肉を焼くという意思決定(改)
北関東の雄、群馬・高崎での打ち合わせは、思っていたよりも巨大な建物で行われた。
駅の東口を出ると、すぐ目の前にそれはそびえ立っていた。家電量販店というより、生活に必要な機能を縦に積み上げた要塞のようだ。低層階には最新家電、中層階には家具や日用品、さらに上にはリフォームや法人窓口があり、最上部には本社機能が入っているという。建物全体が、ひとつの巨大な「事業拡大の歴史資料」みたいだった。
本日の訪問先は、矢間田ホールディングス。地方発の家電店から始まり、今や住まいと暮らしのすべてを飲み込もうとする勢いのある企業だ。
打ち合わせでやることは、東京にいる時と変わらない。
現場の愚痴と理想論を聞き分け、言葉の端々に潜む違和感を拾う。誰も正面からは言わないが、全員が薄々わかっている問題を、なるべく角が立たないきれいな言葉に変換してホワイトボードに書き出す。
今回の論点は「本部と店舗の役割分担」だった。
本部はマニュアル化を進めたい。店舗は「現場の事情」を盾にする。本部から見れば現場は勝手気ままだし、現場から見れば本部はエアプ(現場知らず)だ。
よくある話だ。よくあるからこそ、根が深い。
「次回までに、本部が決めるべき『ルール』と、店舗に任せる『裁量』を、もう少し具体的に仕分けしてみます」
私がそう締めくくると、先方の部長は深くうなずいた。
「そこなんですよ。現場は頑張ってくれてるんです。ただ、どこまで手綱を握るべきかが悩ましくてね」
「ええ、管理と現場判断のさじ加減ですよね。業務単位で――」
ぐうぅ。
打ち合わせの終了を祝うように、私のお腹が小さく鳴った。あ、これ部長にも聞こえたな。社会人として軽く微笑みでごまかし、そそくさと退散する。
ビルを出ると、高崎の空は気持ちがいいほど広かった。
さて、お昼だ。スマホで現在地周辺を検索すると、すぐ近くの店がヒットした。
『半島飯店』
群馬県内でよく見るローカル焼肉チェーンだ。赤い看板、だだっ広い駐車場。
いい。今日は焼肉でいい。いや、焼肉がいい。午前中ずっと抽象的な組織論をこね回していたから、物理的に肉を焼くという具体的な行為を身体が求めていた。
店内は昼時らしく、ほどよく賑わっていた。作業着姿の二人組、近所の営業マン、年配の夫婦。客層はバラバラだが、全員が少し真剣な顔で網に向かっている。自分で肉を焼く店では、誰もが少し忙しそうだ。
メニューを開く。迷った末に「カルビランチ」を選んだ。
肉を、焼く。ご飯が、受け止める。タレで、味変する。全体の調和が、なんだか事業運営の難しさに似ている――。
いやいや、危ない。思考が完全に「あの男」に毒されている。
江戸前の蕎麦に「無駄のない業務プロセス」を語り、武蔵野うどんのコシに「強い組織のレジリエンス」を見出し、駅の立ち食いそばを「短納期タスクの極意」に接続した男。
紺のジャケット、白いシャツ、ノーネクタイ。どこの部署の人間なのか、そもそも同じ会社の人間なのかすらよくわからない。
でも、さすがに今日は会わないだろう。ここは高崎の焼肉店だ。焼肉はあの男の守備範囲ではない。そうであってほしい。水を一口飲んだ、その時だった。
「ここはカルビランチ一択だよ。肉はまず、塩とレモン汁でいくのが定石だ」
水が気管に入りかけた。
聞き覚えがありすぎる。見てはいけない。見たら負けだ。ただの似た声の一般人だと思い込もう。そう念じたのに、本能が危険を察知して勝手に視線を入り口へ向けてしまった。
いた。
紺のジャケット、白いシャツ、ノーネクタイ。老舗の柱にでも寄りかかっているような、妙に堂々とした立ち姿。そして向かいには、例の若手社員。定期的に同行しているところを見ると、かなり長期のメンター案件らしい。
店員が二人を、無情にも私の斜め前の席へ案内した。
近い。なぜこの広い関東平野で、毎回ジャストで会話が聞こえる距離に配置されるのか。私はとっさに閉じたメニューを開き直し、熱心に熟読するふりをした。社会人には、時に気配を消す演技力が必要だ。
男は席に着くなり、テーブル中央の無煙ロースターを見下ろした。
「いいか。焼肉というものはね、単なるセルフサービスに見えて、実は高度な『権限委譲』のシステムなんだ」
始まった。肉すら来ていないのに、もうコンサルティングが始まっている。
若手が素直な顔でおしぼりを開きながら聞き返す。「権限委譲、ですか?」
聞き返さないでほしい。彼を気持ちよくさせないで。
「そう。厨房はすべてを完成させない。肉を切り、タレを用意し、火を提供するだけだ。最終的な品質コントロールは、顧客という『現場』に委ねられる」
私はメニューの裏で目を閉じた。言っていること自体は間違っていないのが腹立たしい。
「ラーメンは完成品として納品される。顧客は受け取るだけの『エンドユーザー』だ。だが焼肉は違う。焼くという最終工程を顧客が担う。つまり焼肉店とは、中央集権と現場裁量の絶妙な境界線上に成り立つビジネスモデルなんだよ」
「本部が環境を整えて、現場が最終加工するんですね!」
若手よ、君もだいぶ向こう側の人間になってきたな。理解の早さが裏目に出ているぞ。
嫌な言葉のチョイスだった。嫌なのに、午前中の会議で話した「本部と店舗の役割分担」に恐ろしいほどリンクしてしまう。
(これ、午後の資料に使えるな……いや、使わない。焼肉を組織設計の比喩にし始めたら、コンサルとして終わりだ)
ちょうどそこへ、私のカルビランチが運ばれてきた。
肉の皿、白飯、スープ、キムチ。赤身と脂身のバランスが良いカルビだ。私はトングを握り、一枚目の肉を網に置いた。
じゅうぅぅ。
いい音だ。それだけで午前中のややこしい議論が頭から消えていく。会議室では曖昧だった物事が、網の上では極めて具体的だ。肉は「焼ける」か「焼けない」か。関係者調整中も、暫定ステータスもない。
斜め前の席にも肉が届いたらしい。男がトングを持ち上げる気配がした。
「ここで重要なのは、いきなり全部の肉を網に乗せないことだ」
そりゃそうだ。ただの網の専有だ。
「網には『キャパシティ』がある。面積、火力、食べる速度。これらを超えて肉を投入すると、管理が行き届かずに品質が劣化する。仕事も同じだ。自分の処理能力を超えたタスクの過剰投入は、黒焦げのカルビを生むだけだ」
「なるほど、タスクの可視化と適正量の管理ですね」
頼むから静かに食べさせてほしい。私は自分の肉を裏返した。いい焼き色だ。
ただ食べているようで、焼肉は小さな意思決定の連続だ。どの肉から置くか、いつ返すか、タレか塩か、白飯をどのタイミングで掻き込むか。会議の百倍、PDCAサイクルが速い。
焼けた肉をタレにつけ、ご飯と一緒に口へ運ぶ。甘辛い脂を白飯が受け止める。完璧なソリューションだ。
「タレも重要だ」
また男の解説が鼓膜を揺らす。
「タレは、バラバラの個性をひとつにまとめる『共通言語』だ。脂の多い部位、あっさりした部位。それぞれ異なる特性を持った肉たちを、タレにくぐらせることで『同じ食卓の料理』という一体感が生まれる」
「組織の理念やビジョンみたいなものですね!」
若手社員が目を輝かせる。君、もう完全に洗脳されているじゃないか。
私は無心で二枚目、三枚目を焼く。しかし、耳に入ってくるワードがいちいち実務に刺さるから困る。男の所作は、話のスケールの大きさとは裏腹に、驚くほど丁寧で繊細だった。
「焼きすぎてはいけないが、生でもいけない。ここが難しい。未成熟な企画を急いで市場に出せばお腹を壊す。だが、完璧な資料を求めすぎて時間をかけると、チャンスは焦げて炭になる。一枚目の肉は、言ばば『仮説検証』だ。食べてみて火力を知り、二枚目に活かす」
「まずは小さく試して改善する、アジャイル手法ですね」
焼肉ランチをアジャイル開発にしないでほしい。私は箸休めにわかめスープを飲んだ。塩気が口の中をリセットしてくれる。スープは目立たないが、濃い味の連続を一度「通常運転」に戻してくれる重要なバックオフィス機能だ。
……だめだ、私も何を食べても業務に見えるようになってきた。
「肉を返すタイミングには、その人間の『マネジメント特性』が出る」
男はまだしゃべっている。
「早く返しすぎる者は不確実性に耐えられないマイクロマネジメント気質。遅すぎる者は決断の先送り。真っ黒に焦げてから慌てて返す者は、だいたい会議でも結論を出せない」
少し偏見が過ぎるが、「焦げてから返す人の会議は長そう」という点には全力で同意したくなった。
「私は少し過保護に返しすぎるタイプかもです……」と落ち込む若手に、男は穏やかに説く。
「悪いことではない。だが、焼き目がつく前に触り続けると、肉は熱を持つ時間を失う。後輩育成も同じだ。先回りして口を出しすぎると、本人が『自分で焼けるようになる機会』を奪うことになる」
くやしい。普通にいいアドバイスだ。
完全に的外れなら無視できるのに、妙に納得感があるから脳に居座るのだ。
「そして、焼肉ランチの真の主役は、肉ではない」
「えっ、肉じゃないんですか?」
「ああ。主役は『白飯』だ。肉は華やかな『戦略』や『意思決定』。だが、それだけでは胃もたれする。白飯という地味な『日常業務』があって初めて、濃い意思決定は組織に吸収されるんだ」
――濃い判断を、日々の運用が受け止める。
午前中の部長の嘆きがフラッシュバックする。「本部が方針を決めても、現場の日々のオペレーションに落とし込めないんだよ」
使える。今のフレーズ、めっちゃ使える。
私は最後の肉を網に乗せながら、敗北感を噛み締めた。
「煙もまた、示唆に富んでいるね」
男がロースターを指さす。
「価値を生む活動には、必ず煙という『摩擦』や『ノイズ』が出る。だが、煙をゼロにしようと火力を弱めれば、肉はうまく焼けない。重要なのは、煙を出さないことではない。出た煙をどう吸い上げるかだ。この無煙ロースターこそが、現場のトラブルや意見を吸い上げる『エスカレーションの仕組み』そのものなんだよ」
もう勘弁してほしい。そのまま午後の提案書の見出しに使えそうじゃないか。
「現場の摩擦を消すのではなく、仕組みで吸い上げる」。完璧なコピーだ。
私は急いで残りのご飯を平らげ、伝票を手に取った。これ以上ここにいると、本当に午後のスライドに「無煙ロースター型組織風土の醸成」とか書きかねない。
席を立とうとした瞬間、視線が絡んだ。
「あ」
男が優雅に微笑み、若手がペコリとお辞儀をする。無視するわけにもいかず、私も引きつった笑みで会釈を返した。
「今日の焼肉ランチ、どうでしたか?」
男が唐突に問いかけてくる。オープンクエスチョンすぎる。私は一秒で防御陣形を組んだ。組織論にも、火力にも、白飯にも触れない、完璧に閉じた無難な回答を繰り出す。
「とてもおいしかったです。午後も頑張れそうです」
よし、隙はない。会話終了だ。
しかし、男は満足げに深くうなずいた。
「その通り。焼肉ランチとは単なるエネルギー補給ではない。午前中に集めた生の情報を、自分の手で『火を通し、咀嚼し、消化する』ための再構築プロセスなんだ。そうして初めて、人は午後の企画書に向き合える」
「ランチ自体が、情報整理のフェーズなんですね!」
若手よ、君はもうこんがりウェルダンだ。立派なコンサルタントになってくれ。
「……お先に失礼します」
私は逃げるようにレジへ向かった。
店を出ると、相変わらず高崎の空は広い。駅の向こうには、先ほどの巨大な本社ビルがそびえている。生活のすべてを詰め込んだあの箱の中で、今日も戦略が練られている。
駅前のカフェに飛び込み、ノートパソコンを開いた。次の予定まであと一時間。午前中のメモを提案書に落とし込む。
キーボードを叩きながら、頭の中で先ほどの言葉たちが勝手にパズルを組み上げていく。
『本部は現場から裁量を奪うのではなく、判断を支える環境を整備する』
『現場の摩擦を可視化し、吸い上げるルートを設計する』
キーを叩く指が止まる。資料のタイトル案で手が止まった。
一番端的で、一番部長に刺さるコンセプト。私は少し躊躇したあと、一気に打ち込んだ。
【 管理された裁量としての店舗運営改革 】
画面を見つめる。
文字面から、ほのかにカルビの匂いがした。でも、ロジックは完璧に通っている。
私は冷めかけたコーヒーを飲み、誰にも聞こえないほどの小声で画面に向かってつぶやいた。
「……網は、タスク管理ツールじゃないからな」
それだけは、私の中のちっぽけなサラリーマンのプライドとして、絶対に譲れなかった




