4.記憶に揺れる赤いスカート
夜勤明けの朝。
ふと、昨日と同じバスに乗っていた。
体は疲れているのに、心のどこかが落ち着かず、まるで何かに呼ばれているようだった。
気づけばまた、あのギャラリーの前に立っていた。
中に入ると、空気は変わらず静かで澄んでいた。
けれど、展示されている絵が一部入れ替えられていることに気づく。
あの――彼岸花の中に立っていた“自分に似た女”の絵は、もうなかった。
代わりに、一枚の絵が壁の中央に掛けられていた。
その絵は、どこか懐かしい風景を描いていた。
夕暮れの駅舎。古びた木のホーム。遠くに煙を吐く蒸気機関車。
手前には、赤いスカートをはいた女性が背を向けて立っていた。
長い黒髪。うなじが少しだけのぞいている。
隣には軍帽をかぶった青年の横顔――その表情に、どこか蓮の面影があった。
七海は息を呑んだ。
(この景色……知ってる……?)
絵の中の空気が、肌に触れるような気がした。頬に風が吹いた気さえする。
――カン、カン、と鐘が鳴っている。
汽笛が鳴り、蒸気の音が辺りを包む。
着物の裾が風で揺れる。線路の向こう、赤く咲いた彼岸花が揺れている。
七海――いや、“あの頃の自分”は、目の前の青年の手を握り締めていた。
「お願い、行かないで……」
嗚咽混じりに声がこぼれる。けれど青年は、苦しげに微笑む。
「君を巻き込みたくない。……また、必ず会える。信じて待っててくれ」
そう言って、彼は手をほどいた。
汽車が動き出す。金属音が遠ざかるたびに、胸が引き裂かれていく。
振り返った青年の目――そこには涙があった。
そして、視界が赤に染まった。
咲き乱れる彼岸花。
まるで別れの花のように、燃えるような赤が世界を包んでいた。
*
「……お客様、大丈夫ですか?」
ギャラリーのスタッフの声が、七海を現実に引き戻す。
気づけば頬に涙が伝っていた。
「……すみません、なんでもないです」
慌てて袖で目元をぬぐう。
でも、なぜ涙が出ているのかわからなかった。
いや、本当はわかっている気がする。ただ、まだ口に出す勇気がないだけだ。
「この絵、今朝運びました。作家さんが“何となく描かされた”って言ってました。不思議ですよね、理由もなく描くなんて」
その言葉に、蓮の声が重なる。
「理由なんて、あとからついてくるものだよ。たとえば——誰かを思い出した時とかね」
ギャラリーを出ようとしたとき、ふと視線の端にひっかかった。
ギャラリーの一番奥。目立たない場所に立てかけられた、一枚のキャンバス。
白いカバーが半分だけめくられている。偶然にも風が吹き、布の端がはらりと落ちた。
七海の足が止まる。
そこに描かれていたのは、炎だった。
真っ赤な火柱が立ちのぼる夜の街。焼け落ちる建物。空を焦がすような紅。
その中心に、影のように立ち尽くす“誰か”の姿。
輪郭はまだ描きかけで、顔もはっきりとはわからない。
けれど――。
(この光景、見たことがある……)
喉の奥が、きゅっと締め付けられる。
鼓動が、強く、重く鳴った。
絵の中から熱があふれてくるような錯覚。
手の甲が、じんわりと熱い。
視界が赤く滲む。
七海は目をそらせなかった。
火の中に立つ影。その姿が、自分自身のような気がして――
同時に、誰かが、自分の名前を叫ぶ声が、耳の奥でこだました。
「七海――!」
気づけば震えていた。
けれど、それでもなぜか、目が離せなかった。
その夜――
再び、七海は夢を見た。
焼け落ちる家、崩れる柱、煤けた空。
火の海の中、彼の手が、確かに自分を引いていた。
「お前を、守る……。何度でも――」
その声を、七海は知っている。
それは、蓮の声だった。