第二十七話:討伐戦の本丸へ向かうよ〜
ワイルド・ベアの残党を討ち倒した直後、戦場には息苦しいほどの静けさが戻っていた。とはいえ、それは勝利の静けさではなく、嵐の前触れのような張り詰めた沈黙だった。なにせ、本命はまだ姿すら見せていないのだ。
部隊は迷宮入口前の汚染領域を避け、すぐ後方の森へ簡易な野営地を作った。木々の間には焚き火が揺れ、Aランク冒険者たちが傷を確かめ合いながら、肩の力を抜こうとしていた。
ステファニーは、戦闘直後、完全に魔力を使い切り、シエラの背中にしがみついたまま眠ってしまっていた。シエラは腕に抱えていたステファニーをそっと大盾の上に寝かせ、自分の外套をかけてやる。
寝顔はとても戦場にいるとは思えない無防備さで、「くぅ〜……」と小さな寝息を立てている。
Aランク戦士長がその様子を見て、思わずつぶやいた。
「……あのFランクの少女が、俺たちAランク部隊全員の命綱か。世も末だな」
Aランク魔導士が肘で軽く戦士長を突く。
「末じゃないだろ。どっちかというと始まりだよ。俺らが勝手に終わりかけてただけでさ」
「うぐ……言われてみればそうなんだがな」
魔導士は頷きながらステファニーを見る。
「しかし……特級回復の連発だぞ。普通なら死ぬ。いや、普通の特級回復士なら、連続使用しようとした瞬間に自爆するレベルだ」
「だが彼女は生きてる。むしろ寝てる。なんなら、よだれたれてる」
なんとも言えない空気が漂う。
目の前の少女は特級回復士であり、最強格Sランクであるシエラの後方支援を一手に担っている。にもかかわらず、口の横から透明な一筋が流れ、外套を少し濡らしていた。
「……外套が……」
シエラはしばし無言でステファニーの口元を見つめ、ふっとため息をつくと、そっと布を拭いた。
「お姉さん、よだれにも動じないのな……」
魔導士が感心とも呆れとも言えない声で言うと、シエラは冷静に返した。
「戦場で大事なのは、本人の状態と準備だ。よだれは関係ない」
「そ、そうか……」
あまりにも真面目な返答で、誰も続ける言葉を失った。
シエラはそのまま部隊の中心に移動し、大きな地図を広げた。
「全員、怪我と体調の報告をしろ。軽症も申告漏れは許さん。ステファニーが回復魔法を再使用できるようになるまで、絶対に無茶はさせない」
その声に、Aランクたちは自然と背筋を伸ばした。彼らは一度シエラの采配を経験し、その冷徹な判断が「生存」に直結することを痛感していた。
戦士長が近づいてくる。
「……指揮官。ひとつ、いいか」
「ああ」
戦士長は腕を組んで一度息を吸い、まっすぐシエラを見た。
「正直に言う。俺は、若くて経験が浅いSランクが、我々の指揮をとることに疑問を抱いていた。正直、反発もあった」
「知っている」
シエラは淡々としている。
「俺のやり方が好きな者は多くない。効率を優先し、感情を排除する。文句は当然だ」
「しかし……」
戦士長は深く頭を下げた。
「あのステファニーという少女の力を最大限に引き出し、正確に戦線を支えたあなたの采配。完璧だった。あれがなければ、我々は魔力汚染だけで全滅していたでしょう」
それは罵倒でも皮肉でもない、まっすぐな礼だった。
シエラは短く返す。
「……礼はいい。任務を続けろ」
「はい。タイラント戦でも、あなたの指示に従います」
戦士長が去ると、魔導士がぼそりとつぶやいた。
「うちの戦士長、あんなに素直に頭下げるの、初めて見たぞ……」
シエラは答えず、地図を見つめながら低く言う。
「タイラントの装甲は強力だ。だが、装甲を破る瞬間は必ずある。その一瞬に全火力を集中させるための布陣はすでに決めてある」
シエラの声は静かだったが、誰が聞いても確信に満ちていた。
その確信こそ、Aランク部隊が求めていたものだった。
数時間が過ぎると、ステファニーがもぞもぞと動いた。
「むにゃ……お姉さん……胃痛が治ったの……」
シエラが横を見る。
「起きたか。胃薬は持っていない」
「ひどいの〜! 慰めてほしかったの〜!」
「慰めは無意味だ。治ったなら問題ない」
ステファニーは「うぅ……」と涙目になりつつも、胸に手を当てた。
「でもね……魔力はもう戻ったの。特級、あと三回、撃てるの〜」
その言葉に、周囲の空気がざわりと動く。
特級三回。
それは、この作戦の生命線だ。
シエラは地図の上の一点を指した。
「ここが迷宮入り口。ここから先、汚染濃度がさらに跳ね上がる。ステファニー、お前は再び俺の後衛だ」
「うん!」
「絶対に正面に立たされるな。お前が倒れれば全滅だ。俺が盾となり、タイラントの装甲を剥がす。お前は回復に集中しろ」
ステファニーはぴしっと背筋を伸ばし、真剣な眼差しでシエラを見つめた。
その表情は、Fランクの少女の無邪気さとは違っていた。
戦場を支える特級回復士の顔だ。
「……うん! 今度はもっと上手にやるの! お姉さんを絶対死なせないの!」
シエラはその言葉を聞き、ほんのわずかに口角を上げると、彼女の頭をポンと軽く叩いた。
「その言葉を信じる。行くぞ、ステファニー」
「はいなの〜!」
ステファニーが勢いよく立ち上がると、外套がばさりと落ちた。
魔導士が微妙な顔で言う。
「なんか……外套が……ほんのり湿……」
「言うな」
シエラが低く制止すると、全員の口がぴたっと閉じた。




