第三十三話:紫マントの影、そして別れ…なの〜
夜明けの光が、深い森の木々の隙間から差し込んだ。討伐部隊が野営地を設営していた一帯には、昨夜の激戦を思わせる焦げ跡があちこちに残り、倒木や割れた岩、そして巨大な魔物の亡骸の痕跡だけが、かろうじてそこにあった戦いの激しさを物語っていた。
だが、その中心部――野営地の片隅に残っていたのは、シエラとステファニーの二人だけだった。
Aランク討伐部隊は、シエラの厳命により、紫マントの魔族を見たことを一切口外しないことを誓い、すでに帰路についた。昨夜の恐怖は、彼らの顔に深く刻み込まれている。それほどあの存在は、圧倒的で、異質で、そして何より“気味が悪かった”。
ステファニーは、場の空気が落ち着いたのを見計らって、シエラの袖をそっとつまんだ。
「ね、ねぇお姉さん……昨日の、あの紫マント……なんだったの〜? わたし、あれ見た瞬間、心臓が三回くらい止まったの〜……生きてるの不思議なの〜……」
「三回も止まって生きてるなら、むしろ才能だろう。新しい魔術か?」
「違うの〜! 生きる才能なの〜!」
シエラはため息をつきながらも、口元だけがわずかに緩んだ。昨夜の緊張感が、少し和らいだ瞬間だった。
「……魔族だ。ワイルド・ベアの凶暴化、タイラントの異常な発生――すべて、あれが仕掛けた可能性が高い」
「やっぱり魔族なの〜! 絶対あのマント、中からヤバい匂いしてたの〜! たぶんひきわり納豆を三ヶ月放置したやつみたいな……」
「お前は敵の匂いを嗅ぎに行ったのか? 勇気があるのか馬鹿なのか分からないな」
「鼻が勝手に覚えようとしたの〜……!」
シエラは苦笑しながらも、いつもの大盾の手入れを終え、岩のそばに静かに立て掛けた。その動作はいつも通りの落ち着きがあるはずなのに、どこか違って見えた。どこか――遠くを見ているような。
そして彼女は立ち上がった。
「ステファニー」
「ん? の〜?」
ステファニーが首を傾げた瞬間、シエラは背からあるものを取り出し、彼女に差し出した。
――小型のバックラーだった。
「……お姉さん? これ、どうしたの〜?」
「受け取れ。お前の新しい盾だ」
ステファニーは両手でバックラーを受け取りながら、ぽかんとした。
「なんで小さいの〜? もしかして、わたしの腕力じゃ大盾持てないって気づいちゃった……?」
「今さらだ。お前に大盾を持たせたら倒れる」
「倒れるの〜!? そんなにわたし非力なの〜!?」
「そこまでとは言ってない」
言っている。
シエラの顔には、珍しい“言いづらい”という色が浮かんでいた。
そして――シエラは唐突に告げる。
「ステファニー。俺はここで、お前と別れる」
「…………へ?」
森の鳥の鳴き声が聞こえる。風が木を揺らす。
ステファニーの脳内の時間だけが止まった。
「い、いま……なんて……? わ、わわ別れるって……え、あ、討伐終わったよね!? ご褒美焼肉は!? ギルドに帰って打ち上げするんじゃなかったの〜!?」
「それができなくなった」
「なんで!? え、焼肉禁止令!? 国から焼肉が消されたの!? わたし泣くの〜!」
「焼肉は関係ない」
シエラは真剣そのものの表情でステファニーを見つめた。
「俺には、今すぐに済ませなければならない用事ができた。ギルドに戻れば報告や処理でしばらく拘束される。……それでは間に合わない」
「用事……?」
ステファニーの胸が小さく震えた。
その言葉だけでは、何のことか全く分からない。だが――“一緒に行けないほど重大なこと”なのだけは、痛いほど察せられた。
「わたし……お姉さんの相棒なのに……。ついて行っちゃだめなの……?」
「だめだ。俺が行く先にお前をまだ連れて行けない。危険だから、ではない。単純に――俺の問題だ。」
いつもの冷静さではない。
シエラの声には、焦燥と決意と、そしてどこかに“覚悟”の色が混ざっていた。
ステファニーの手が震える。
抱えるバックラーが、小刻みに揺れた。
「そんなの……そんなの急なの……! なんでなの〜……!」
「理由は言えない」
シエラはバックラーをステファニーの胸元にぐっと押し付ける。
「これからは、このバックラーが俺の代わりだ。お前の盾役は、もう俺ではない」
「お姉さんの……代わり……?」
「そうだ。今後の魔物の攻撃は全部それで受け流せ。俺が教えた技術の応用だ。全部教えてある。……絶対に死ぬなよ」
それは命令のようでいて、祈りのようだった。
「……また、すぐ会えるよね……?」
絞り出すように問うステファニーに、シエラは優しく手を置いた。
「約束は破らない。俺の用事が片付き次第、必ずギルドに戻る」
そして、にやっと笑った。
「豪勢な酒と菓子を奢る約束があるからな。覚悟しておけ」
ステファニーの胸がジン、と熱くなった。
「……お姉さん……絶対だからね……。絶対奢ってもらうの〜……!」
「任せておけ」
シエラはそう言い残し、迷宮とは逆方向――森の深い闇の方へ、ゆっくりと歩き出した。
「お、お姉さん……!? そっち、道ないの〜!?」
「こっちが近道だ」
「いや絶対嘘なの〜!!?」
シエラは振り返らない。
背中だけが、静かに遠ざかっていく。
ステファニーは歯を食いしばり、涙が限界までせり上がるのを必死にこらえる。
シエラの姿が、森の影に完全に飲まれる瞬間――
「お姉さ〜ん……っ!!」
涙が決壊した。
ステファニーはバックラーを抱きしめ、声を上げて泣き崩れる。
「ずるいよ……お姉さん……! お酒まだ奢ってもらってないの〜……! わたし……絶対死なないの……! 絶対……また会うの〜……! だから、早く戻ってきてなの……!」
銀髪の戦士の背中は、もうどこにも見えない。
ただ、風だけが、ステファニーの頬を優しく撫でていた。
こうして、Sランク冒険者シエラは、特級回復士ステファニーにバックラーと“生き延びろ”という最後の教えを残し、討伐部隊から姿を消した。
ステファニーの――初めての一人旅が、静かに幕を開ける。




