7.すべての始まりの記憶
ギャラリーはいつもより静かだった。
平日の昼間、訪れる人もほとんどいない。
七海は足音を忍ばせるように中へ入った。
前回来たとき、片隅に立てかけられていた未完成のキャンバス。
それが、今は照明の下で展示されていた。
キャンバスの中心に立つ、一人の女性。
長い黒髪を風に揺らし、白装束に身を包んでいた。
背景には、燃えるような彼岸花の群れ――そして、遠くに見える社殿。
まるで夢で見た光景、そのままだった。
「……あれが、“あなた”なんだね」
背後から声がした。振り返ると、蓮が立っていた。
七海は絵から目を離さずに言った。
「この人、私に似てるよね」
「……うん。描いてるときは、誰だかわからなかった。ただ、どうしても描きたくて……筆が止まらなかった」
蓮の目には、複雑な思いがにじんでいた。
「俺の夢の中に、いつも現れる。白い衣を着た君が、誰かに追われてて。火の中を走ってて――」
彼の声がわずかに震える。
「なのに、顔が見えなかった。ずっと。それが……この絵で初めて、ちゃんと見えたんだ」
七海は、絵に視線を戻した。
その瞬間――強烈な光と熱が、頭の中を突き抜けた。
*
遥か古代――
神の巫女として捧げられるはずだった“わたし”は、
その運命を、心の奥底で拒んでいた。
夜明け前、神殿の奥で身を清める最中、
誰かが、禁じられた扉を開いた。
「ここにいてはいけない。お前を、死なせない」
現れたのは、山村の青年。
神職に仕える者ではない、“部外者”。
それだけで、この神域では重罪とされる存在。
「あなたは、だめ……神に触れた者は、呪われる……!」
「お前を、守る……何度でも。たとえ罰を受けても」
手を引かれ、逃げ出した巫女。
それは、「神の意志」に逆らう行為――
宿命の破綻だった。
“神の怒り”は、神殿を火で包んだ。
燃え広がる炎、咲き誇る赤い彼岸花。
血のように、罪の色のように、揺れていた。
逃げ場を失った先で、男が叫ぶ。
「お前だけでも、生きろ――!」
その声が最後に残った。
そして、闇。
*
七海はふらつき、思わず壁に手をついた。
蓮が慌てて支える。
「……見たの。私……神の巫女だった。あの人に助けられて、でも……彼は……」
「俺も見た。夢の中でずっと。君を助けようとして、何度も、何度も――火の中に消えていく姿を」
沈黙のなか、彼岸花の絵の前に立つふたり。
その時、七海の頭に、言葉のような感覚が浮かんだ。
『神に逆らった者は、永遠に引き裂かれる』
『それでも愛を選んだ罪を、輪廻で贖え――』
「……私たち、罰を受けてるのかな」
「でも、出会い続けてる」
七海がぽつりと呟くと、蓮はそっと頷いた。
「何度生まれ変わっても、君に会って、君を守ろうとして……けど、いつも最後には……失ってる」
彼岸花が揺れる。
それは、季節外れに咲く、境界の花。
“あの世”と“この世”、夢と現実、過去と今――すべての狭間で、ふたりを繋ぐ記憶の花。
七海の目に、再び涙が浮かんだ。
「もう、失いたくない」
蓮がそっと手を伸ばし、彼女の手を包む。
そうして、ふたりは再び巡り合った“今”を、静かに確かめ合う。
――この時を、決して無駄にしないために。