第二十八話:最終決戦目前の静さ
迷宮入口までは、もう本当に指を伸ばせば届きそうな距離だった。
だが、そこには恐ろしいほどの静寂が広がっている。
まるで、森そのものが「お前ら、帰るなら今だぞ」と忠告してくれているように感じるほどだ。
討伐部隊は、最終決戦に備えて簡素な野営地を構えていた。
Aランクの猛者たちでさえ、泥のように眠っている。
魔力汚染区域での長期戦は、精神にも体にも負荷が大きいのだ。
そんな中、シエラはひとり焚き火の前で座り、盾を磨いていた。
火の光が、彼女の銀髪を揺らしながら照らす。
静かで、凛として、まるで絵画のよう……と言いたいところだが、よく見ると眉間に皺が寄っている。
(……眠いな)
実際、眠気と戦っていた。
だが、指揮官の務めとして、休憩の最後まで気を抜くわけにはいかない。
自分ひとりくらいは起きていなければ。
何より、盾の手入れは命に関わる。
そんなシエラの背後で、もそもそと何かが動いた。
「……んぅ……お姉さん……?」
振り向けば、ステファニーが毛布を抱えたまま、寝ぼけ顔でこちらに歩いてくる。
「お姉さん、寝ないの〜……? 寝ないと、明日タイラントさんに踏まれてぺしゃんこなの〜……」
「お前は俺を何だと思っているんだ。ぺしゃんこにはならない」
「えへへ、嘘なの〜。でも、ほんとに寝ないの?」
「寝る時間はまだある。最後の戦術と動線を整理しているだけだ。それに……盾の手入れは欠かせない」
シエラは磨き続ける。
その姿は真面目そのものだが、ステファニーはじーっと見つめてくる。
「お姉さんって、ほんとに一人で全部背負うの」
「……背負ってない。俺がやるべきことをやっているだけだ」
「む〜。それが背負ってるって言うの〜」
ステファニーはシエラの正面に座り込み、焚き火の光に照らされた彼女の顔をじっと覗き込む。
「わたし、回復士なの。お姉さんは戦士で指揮官なの。役割違うけど……相棒なの」
「相棒?」
「そうなの! だから、背負いきれないものは、わたしにも分けてほしいの〜。ねぇ、お姉さんの心配性、わたし回復できるの〜?」
「……できない」
「ひどいの〜!」
むくれた表情を見て、シエラはふっと笑う。
「お前に心配されるほど、俺は弱くない」
「強がりなの〜!」
「強いんだ」
「う〜……!!」
ステファニーがじたばたし始めたので、シエラは慌てて手を止めた。
「わかった、わかった。そう熱くなるな」
「お姉さんが意地張るからなの〜!」
「……じゃあ、一つだけ約束しておく」
「約束っ!? お酒っ!?」
「反応が早いな」
ステファニーはぴょこんと立ち上がり、焚き火の前で姿勢を正した。
完全に子どもが「ご褒美待ち」の顔だ。
「お姉さん、約束聞く準備は万全なの〜!」
「……この作戦が終わって無事に帰ったら、酒を飲みに行く。お前と、だ」
一瞬でステファニーの目が星になる。
「きたああああああああ!!」
「声が大きい。寝ている兵が起きる」
「お姉さんからの私的なお誘いなの〜!? やったの〜!! わたし、飲みたいお酒いっぱいあるの! あの赤いのと、青いのと、火がつくやつと、あと……」
「そんなに飲むつもりか」
「うん! この世界のお酒、制覇したいの〜!」
「……ほどほどにしておけ。俺の財布も限界がある」
「じゃあ……奢ってくれるの〜?」
「奢るとは言っていない」
「ひどいの〜! せっかくの約束なのに〜!」
ステファニーが焚き火の前で転がり始めたので、シエラは額を押さえる。
「……まあ、一杯くらいなら、奢ってやってもいい」
「お姉さん、最高なの〜!!」
喜びすぎて、ステファニーは焚き火に飛び込みそうになったので、シエラは素早く襟首をつかんで止めた。
「こら。死ぬ気か」
「生きるの〜! お酒飲むまでは絶対死なないの〜!」
「動機が不純すぎる……」
しかし、そのやり取りの裏には、確かな絆と信頼があった。
ステファニーは胸に手を当て、深呼吸した。
「わたし、特級回復……あと三回。全部、大事に使うの。お姉さんが勝てるように、後ろから光全部支えるの〜」
「……ああ。頼むぞ、ステファニー」
シエラは真剣な眼差しで言った。
ステファニーはその眼差しを受け止め、静かに頷く。
「お姉さん、絶対死なせないの。わたし……お姉さんがいないと、つまんないの」
「お前は自分の命を何だと思っているんだ」
「大事なの。でも、お姉さんも大事なの。だから、一緒に帰るの」
その真っ直ぐな言葉に、シエラはわずかに目を細めた。
「……そうだな。明日は命を懸ける日だ。だからこそ、今は寝ろ」
「うん……おやすみなの〜」
ステファニーはふらふらしながら大盾の上へ戻り、丸まりながら眠りについた。
彼女の寝息がすぐに聞こえ始める。
シエラはその姿を見守り、再び盾を手に取る。
焚き火がぱちぱちと音を立てるたび、明日の決戦への緊張が、少しずつ熱に溶かされていくようだった。
「……必ず、全員で帰る」
静かな焚き火の音が、二人の決意を見届けていた。
夜は深まり、決戦の朝はもうすぐそこまで来ていた。




