第三十二話:最終決戦(後編)これで終わり…じゃないの〜!?
迷宮の奥に響いていた振動が、ゆっくりと止まっていく。
タイラント・アームドベアの巨体が地面へ沈み込むたび、土煙が薄く舞った。
シエラは肩で息をしながら、剣を地に突き立てた。
その刃の先で、倒れ伏した最上位種の亡骸が、なおも黒い瘴気を微かに吐き出し続けている。
「……終わった、はずだ」
そうつぶやいた声には、勝利の歓喜よりも、限界まで酷使した身体の悲鳴と、緊張の解放が混じっていた。
しかしその隣で、もっと派手に崩れ落ちる者が一名。
「お、お姉さぁぁぁぁぁん……生きてる……よかった……!」
ステファニーが、安堵と涙と鼻水を全部ミックスした顔でシエラに抱きついた。
二十八歳、特級回復士、そして泣き虫。今日も健在だった。
「いててて……ステファニー、締まってる。肋骨がまた折れる」
「えっ!? また回復すればいいの!? なの〜!?」
「いや、折ってから回復する前提やめろ」
Aランク部隊のあちこちからも、歓声と悲鳴と、急激に脱力したための座り込みが起こっていた。
「や、やったぞ! 討伐成功だッ!!」
「生きてる! 私、生きてるわ!!」
「俺はもう帰ったら酒を五杯飲む! いや十杯!」
「やめろ、肝臓が迷宮入りするぞ」
シエラの半分怒りながらのツッコミに、場に笑いが生まれる。
戦場の緊張が少しずつ霧散していく瞬間だった。
しかしステファニーだけは、シエラの腕を掴んだまま離れない。
「ほんとに、ほんとに……死んじゃうかと思ったの……」
「悪かった。だが、助かった。お前の特級回復がなければ、今頃俺はぺちゃんこになっていた」
「ぺちゃんこは嫌なの〜! ……お姉さんは、ぺちゃんこじゃないの〜!」
「何の話だ」
「胸の話じゃないのよ!」
「言ってねぇよ!?」
騒がしい二人の会話も、戦いの終わりを象徴しているようだった。
――しかし。
その安堵は、思ったほど長くは続かなかった。
魔力汚染が減らない。
Aランク魔導士が、タイラントの亡骸を見ながら眉をひそめた。
「おかしい……魔力汚染の濃度が下がっていない。タイラントを倒したなら、普通はここまで濃密な瘴気は霧散するはずだが……」
「んん? 殺し足りなかったの〜?」
「物騒な言い方すんな」
シエラも周囲へ視線を巡らせ、背筋に嫌な感覚が走る。
「……全員、警戒を維持しろ。まだ終わっていない可能性がある」
真剣な声が、急速に戦場の空気を引き締める。
そして――
それは、迷宮の最奥から“そっと”姿を現した。
黒い影。
ゆっくりと歩み出てくる、その輪郭。
人の形をしている。
しかし、人ではない。
深い紫のマントに全身を覆い、顔は半分隠れている。
見えているのは“深紅の瞳”だけ。
討伐部隊全員が、息を呑んだ。
ステファニーは震えながらシエラの腕にしがみついた。
「お、お姉さん……あれ……なに……なの……?」
「……魔族だ」
シエラの声は低く、鋭く。
紫マントの魔族は、タイラントの亡骸の前で立ち止まり、何の感情も見せず、ただ静かにそれを見下ろした。
その佇まいが、逆に恐怖を掻き立てる。
「ちょ、ちょっと……あの人、完全に“ラスボスの出方”してるの……!」
「やめろ。今フラグ立てるな」
ステファニーの弱々しいギャグを、シエラは本気で制した。
紫マントは動いた。
本当に、ただ軽く――タイラントの亡骸を、つま先で“こつん”と蹴っただけ。
だが、その音は妙に大きく響いた。
魔族はゆっくりと顔を上げる。
深紅の目が、討伐部隊全体を舐めるように……いや、値踏みするように見た。
その視線がシエラへ移ったとき、ステファニーの体がビクリと震える。
「お、お姉さん……見られてる……」
「知ってる。黙ってろ」
魔族は何も言わない。
本当に、一言も発しない。
ただ静かに、陣形の中央にいるシエラとステファニーへ視線を向けていた。
そして――
踵を返し、迷宮の奥へと歩き出す。
音はしない。
魔族の足音は、土も岩も踏まないかのように静かだった。
Aランク戦士長が震える声で呟く。
「追いますか、シエラ殿……?」
「――いや。追うな」
シエラは剣を構えたまま動かず、ただ、消えていく紫マントの背中を目で追うだけだった。
「……あれは、今の俺たちが追って勝てる相手じゃない」
ステファニーが口を震わせながら小さくつぶやく。
「じゃあ……どうするの……?」
「決まっている。あれが、次に現れるまでに強くなる」
「お姉さん……かっこいいけど、めちゃくちゃしんどい未来しか見えないの……」
「俺だって見えねぇよ」
紫マントが完全に闇に消えた。
戦いは終わった。
――タイラント・アームドベアの討伐という意味では、確かに終わった。
だが。
迷宮の奥には、もっと危険な何かが潜んでいる。
何倍も、何十倍も。
タイラントの比ではない、災厄が。
シエラは深く息を吐き、剣を納めた。
「全員、撤収する。ここは危険すぎる。……戦いは、これで終わりじゃない」
ステファニーが涙目で頷きつつ、いつもの口調で言った。
「次の戦いまでに、もっと特級強くなるの〜……お姉さんを守るために……!」
「守られるの俺の方かよ!」
「当然なの〜!」
迷宮に残る濃厚な魔力汚染と、紫マントの不気味な気配を背に、討伐部隊は静かに後退を開始した。
戦いは終わりではない。
どころか、これは始まりにすぎない。




