2.夢は扉のように
次の日、七海はいつものように仕事をしていた。
着信が入った。
ヘッドセットをつけた瞬間、七海の中のスイッチが切り替わる。
あくび混じりの空気も、隣席の同僚の独り言も、いまは遠く感じる。
「お電話ありがとうございます。カスタマーセンター、羽川が承ります」
言葉は反射のように出る。
眠気は取れないが、体は慣れている。
淡々と対応をこなすうち、時間だけが過ぎていく。
——そして、昼下がり。一本の電話が入る。
「……すみません、どこにかけてるかわからないんですけど……夢の中の番号をそのまま押したら、ここに繋がって……」
相手は、女性。年齢はたぶん60代前後。
声には焦りと、どこか“怯え”のような響きがあった。
七海は眉をひそめる。
「失礼ですが、こちらは保険のカスタマーセンターです。お困りの内容をうかがっても……」
「ちがうんです、あの……夢の中で、赤い花が咲いていて、その中に誰かが立ってて、ずっと私を見ていたんです。怖くて……でも、懐かしくて……。そのあと、目が覚めて、電話を取ったら、番号が勝手に押されてて……」
受話器の向こうで息を呑む音がする。
「その人が、あなたに似てたの。声も、すごく……似てる気がする」
心臓が跳ねた。
「それで……つい、かけてしまって……。本当にごめんなさい。変なこと言ってますよね」
七海は一瞬、言葉が出なかった。
「……いえ、大丈夫です。お気をつけてお過ごしくださいね」
電話が切れる。
でも、その声は七海の耳に、深く残った。
“赤い花”
“夢”
“見ていた誰か”
“あなたに似ていた”
……偶然だと、思いたい。でも。
*
その夜、七海は再び夢を見た。
最初は、誰かの背中だった。
長い黒髪。青みがかった着物。揺れる髪飾り。
風が吹いている。草の匂い。そして、血のような鉄の香り。
視界の端からゆっくりと広がる“赤”。
——彼岸花。
土手沿いに、斜面を埋め尽くすように咲いている。
少女は振り返った。顔は霞がかかっている。
でも、泣いていることだけはわかった。
「……行かないで」
声がかすかに聞こえた。七海の声だった。
違う。あれは、**“私の声を借りた誰か”**の声だ。
火の手が上がる。空が、橙に染まる。
誰かの名を叫ぶ声。血のついた刀。
地面に倒れ、彼岸花の中に崩れ落ちる男の姿——
「やめてっ!!」
七海は叫びながら、現実に戻ってきた。
息が乱れ、胸が痛い。夢のくせに、息苦しさが本物だった。
喉の奥が、ひりひりする。燃えた空気を吸ったような感覚が、まだ残っている。
時計は深夜2時。
でももう、眠れる気がしなかった。
*
七海はキッチンの灯りだけを点けて、静かにノートを開いた。
眠れない夜は、こうして“夢の残りかす”を掬い取るしかなかった。
ペンが紙の上を走る。
《赤い花 火の海 刀 あの人……死んだ?》
《私が見ていたのか、それとも、あの子の目だったのか?》
文字は震えている。自分の手が震えているからだ。
なぜこんなに怖いのか。なぜ、涙が止まらないのか。
——あの夢は、ただの夢じゃない。
そう思ってしまった時点で、七海の中では“なにか”が変わってしまっていた。
スマホを取り出して、昨日ふと覗いたギャラリーのSNSを開く。
【作家在廊日】
──明日 午後13時~17時 /「ヒガンの記憶」展示作家・一ノ瀬 蓮
彼の名前を見ただけで、胸の奥がざわつく。
《なぜ、あの絵を描けたの? 私の夢と同じ景色を?》
……また、行ってみようか。
声をかける勇気はないかもしれない。でも、もう一度見たい。
“彼の目に映った、あの景色”を。
*
日勤と夜勤の間のわずかな休日。
いつもなら洗濯物をして、寝溜めして、コンビニで済ませて終わる日。
けれど今日は違った。
七海は、電車に揺られてギャラリーのある街に向かっていた。
スマホの画面に、何度も何度も在廊時間を確認しながら。
あの夢のせいだ。
あの電話のせいだ。
あの絵のせいだ。
そして——あの人の目の奥に、見覚えがあったせいだ。
七海は自分でも気づかぬうちに、歩く速度を早めていた。
まるで、“何か”に呼ばれているように。