13.輪の淵で待つもの
夜明け前、街はまだ静まり返っていた。
七海はバッグに、蓮がくれたスケッチブックと古文書の写しを入れ、そっと玄関を出た。
空はわずかに白み始めており、遠くの山々の稜線がゆるやかに浮かび上がっている。
待ち合わせの駅前には、すでに蓮がいた。
大きなキャンバスを収めたケースを背に、いつものように静かに立っている。
「……行こう」
七海はうなずき、ふたりは電車とバスを乗り継ぎ、古文書に記されていた“神域”へ向かった。
彼岸花の群生地を過ぎ、苔むした石段を登りながら、蓮がぽつりと口を開く。
「ここ……初めて来たはずなのに、何度も夢で見てる」
「私も、そう」
風が草木を揺らし、揃い咲いた彼岸花の花弁がゆらりと舞い上がる。
空気が変わったのを、ふたりは同時に感じた。
石段を登り切ると、崩れかけた祠がぽつんと立っていた。風化した木々に囲まれ、石碑の文字はほとんど読み取れない。
だが、蓮は迷わずその前へ進み、手を触れた――その瞬間、視界が赤に染まった。
熱い。
焼けるような風。
何かが燃えている。
――叫び声。
――白い装束の巫女が、紅蓮の中で崩れ落ちる。
――自分は、何もできないまま、それを見ていた。
「……やめろ……もう、やめてくれ……」
膝をついた蓮の額に、七海がそっと手を添える。
「見たのね、あなたの“始まり”を」
蓮はゆっくり顔を上げる。目の奥にあるのは、悔恨だった。
「何度も、何度も……守ろうとして、守れなかった。
神に逆らって、罰を受けて、でも、あきらめられなかったんだ――君を」
七海の胸が軋む。
その言葉が、あの夢の中で聞いた声と重なる。
「お前を、守る……。何度でも――」
過去は繰り返すものじゃない。
でも、それを選び直すことは、きっとできる――。
神殿へ続く最後の道。両脇を彼岸花が赤い絨毯のように彩っていた。
「ずっと怖かったの。運命なんて、変えられないって思ってた」
「でも……」と七海は続ける。
「運命を変えるって、“誰かを救うこと”じゃなくて、“自分で未来を選び直す”ことなんだよね」
蓮がスケッチブックを開く。
そこには、何気なく描き溜めていた絵があった。
古びた神殿。その前で手を取り合う男女。
今のふたりの姿に、あまりにもよく似ていた。
神殿の門が見えたときだった。
風が、止まった。
彼岸花の中に、ひとつの影が立っていた。
人のようでいて、どこか人ならざるもの。
その姿は――蓮に似ていた。
「また来たのか」
低く、くぐもった声が言う。
「何度誓っても、お前は彼女を失う。
神に逆らった罰は、終わらない」
七海が一歩、近づこうとした瞬間、蓮が遮った。
「やめろ。こいつは――過去の俺だ。
守れなかった、選ばなかった俺自身だ」
影の目がぎらりと揺れる。
「ならば証明しろ。“意志”が“定め”を超えられるかどうか――」
次の瞬間、影は彼岸花の中に溶けるように消えた。
残された静寂のなか、蓮が七海の手を握る。
神殿の門が、静かに開かれる音がした。
「選ぼう。今度こそ、終わらせるために。――君と、生きる未来を」