第二十六話:回復が追いつかない地獄の戦場なの〜
迷宮前の空気は、目に見えない泥で満たされているようだった。踏み出すごとに、身体がずぶずぶと重く沈んでいく気がする。シエラは眼前の光景を冷静に見渡しながら、後ろの部隊へ声を張った。
「警戒を怠るな。ここから先は魔力の濃度が別格だ。呼吸をするだけで喉が焼けるぞ」
Aランク魔導士が苦い顔で鼻を押さえた。
「うぇ……ねっとりした空気……こんな濃度、聞いてないんだが?」
ステファニーが肩を震わせながら言った。
「うぇっ……魔力がねばついてるの……。飲みたくないスープみたいなの〜……」
「飲むな。どうして例えが飲食なんだ」
シエラが淡々と突っ込むと、ステファニーは胸に手を当てて頷く。
「お姉さんの言うことは正しいの……スープには敵意を感じるの……」
誰も感じていない敵意を感じ取るあたり、さすがは特級回復士――なのかもしれない。
すると、前方の藪がドサリと揺れた。
低い唸り声が濁った空間に響く。ワイルド・ベアの残党だ。先ほど森で分断した個体に違いないが、こちらの予想以上にしぶとい。
Aランク戦士が剣で受け止めながら叫ぶ。
「重っ……!? なんでさっきより硬くなってんだよ!」
「魔力汚染のせいだ。強化されている」
シエラが即答するも、戦士は不満をこぼした。
「強化ってレベルじゃねぇぞ! 完全に鉄熊だろ!」
「鉄熊っていうと、なんか可愛く聞こえない〜?」
ステファニーが小声で言った。
「聞こえない!」
部隊全員が総ツッコミだった。
だが、冗談を言っていられる状況ではない。戦士の腕に深い裂傷が走り、鮮血が噴き出した。
ステファニーは慌てて手をかざす。
「えいっ……! 中級回復《活泉》なの〜!」
柔らかな光が戦士の身体へ流れ込む。しかし、傷は半分ほどしか癒えていない。
「うそなの……!? 全然治らないの〜!!」
シエラが短く指示を飛ばす。
「ステファニー、全体上級だ。敵の攻撃が同時に来るぞ」
「う、うんっ! 上級全体中回復《慈光》なの〜!」
淡金色の光が展開され、戦闘員全員を包む。だが――
Aランク魔導士が青ざめた。
「え、これ……え、これ小回復レベルなんだが!? 俺のかすり傷、まだ残ってるぞ!?」
戦士が自分の腕を見て叫ぶ。
「俺の腕、半分しか治ってねぇ! しかも半分って微妙に痛いんだよ!」
ステファニーは目を見開き、半泣き顔になる。
「お姉さんっ……光が弾かれちゃうの……! 普段の半分くらいしか入っていかないの……!」
「魔力汚染のせいだ。想定内だが……ここまでとはな」
シエラは険しく息を吐く。
だが前線の崩壊は早い。ベアの群れが肉迫し、Aランクたちが次々と被弾し始めた。
鋭い爪が戦士の鎧を裂き、衝撃波のような打撃が魔導士を吹き飛ばす。
「回復が追いつかないぞ!」
「ステファニーちゃん! もうちょい強めで! 強めのやつで!!」
「強めって言い方が雑なの〜!!」
涙目でステファニーが叫ぶ。
「お姉さん〜! このままだと全滅しちゃうの〜!」
シエラが即座に命令を飛ばした。
「ステファニー! 特級を撃て。汚染を力で上書きするしかない!」
「と、特級!? 連続使用は危ないの〜!」
「心配するな。お前ならできる」
短い言葉だったが、その声には揺るぎない信頼があった。
ステファニーは胸の奥が熱くなるのを感じた。
力を込め、足を踏みしめる。
「が、がんばるの……! 特級全体大回復――!」
彼女の両手に、爆ぜるような黄金の光が集まる。
「《廻生》なの〜!!」
眩い光が戦場を埋め尽くし、爆発的な癒しの波が広がった。
傷を負った戦士たちの身体がみるみる修復され、魔力汚染の霧が一瞬だけ押しのけられた。
Aランク魔導士は目を丸くした。
「お、おお……汚染が後退してる! すげぇ!」
戦士長が歓声を上げる。
「完全回復だ! ステファニー、やっぱりお前は怪物――」
振り返った瞬間、彼は口をつぐんだ。
ステファニーがよろめきながら立っていたからだ。
顔色は真っ白、汗は滝のように流れている。
シエラがすかさず駆け寄った。
「大丈夫か」
「だ、大丈夫じゃないの……でも、やるの……次の波が来たら、また特級で押し返すの……!」
すぐに次のベアの群れが迫る。
シエラが吼えた。
「今だ! 癒しの効果が残っているうちに殲滅しろ!」
Aランクたちは一斉に突撃し、力を振り絞ってベアを討ち倒していく。
やがて最後の一体が地響きを立てて崩れ落ちたとき――
ステファニーは糸が切れたようにシエラの背中に寄りかかった。
「お姉さん……ちょっと休むの……ぐらぐらするの……」
「よくやった。お前の回復がなければ、全員ここで倒れていた」
「うぅ……回復が半分しか効かないなんて、聞いてないの……」
「相手が規格外なだけだ。だが分かった。タイラントと直接やり合うには、特級の連発が前提だ」
ステファニーは目をぱちぱちさせながら言った。
「お姉さん……特級の連発は……胃に悪いの……」
「胃?」
「胃が……痛いの……」
シエラはほんの少しだけ、口元をゆるめた。
「なら、休め」
その言葉を聞き、ステファニーは力の抜ける笑みを浮かべると、そっと目を閉じた。
こうして、地獄の前哨戦は終わりを告げた。
だが本番――タイラント・アームドベア戦は、まだ始まってすらいない。
――戦いは、これからが本番だ。




