3.再訪と再会
細い路地を抜けた先、こぢんまりとしたギャラリーのガラス戸が見えてきた。
昨日と同じ場所。けれど、七海の胸の奥はまるで初めて訪れる場所のようにざわついていた。
戸を引くと、鈴の音が小さく鳴る。
平日の午後。訪れる客もまばらで、空間には静かなクラシックが流れていた。
赤い。
壁の中央に飾られた一枚の絵。
それは昨日と変わらず、真紅の彼岸花の中に立つ女性を描いていた。
けれど、今日は違って見える。
光の加減でも、気のせいでもない。
——あれは、私だ。
七海は確信に似た感覚を抱えながら、絵の前に立ち尽くした。
「……来てくれたんですね。」
背後から、やわらかい声がかかる。
振り向くと、昨日と同じ黒いシャツを着た男が立っていた。
少し乱れた髪に、淡く眠たげな目。それでもその視線は、まっすぐに彼女を捉えていた。
「こんにちは」
七海は少し躊躇ってから言葉を返す。
「あの……やっぱり、この絵、気になってしまって」
蓮は小さく頷く。
「……僕も、なんでこんなに気になるのか、自分でも分かってないんですけど」
七海は一歩、絵に近づいて尋ねた。
「この女性……モデルは、いたんですか?」
しばし沈黙が落ちる。
蓮は絵に視線を移しながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「正確に言うと……いなかった、はずなんです。最初は。ただ、描いているうちに、勝手に“現れて”きた感じで」
「……似てると思ったんです。私に」
七海の声に、蓮はふと彼女を見た。
それから、目を細めて、小さく言った。
「僕も、そう思ってました」
その瞬間、七海の背筋を冷たい何かが撫でた。
彼の目が、どこか懐かしさを帯びているように見えたからだ。
胸の奥がざわつく。理由はわからない。
*
——あの絵を描いたのは、春の終わりだった。
きっかけは、はっきりしない。ふと、筆が動いた。
目を閉じると、まぶたの裏に、真っ赤な光景が焼きついていた。
花が燃えていた。
——いや、あれは火事だったのかもしれない。
風が吹くたび、赤い花びらが宙を舞い、空の色まで赤に染まっていた。
その中に、ひとりの女が立っていた。
白い着物。長い髪。
瞳に映る景色は、すべてが終わったあとの世界のようだった。
何もかも燃えて、何もかも失って、それでも彼女は立っていた。
遠くから、叫び声が聞こえていた。
名前を呼ぶ声。喉を裂くような悲鳴。
それが誰の声だったのかは思い出せない。
ただ、その声を聞くたび、胸が苦しくなる。
——お前だけは、絶対に。
その言葉が、風に混じって聞こえた。
「お前を、守る」
誰の声かもわからないのに、それは確かに自分が言った言葉だと、蓮には思えた。
なぜ自分はそんな言葉を知っている?
なぜ、この絵の中の女の表情が、こんなにも痛々しく、愛おしい?
彼女の顔を描くたびに、筆が震えた。
涙をこらえるような目。
もう二度と会えないと知っている人に向ける、最後のまなざし。
——君は、誰?
完成したその夜、蓮は眠れなかった。
この絵を描いたことで、自分の中の何かが目を覚ましたような気がしていた。
*
「やっぱり、私に似てる気がするんです」
七海がぽつりと呟く。
蓮は黙ったまま頷く。
「でも……それだけじゃない。もっと前から、知ってるような……そんな感じ、ありませんか?」
七海は息を呑んだ。
「……あります。怖いくらいに」
目が合うと、言葉がいらない気がした。どこか、遠い場所から再会したような、そんな静かな感覚。
「この絵……どこかで見たことがある気がして」
「僕も、君に会った瞬間、そう思いました」
沈黙が流れる。けれど、居心地の悪いものではなかった。
やがて、七海が控えめに言う。
「……また、来てもいいですか?」
蓮は、少しだけ微笑んで頷いた。
「はい。ぜひ」
*
赤い光が揺れていた。
花ではない。——炎だった。
ごうごうと燃える音。風に煽られて舞い上がる火の粉。
その中に、真っ赤な彼岸花が混じって咲いている。まるで火に咲く花。
あたり一面が赤く、熱く、苦しい。
——誰かの声がする。
「走れ!ここはもう……!」
けれど身体が動かない。足元には倒れた木。炎の舌が、こちらへ迫ってくる。
視界の隅に、白い着物の影。黒髪が燃えるような背景の中で、風にゆれている。
「……行かないで」
七海の声と、夢の中の誰かの声が重なる。
少女の目は涙で濡れていた。喉が震える。言いたい言葉が、煙に巻かれて消えていく。
そのとき——
「お前だけは……絶対に、守る」
炎の向こうから、ひとりの男が走ってきた。
黒い着物。肩で息をして、血まみれの手で、彼女の腕を掴んだ。
次の瞬間——眩しいほどの炎が全てを飲み込んだ。
七海は跳ね起きた。
胸が苦しい。息が浅い。冷たい汗が首筋を伝う。
部屋の暗がりの中、夢の残像がまだ網膜に焼きついている。
赤い炎。彼岸花の海。誰かが自分を守ろうと叫んでいたこと。
ふらふらと机に向かい、ノートを開く。
《彼岸花の火事 白い着物の女 叫び声 “守る”と言った誰か》
《あの目。あの声。——蓮?》
手が震えた。ペン先が滲み、ノートの角が涙で濡れているのに気づいた。
“あの夢”は、ただの幻想じゃない。
——これは、何かの記憶。封じられた記憶の、扉が今、軋んで開こうとしている。