5.炎に浮かぶ名前
部屋の中に、まだ夢の気配が残っていた。
七海は夢の中で聞いた声にうなされるようにして、目を覚ました。
呼吸が浅い。手のひらに熱を感じる。
夢だったはずなのに、どこか“体の芯”が覚えている。
──炎。
──名前を呼ばれた。
──「お前を守る」……誰かが、そう言った。
「あの夢……」
七海は毛布を払い、手のひらを見つめた。
そこにはなにもない。けれど、確かに熱が残っているような気がした。
手の甲を撫でると、うっすらと赤い痕が浮かんだように思えた。
──気のせい?
──それとも……。
ぼんやりとしたまま窓のカーテンを開けると、陽の光がまぶしかった。
晴れた空。気温もあたたかい。
けれど七海の中には、あの絵の炎の色が焼き付いて離れなかった。
*
昼過ぎ、七海はふらりと再びあのギャラリーを訪れた。
夢の余韻がまだ残っていた。
心のどこかで「もう一度確かめたい」という衝動が消えずにいた。
ギャラリーの奥。昨日見た“未完成の絵”は、まだそこにあった。
けれど今日は、その前に人がいた。
白いシャツの背中。静かに筆を動かしている。
それが蓮だと気づいたとき、七海の胸が不意に高鳴った。
蓮は七海の気配に気づいて、振り返った。
「……来てくれたんだ」
「……この絵が、気になって。夢にも出てきたの。……変な話だけど」
七海は絵を見つめた。
昨日よりも少しだけ筆が進んでいる。
炎がいっそう赤くなり、建物の輪郭がくっきりとしてきていた。
だが、中央の人物だけはまだ、顔が描かれていなかった。
「……この中の人、私なんじゃないかって……そんな気がしたの」
蓮は静かに、目を細めた。
「……やっぱり、そうかもしれない」
「え……?」
「描いているとき、どうしても顔だけが浮かばなかった。でも、誰かを炎の中で見送った記憶があった。あのとき、助けられなかった。……だから今度こそ、って思いながら描いてた」
蓮の視線が、真っ直ぐ七海を見つめる。
「夢の中で、君の名前を呼んでいた。何度も。何度も」
七海はその言葉に、胸が締め付けられるような思いがした。
なぜだろう。蓮の声が、あの夢の中の叫び声と重なって聞こえた。
「……怖かった。火に包まれて、もうだめだって思って……でも、誰かが手を掴んでくれた。その手が、あたたかくて……あれ、あなた、だったの……?」
言葉にしながら、七海の目に涙が滲んだ。
「なんで、私、泣いてるんだろう……」
蓮は、そっと七海の手を取った。
「思い出しかけてるんだよ、きっと。ゆっくりでいい。君が誰でも、俺は……また会えたことが嬉しいから」
七海は、ただ頷くしかなかった。
彼の手の温もりに、なにか深く懐かしいものが流れ込んできた気がした。
*
その夜、七海は再び夢を見た。
夜。
鐘の音。ざわめく人々の声。
火の手が、あっという間に建物を包み込んでいく。
七海は、いや――**別の名を持つ“彼女”**は、瓦礫の中に立ち尽くしていた。
炎が、赤い舌を伸ばすように屋根を飲み込み、煙が空を裂いて昇っていく。
誰かの悲鳴。誰かの名前。叫ぶ声、泣き叫ぶ子ども。
耳をつんざく音の中で、彼女はひとり、誰かを探していた。
「……れん……っ! 蓮……!!」
火の中から、男が走ってきた。
その姿は煤けて、息も荒く、服の袖が裂けていた。
「七海……っ! よかった、まだ……!」
彼女を見つけた瞬間、男の顔がゆがむ。
安堵と、怒りと、哀しみと――そして決意が、その目にあった。
「なぜ戻った! 逃げろって言っただろ!」
「あなたが戻らないから……っ!」
炎が間近で爆ぜ、音が二人の耳を突き刺す。
立っているだけで、焼けるような熱。
周囲の空気が震え、酸素が奪われていく。
蓮は彼女の手を掴む。
けれどその瞬間、背後で崩れ落ちる梁の音。
逃げ道が、なくなっていた。
「――くそっ……!」
蓮は彼女をかばうように抱き寄せ、覆いかぶさる。
彼女は彼の胸に顔を埋め、震える声で言った。
「こわい……また、あなたを失うのがこわい……っ」
その言葉に、蓮が静かに答える。
「大丈夫。お前は、俺が守る……」
「たとえ、何度生まれ変わっても――」
「何度でも、何度でも……お前を、守る」
*
「――っ!」
七海は飛び起きた。
喉が乾いていた。心臓が、胸を叩いていた。
夢の内容を思い出そうとすると、頭が痛くなる。
でも、はっきりと覚えている言葉があった。
「何度でも、お前を、守る」
七海はそっと手を握った。
涙で濡れた頬に、じんわりとした熱が残っていた。