミアコート。肩から提げたバッグはてっかてかで、きっと人間が大好きな「ブランドもの」とかなんとかいうやつに違いねえ。どう見ても、まっとうな部類の人間には見えなかった。
「どうしたの、こんなに大怪我して……。可哀そうな猫ちゃん」
瀕死の俺を見つけた女は、膝を折って何故か憐れむような顔で俺の頭を撫でた。人間はことのほかいろいろなことに無関心すぎるきらいがある。道端に転がったみすぼらしい敗者の猫なんて、人間の目には汚らしいものにしか映らない、と俺は思っていただけに、女の行動は理解に苦しんだ。
そして、もしもこれが人間が無心に信じる「神様」ってえヤツの与えてくれた奇跡だというのなら、理解など必要じゃない。俺は最後の力を振り絞り、藁をも縋る気持ちで「たすけてくれ」と女に救いを求めた。
だが、人間の耳には「ニー」と鳴いているようにしか聞こえないだろう。俺たちが人間の言葉が分からないように、人間も猫の言葉が分からない。そもそも、発生の仕方や声帯が違うから、人間のようにしゃべることは出来ない。
言葉が伝わらないんじゃ、仕方ねえ……。ここでこのけばけばしい恰好した人間の女に看取られて死ぬのも悪くはない。誰にも見られないようにひっそり死ぬのは、猫の美学だが、それはちょっとばかり寂しすぎると思っていたところだ。
ふわふわと遠のく意識の中、俺は不意に体が軽くなるのを覚えた。
ああ、これが死ってやつか。などと意外にも冷静に、感傷的になっていると、女が俺の耳元で言う。
「今助けてあげるからね。しっかりするのよ!」
言葉の意味は良く分からないが、雰囲気で察しがつく。どうやら俺を助けてくれるつもりらしい。女は、自分に雪が降りかかるのも気に留めず、冬の街を駆け抜けた。だが俺は、犬猫の愛らしい絵と『動物病院』の文字が明かりに照らされた看板の、小さな家に連れ込まれたところでとうとう意識を失った。
目覚めた俺は、包帯でぐるぐる巻きにされていた。まず目に飛び込んで来たのは、散らかり放題の部屋。ここが人間の巣だということは、すぐに分かった。人間の図体からすれば、この部屋はひどく狭い。衣類や化粧道具などの物が雑然としている所為もあるだろうが、もともと小さな箱みたいな部屋なのだろう。とても快適な住まいとはいえねえ。
俺はその部屋の隅に置かれた、ベッドの上に寝かされていた。俺の体を包み込む毛布からは、かすかにあの女の化粧の匂いがする。
「おおい、誰かいねえのか?」
俺は声を上げた。全身の傷がズキズキと痛む。もちろん、あの女の耳には「ミー」と鳴いているようにしか聞こえないだろう。それでも、俺の鳴き声を聞きつけた女は、バスルームと呼ばれる個室から、バスタオル一枚羽織った姿で駆けつけてくれた。
どうやら、風呂にでも入っていたらしい。人間は、汗や汚れと一緒に疲れを落とすために、風呂なるものに入る習慣がある。頭から水をかぶるなんて、猫の常識じゃ考えられないが、ちょうどその時、女も風呂に入っていたのだろう。バスタオルからのぞく素肌からは湯気が立ち上り、長い髪は濡れていた。そして何より、あの濃い化粧はきれいさっぱりと落ちている。
「あら、ようやくお目覚めね、猫ちゃん」
女はホッと胸をなでおろしながら、湿った手で俺を抱き上げた。ほんのり石鹸の香が俺の鼻をくすぐる。
「けがは大丈夫? どこか痛いところはない? お腹すいてない?」
矢継ぎ早に女が問いかけてくる。だいたい何を言っているのかは、雰囲気で察することが出来るが、だからと言ってそれに返答を返したところで泣き声にしか聞こえないのでは、埒が明かねえ。ところが、俺が黙っていると女はやたらと不安そうな顔をして、俺をベッドに戻すと、薄いタオルケットを俺の体にかけてくれた。
「しばらくは、歩き回れないだろうって、お医者様が言ってたの。だから、安静にしていてね。着替えたら、あったかいミルクを持ってきてあげるからね」
まるで人間の子どもに対して語りかけるような口調。だが、俺は人間じゃないし、ガキでもない。それでも、女はそそくさと風呂場に戻ると、一分もしないうちに部屋着に着替えて戻ってきた。その姿はあの夜とは別人のように、質素でみすぼらしい。人間は、化粧と衣類で化けることが出来ると聞いたことがあるが、この女の姿を見て、初めて実感した。
女はキッチンでミルクを温めるとを、俺に差し出してくれた。お腹がすいていたから、ちょうどいい。しかし、猫は猫舌というのは、人間にも周知のことだと思っていた。どうやらそれは俺の勘違いだったらしい。俺はミルクの熱さにいちいち痺れながらそれを飲み干した。そうして、お腹が満たされると再び眠気が襲ってくる。もうしばらく、ここでゆっくりするとするか……。女のほほえみを横目に、俺は眠りについた。
とは言え、傷が治ったら、さっさとお暇するつもりだった。風来坊は一つの屋根に長居しないもの。宿無しでもやっていくだけの知恵は持っているし、一度やらかしたヘマを二度するような、へっぽこじゃねえ。
そんな俺を救ってくれた命の恩人には、一宿一飯の恩義に報いたいところだが、あいにくと人間の喜ぶようなものは持ち合わせてはいない。無償の慈悲だけありがたく受け取り、心の中で感謝を述べておきたい。猫にしては殊勝だって? バカ言っちゃいけねえ。人間の尺度で物事を計るなと言ったはずだ。猫にだって、義理を感じることぐらいできる。ただ、義理の考え方が人間のそれと同じとは限らないが、おおむね、鳥と虫以外なら動物なら恩義に報いたいと思うのは至極当然だ。鳥と虫だけはいけねえ。鳥はバカだから高尚なことは考えられねえ、虫はそもそも物事を考えることすらありえねえときたもんだ。
あいつらと俺は違う。これでも誇り高き野良猫だ。
ところが、気が付くと俺はなぜか首輪をされていた。赤い革のベルトに、小さな鈴が付いている。歩くたび、背伸びをするたび、耳の後ろを掻くたびに、チリチリと音を立てて苛々する。その上、こともあろうか俺は『ルドルフ』なる名前まで与えられたのだ。
そう、なんだか知らないうちに、俺は女の『飼い猫』になってしまった。いや、成り下がってしまっていた。
俺には『タマキチ』という名前がある! と怒鳴りつけて、こんな首輪外してやりたいところだが、俺の言葉は泣き声にしか聞こえないし、俺の指は首輪のベルトを外すほど精緻な動作に向いていなかった。剰え、逃げ出そうにも、女は出かけるときには必ず、部屋の扉の鍵をがっちり閉めていく。しかも、俺たち猫が本領を発揮する夜中に出かけていくものだから、女が部屋にいる隙を狙おうにも、反対に俺の動きが鈍くなってしまい、逃げ出せない。
ああ、何という不運なのか!
自分の境遇を呪いながらも、なんだかんだと差し出される餌にありつけることがありがたいと思うあたり、俺もまだまだ修行が足りねえらしい。
まあそれは置いておいて、とにかく『飼い猫』という立場と、『ルドルフ』という名前から、脱出を試みなければならない。そのためには、まず飼い猫になった振りをして、幸を安心させる必要があった。なるべく人間の言うところの「猫に撫で声」とやらで媚を売り、ルドルフと呼ばれることを嫌がったりしないようにする。そうして、女が油断した隙を突いて逃げ出すのだ。もしも、そんな俺の姿を親父とおふくろが見たら、きっと嘆くことだろう。だが、背に腹は代えられねえ! 男ルドルフ……じゃねえ! タマキチ! ひとつ大勝負と行きますか!!
あずかり知らぬところで勝手に俺を飼い猫にして、大事な名前まで奪った人間の女の名前は、佐野幸という。これは後になって知ったことだが、幸の仕事は「キャバ嬢」と言うらしい。夜中に開店するクラブという店で、人間の中でも特別派手な化粧をして、異性の客をもてなすのが仕事らしい。なるほど、幸が夜中になると出かけていくのは仕事をするためだったか、と合点がいった。
その仕事は、蔑まれるほどではないが、人間の中にはそういった仕事に一線置く者も少なくないらしい。どうしてなのか、猫の俺にはよく分からない。
強いて言えば、普段の幸はとてもおとなしい性格で、何故か俺にやたらと優しくしてくれる。仕事に出かける際の、化粧まみれの顔よりも、純朴そうな素の顔の方が、彼女には似合っているのではないか、と思うほどだ。だから、彼女がそういう仕事に就いている理由は、更なる謎だった。
しかし、その謎を解くカギは、意外にも部屋の中にあった。
幸が出かけているあいだ、暇を持て余した俺は、部屋の中をあれこれと探ってみた。だが、さすがに散らかり放題の部屋とは言え、暴れまわるような節操のないマネは出来ねえ。なので、そっとだ。まあ脱ぎ散らかした洋服やら、昨日の夕食の残飯やら、どうにもこうにも幸は人間社会で流行の『片づけられない女』らしく、少々暴れまわったところでバレたりはしねえだろう。
そんな散らかった部屋で、唯一綺麗に整頓された場所が一つだけある。部屋の片隅に設けられた、スチール製の本棚だ。人間は『本』と呼ばれる紙の束を眺めるのが好きな生き物だ。そこには、文字という人間だけが持つ言葉の具現が羅列されており、そこからさまざまな情報を読み取るのだと、聞いたことがある。あいにくと、俺は文字を読むことは出来ない。複雑に組み合わされた線と点に、何の意味があるのか分からない、というのは人間を除く、ほぼすべての生き物に共通した見解だ。
俺たちにとって、文字や本がどれだけの意味を持っているのか、わからねえ。それでも、幸は本棚に何冊も並べられた分厚い本を、とても大事にしていた。
これも後で知った話だ……。
その本には、動物の怪我や病気を治す方法が書いてあるらしい。幸の父親から譲り受けたものだそうで、随分と色あせて古びていた。
幸の夢は動物の医者になることで、キャバ嬢という今の仕事を本職としているわけではなかった。彼女はその本に書いてあることをより詳しく学ぶ『学校』へ行くために、今の仕事で資金を集めているのだそうだ。
人間には動物を治療する力と知識があって、かくいう俺もそれに助けられて、その存在や素晴らしさを実感した。だが、その力は生まれついて備わっているものではなく、学び、会得しなければならない。そう、俺たちが餌を見つける方法や、喧嘩に勝つための技を磨くのと同じように。だが人間の社会は妙に複雑で、『学校』と呼ばれる場所で勉強し、その力を使うための許可を得なければならない。俺から言わせれば、実践して身に着いたなら、誰に断ることもないじゃないかと思うのだが、人間には人間のルールがあるらしい。誰でも会得した技を勝手に使っていいわけではない。実に、頭でっかちの人間らしい、と言えば人間らしい。
だが、その学校とやらへ行くには、莫大な金が必要だった。金属の板や紙切れと交換しなければ、食い物一つ手に入れられないのが、人間の社会の変なところだ。金が人間にとって、命の次に大事なものだということは、ずいぶん前から知っていたが、そのために人間にとっては辛いはずの時間帯である深夜まで、仕事をするのは本当に理解できねえ。
それでも幸が、そうまでして金を集めて、動物の怪我や病気を治す力を手に入れたがっているのか、それはもっと理解できねえことだった。
すっかり俺の怪我が治り、俺を束縛する包帯から解放されたのは、ひと月あまりが過ぎたのちのこと。いよいよ、俺は脱走計画に本腰を入れることにした。いつまでもぬるま湯のような飼い猫暮らしを続けたのでは、俺のプライドが許さねえ。なんたって、俺は誇り高き野良猫だ。
このひと月、猫なで声で鳴きまくった成果か、幸はすっかり油断している。しかし、仕事や買い物以外で幸が部屋から出ていくことはまずなかった。そして、部屋にいる間は、本棚に並べられた件の本を取り出しては、熱心に机に向かっている。物音一つでも立てれば、気付かれてしまうだろうし、何よりこの部屋の出入り口にあたる扉は、鉄でできていて、俺の独力では小さな隙間すら開けることが難しかった。
このままじゃ、ノーフューチャー!!
チャンスはないものか、チャンスはないものか、俺は何度も隙を伺いつづけた。すると、意外なことに一見逃げ場のない密室に思えた雪の部屋に、とある隙があることに気付く。
人間は着ている衣類を、ぐるぐる回るやかましい機械で洗う。その機会のことを『洗濯機』と言うらしいのだが、洗ってびしょびしょになった衣類を、ベランダの物干しにかざし、天日で乾かす際に幸は、ベランダの引き戸を少しだけ開けっ放しにする癖があることに気付いた。
その隙間からなら、俺のスリムなボディが通り抜けられそうだ。そして、洗濯物を干す幸の足元を素早く走り抜けてしまえば、俺は晴れて自由の身になる。ただ、幸の部屋は、幾つもの個室が連なる大きな『アパート』と呼ばれる建物の三階にある。いくら身軽な俺達でも、三階の高さから飛び降りることは難しいが、そのあたりは当たって砕けろだ。上手く隣室のベランダなどを伝えば、一階へ降りることも難しくはないだろう。
しかし、幸は一人暮らしで片づけられない女のためか、一週間に一度だけまとめ洗いをするため、そのことに気付いてから、チャンスは七日後にまで持ち越されてしまった。
そして来るその夜、俺は七日間もの長い時間を耐えて、ようやく来る洗濯物の日を明日に控え、心なしかそわそわしていた。落ち着かないし、やることもないので、部屋に転がっていた偽物の真珠をあしらったイヤリングを転がして遊んでいると、深夜の仕事を終えた幸が部屋に帰ってきた。
いつもより少し遅い帰宅だった。いつもなら仕事を終えた疲労と安堵に包まれたような声で、
「ただいま、ルドルフ」
と、真っ先に俺の頭を撫でに来るのだが、その夜は部屋の扉が重たく開き幸が部屋に入ってくる気配がしたきり、いつもの声は聞こえてこなかった。それどころか、スンスンと鼻をすするような声だけが、部屋の中を駆け回っていった。
さすがの俺も心配になってしまった。
「どうした、何かあったのか?」
例外なく俺の問いかけは、幸の耳には鳴き声にしか聞こえていなかっただろう。しかし、幸は俺の顔を見ると、堰を切ったように「わーん!」と大声で泣き始めてしまった。そんな幸の姿に、俺はぎょっとなる。
出かける前に一時間近くもかけて整えていったはずの髪は乱れ、膝や肘などあちこちをすりむいている。それ以前に、幸は人間にしては整った顔の、それも大きな瞳の周りに、青痣まで作っているではないか。何かあった、どころではないことくらい容易に察しが付くと言うものだ。
幸は涙でくしゃくしゃになりながら、俺を抱き上げると、何度も俺の名前……勝手につけた「ルドルフ」と言う名を呼びながら、しばらくの間嗚咽を繰り返した。
そうして、どのくらい時間が過ぎたのかよく分からない。抱き上げられた俺は、たとえ女とは言え人間の強靭な力の前に、成す術もなく、幸が泣き止むのをひたすらに待った。隙を突いて逃げ出す計画は、これでおじゃんだな、と思ったのは、幸が泣き止む頃。窓の外は少しずつ白み、冬の遅い朝を迎えようとしていた。
ひとしきりと言うか、たっぷり泣いた幸は落ち着きを取り戻したのか、ベッドの隅に寄りかかり俺を膝の上に乗せた。
その時、幸がなぜぼろぼろで帰宅してきたのか、なぜあんなにも泣いたのか、その理由はよく分からなかった。そして、俺はなぜそんな幸の傍に黙って寄り添ってやったのか、それもよく分からなかった。ただ、なんとなくこのまま幸のもとを後にしたら、後味が悪いような気がしたのかもしれない。
「ごめんね、ルドルフ」
人間の言葉は相変わらずよく分からないが、このひと月でなんとなく雰囲気を察することが出来るようになった。人間が学ぶように、猫だって学ぶ。おそらく、幸は俺に謝罪しているのだろう。誤られるようなことは何一つないというのに。
幸はその言葉を皮切りに、ぽつりぽつりと何事か俺に語りかけた。それはほとんど独り言のようだった。あとになって思えば、それはあの夜に何があったのか、俺に聞かせながら、幸自身の心の中で整理整頓していたのかもしれない。
あの夜、幸はいつものように仕事に出かけた。繁華街のクラブは、いつものようにネオンを焚き、眠るそぶりなど見せない。そんな繁華街の一角にあるクラブには、これまたいつも通り、仕事帰りの男たちが集まっていた。キャバ嬢の仕事は、男たちに酒と会話で夜の楽しいひと時を与える客のが主だ。
幸がいつも通りの派手な衣装を身にまとい、客を接待していると、クラブの常連である大物から、ご指名が入った。指名とは、得意客が自分好みの店員を呼び、接待させることらしい。指名を受ければ、キャバ嬢に拒否する権限などない。しかし、世の中には、ロクでもない奴はごまんといる。猫の世界でも、血統や喧嘩強さだけを着飾っただけで、筋の通っていないロクでなしは多い。人間にもそういう輩はいるもので、その大物もロクでなしの部類だった。
親から譲り受けた権威を振りかざし、その口から洩れてくる下品な冗談や、見るからに下心の塊のような男で、幸の体をべたべたと触ってはニタニタとする。くれぐれも幸の名誉のために言っておけば、幸の働く店は、そういう低俗な店とは違う。あくまで客を酒と会話でもてなす店だ。ところが、相手が大物とあって、店の支配人も男の行為を、見て見ぬ振りした。
だが、幸は将来の真面目な性格で、どんな仕事にも真摯に取り組むやつで、大物の下心をするりするりと躱して上手くあしらいながらも、彼が喜ぶように精一杯もてなした。おかげで、大物はいたく幸を気に入り、満足して帰っていったそうだ。
そうして、事件は店がシャッターを下ろした後に起きた。
従業員専用の更衣室。そこで、幸は先輩キャバ嬢たちに取り囲まれて、集団リンチまがいに罵られ、蹴り飛ばされ、殴りつけられたのだ。
幸のもてなしを気に入ったあの大物は次に店を訪れた際にも、幸を指名するだろう。それは、先輩たちにとって、どれだけの客を取りお金を落とさせたうえで、客を満足させたのかを競う出来高制で給金が支払われる、そんな店のルールにおいて、後輩に顧客を取られてしまう屈辱と同時に、人間が命の次に大事にする金を奪われることに等しかった。しかし、大物が幸を気に入ったのは、幸が努力したからであって、先輩たちが恨みや妬みを抱くのはお門違いも甚だしい。
だが人間は、自分の価値観を他人に押し付けたがる傾向がある、と言うのは人間以外の生き物の間で、共通の認識だった。幸に降りかかった災難は、人間のそんな傲慢さゆえの出来事だったのではないかと思うのだが、実際に暴行を受けた幸が泣いていたのは、傷が痛むからではなかった。
「わたしの所為で、誰かが苦しむのなんて、よくない」
俺の頭をなでながら、幸は天井を見上げてそう言った。
変わったやつだと、前々から思っていたが、本当に幸は人間の中で、もっとも稀有な存在だ。傷つけられたのに、どうしてそう思えるのか。俺は自分が縄張りを侵すというヘマをしたとは言え、集団で襲いかかってきたあの野良猫軍団への恨みは忘れていない。
なのに、幸は自分を責め、そして泣いている。俺にはよく分からなかった。すると、幸は俺の疑問符にこたえるかのように、独り言を続けた。
「ずっと昔、お父さんから教えられたの……」
幸の父は動物の医者だった。田舎の街角に診療所を開き、頼まれれば家畜でも爬虫類でも、専門外の昆虫に至るまで、熱心に治療する先生だった。しかしある時、重い病気にかかった。動物の病や怪我を治すことは出来ても、人間を、ましてや自分の病を治すことは出来ない。そうして、何年間かの闘病生活の後、幸の父親は幸と彼女の母を残して、静かに息を引き取った。
幸は父を尊敬していた。どんな動物でも、真剣に愛情を以て治療する姿はとても立派だったと言う。そして、いつか自分も父のような獣医師になりたいと思っていた。
ところが、人間の社会において母子家庭に吹き付ける風は、とても冷たい。父は遺産を残してくれたが、それでも裕福な暮らしとは縁遠く、幸は夢をかなえるため、母親の反対を押し切って家を出て、実入りの多さからキャバ嬢で生計と将来獣医師の学校に通うための学費を貯蓄することにした。
だが、なかなか世の中思い通りにならないのは、猫も人間もそんなに大差なんてねえ。
夢を目指して家を飛び出して早一年と半年。未だ夢をかなえるには至っていない。それでも、幸が夢を諦めていないのは、彼女の父が残してくれた、たくさんの教えが、彼女の心を支えているからだった。
そのひとつが『自分の所為で他人を苦しめるな』というものだった。
ずいぶんと理不尽な教えじゃないか、と俺は思う。
猫だろうが人間だろうが、生きていくためには勝ち取らなければならない。勝ち取れなかった者は、敗者となる。生きる資格がない、とまでは言わないが、とどのつまりヘマをやった俺と同じように、みじめな思いをしなければならなくなるのだ。それが、自然の掟だ。
だのに、幸の父親は、自分を犠牲にしろと言っている。他人のために勝ち取るのを諦めてしまえば、その先に待つのは不幸だ。誰が好き好んで、他人のために不幸を背負いたがるだろうか。そんなバカがいたらお目にかかりたいものだ。
いや、居る……。
俺の傍で、泣いてるこの女がそうだ。父親の教えを守り、自分に不幸が降り注ぎ、そして泣いている。父親は娘のこんな姿を見たかったというのだろうか。
いや、そうじゃないに決まっている。人間の親子は、猫の親子よりも絆が深いと聞く。親は子のため、いつだって平気で身を投げ出すことが出来る。そういう人間の親が、子の不幸を願ったりするはずがない。
そう、父親は他人に優しくあれ、と幸に教えたかったのだ。人間の二十歳と言えば、人生の半分も生きていない、まだまだひよっ子。まだ、父親の真意に気付くこともなく、自分なりの解釈で優しくあろうとしている。
その優しさに、死にかけだった俺は救われたのだ。人間にとって、瀕死の黒猫なんて薄汚いだけだ。実際、あの時何人か俺のそばを通り過ぎた人間がいたことを覚えている。憐憫の表情を浮かべながらも、誰も俺に手を差し伸べてはくれなかった。だが、幸だけは自分の方や頭に雪が降り注ぐのも気に留めず、俺を抱きかかえて動物病院へ駆け込んでくれたのだ。
幸のバカさ加減に救われた。ありがてえバカじゃねえか……。
「ルドルフに聞いてもらったら、ちょっと元気出て来たカモ。お礼に、明日はあんたの好きなマグロ缶を開けてあげるね……」
ひとしきり俺に話して、胸のつっかえが降りたのか、幸はそう言うと、語尾が消える前に静かな寝息を立てはじめた。ひとしきり物言わぬ猫に言いたいことを言って、少しばかり落ち着いたのか、それとも疲れ切ったのか、幸の寝顔はいつものように平静そのものだった。
『明日、ねえ……』
俺はにゃおと鳴きながら、幸の寝顔に小さく溜息をついた。明日になれば、俺はこの部屋を去るつもりだ。それをこいつは知らない。
翌朝は、雲一つない穏やかな青空が広がり、温かな空気が春の足音を運んでいた。幸は七日ぶりの洗濯物をかごいっぱいに詰め込んで、ベランダに一つずつ干している。いつも通り、ベランダの窓は半開き。俺のスリムなボディをもってすれば、容易く通り抜けられる。
幸は夜の仕事を辞めるつもりらしい。もともと乗り気だったわけではなく、実入りで選んだ仕事だっただけに、今度のことが堪えたのだろう。それでも夢をあきらめるつもりなどなく、もっと自分に合った仕事で、コツコツお金を貯めたいと考えているようだった。
何かを吹っ切ったような笑顔の幸は、「ルドルフがいてくれたおかげで、元気が出たよ」と俺に言った。
もちろん何を言ってるのかよく分からねえが、なぜか俺に感謝しているのは、なんとなく雰囲気で分かる。べつに感謝されるようなことはした覚えがない。ただ黙って、こいつの独り言に付き合ってやっただけだ。それだけで、前向きモードにシフトしているこいつのバカさ加減は、もはや匠の域だな、なんて呆れながら、俺は窓ガラス越しに見える、洗濯物を干す幸の後ろ姿を見つめていた。
出ていくなら、今が好機。
昔から言うように、チャンスは一度きり。ワンモアチャンスなんて、そんなものに縋ったって、二度巡ってくるかどうかは分からない。妙に現実主義だと思うヤツもいるかもしれねえが、だいたいこの世はそういう仕組みになってやがる。
体の怪我は完治した。少しばかり、傷痕が残ってしまったが、そんなのは、気にするようなことじゃねえ。あとは簡単なことだ。するりと窓の隙間を抜けて、ベランダの手すりに飛び乗る。一瞬の出来事に、幸は気付かないかもしれない。もともと、別れを言うなんて野暮なことは、したくねえと思っていた。それに、どのみち別れなんてある日突然訪れるもの。根無し草の俺が、屋根の下でぬくぬくしているのなんざ、性に合わねえ。
だが、俺はベッドの上で丸くなったまま、動こうとはしなかった。すでに、朝日が昇る前に、俺のこころは決まっていた。
「ルドルフっ、もうちょっと待っててね。マグロ缶開けてあげるから。いつもより百円高いやつだからね」
ひょいっと窓の隙間から顔を出した幸が言う。彼女の顔には、まだ痣や絆創膏が残っているが、昨日の涙はそこにない。その笑顔を見ていると、なんだかこっちまで嬉しい気持ちになってくるから、不思議だ。
バカで変な女だが、人一倍優しくて、人一倍傷つきやすいヤツ。そんなヤツの笑顔を見ているのも悪くはない……かもしれない。いや、俺がいなくちゃ、どうせこいつはまた自分の優しさで泣くのだろう。猫の俺には何もしてやれないが、傍にいてやることくらいはできる。それでこのバカが、笑ってられるのなら、それが命の恩人に対する、一宿一飯の恩義になるのかもしれない。
そう思えば、幸のことをバカだバカだと言ってはみても、俺も同類だということにやっと気づいた。そんな俺に、思わず呆れてしまう。
『ったく、ぐずぐずしてねえで、さっさと開けてくれよ。こちとら、昨日の晩からくいっばぐれて、腹ペコなんだ』
ため息交じりの俺の言葉は、幸には俺が嬉しそうに鳴いたようにしか聞こえなかっただろう。それでも、幸はまるで俺の言葉を聞き届けたかのように、「はあい」と返事した。
こうして俺は風来坊の野良猫改め、佐野幸の飼い猫になった。
(おしまい)
『あとがき』
はじめまして&こんにちわ。
この度は雪宮の拙作をお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は前書きでも示した通り、長い間非公開としていました。何故なのかと言うと、出来に納得していなかった、と言うのが理由です。自分の文章力があまりに拙いことはよく分かっていますが、何を書きたいのか、ちゃんとまとまっていないし、猫の心情があまりにも人間じみているのが、どうしても許せなくって、ひとまず非公開にしていました。
この度加筆修正して、何とか及第点ギリギリまで押し上げることが出来たので、公開に踏み切りました。
本作はかの夏目漱石の代表作「吾輩は猫である」のように、猫の視点で人間を俯瞰した物語にしようと考えました。雪宮は無類の猫好きです。
ただ、風刺的な切り口は苦手であり、また、猫の観察も怠っているため、意外とタキキチ(ルドルフ)が、人間っぽい雰囲気になってしまったのは、悔いが残ります。この辺りは、今後への課題と言ったところでしょう。
話は変わりますが、ルドルフと言う名前は児童文学の名作「ルドルフとイッパイアッテナ」という作品の、主人公の名前を採用しました。猫視点小説の二大巨塔は「吾輩は猫である」と「ルドルフとイッパイアッテナ」だと、私は思っています。
まだまだ至らない点も多いですが、感想やコメントなどお寄せいただければ幸いです。今後の力になりますし、指針にもなります。いつまででも受け付けているので、是非一言お寄せいただけたら、と存じます。
それでは最後にもう一度。この度は拙作をお読みいただき、誠にありがとうございました。
雪宮鉄馬 2011/11