16.影を越えて、ふたりで生きる
――音が消えた。
神殿の奥、誓詞の祭壇へと至る手前。
空気が凍りついたように静まり返り、白く揺らめく光の中から“影”が現れる。
それは、自分自身の記憶の結晶。
何度も繰り返してきた過去――
七海の前に立つのは、白い衣をまとった巫女。
蓮の前に立つのは、少年のように若い“怯えた自分”。
*
「あなたは……わたし?」
七海が息を呑むと、巫女は静かに微笑む。
「違うわ。私は、あなたが“忘れようとした私”。
神に従うことだけを許され、想いを言葉にすることも叶わなかった――本当の私」
その声は、どこまでも穏やかで、優しいのに哀しかった。
「蓮と出会い、心が揺れた。
でも、その想いが罰となることも知っていた。
だから私は、想うだけで、なにも選ばなかったの」
七海の中に、炎の色がよみがえる。
神殿の炎。祭壇に差し出された自らの命。
そして、叫ぶ声――「お前だけでも、生きろ!」
巫女は問う。
「七海。あなたは、なにを願うの?」
七海は震える声で言う。
「……生きたい。蓮と、ふたりで。
誰かに選ばされるんじゃない。自分で選びたい。
愛する人と生きることを、“罰”だなんて呼ばせたくない」
巫女の影は、静かに微笑んだ。
「それこそが、あなたの“祈り”なのね。
ならば、この魂を託すわ。
私が終えられなかった祈りを、あなたが今、選びとって――」
白い巫女の姿が、白い光へと溶けていく。
七海の心に、確かな決意が灯る。
*
「俺は……ずっと、お前を知っていた」
目の前に立つのは、絵筆を握りしめたまま震える“過去の自分”。
「七海を守りたいと思いながらも、何もできなかった。
絵を描くことでしか、想いを伝えられなかった。
お前は、あのとき――死にたかっただろ?」
影が問いかける。蓮は、目を伏せない。
「そうだ。……でも、今は違う。
七海の手を取って、生きたいと願っている。
守るだけじゃなくて、一緒に生きる未来を作りたい」
影は、小さく微笑む。
「ならば、前へ進め。
もう、後悔に縛られなくていい。
七海を信じろ。過去のお前ではなく、“今の蓮”で選びとれ」
影は静かに消えていった。
蓮の胸の奥に、過去の記憶が溶けていく感覚が広がる。
*
ふたりは、再び光の中心で出会う。
過去を越え、恐れを越え、自分自身を越えて。
七海がそっと蓮に手を伸ばす。
指先が触れたとき、誓詞の間の白い彼岸花が、淡く色づく。
「終わらせよう。過去じゃなく、未来のために」
「うん。もう、逃げない。ふたりで、生きよう」
*
二人は向き合い、唱えた。
「我が魂、かつて幾度も死を越え、再びここに在り
幾千の悲しみを越え、ふたたび縁を結ばん
ただ、この一度を終わりにするために――
いま此処に誓う。
運命ではなく、“ふたりの意思”をもって、
未来を紡ぐことを」
光が爆ぜる。
白い彼岸花が、ついに深紅に染まりはじめた。
だがそのとき、空間がわずかに軋むような気配。
光の奥に、ふたたび「黒い影」が揺らぎ始める。
その姿はまだはっきりしない――
だが、それは明らかに、“ふたりの前に立ちはだかるもの”。