1.赤い花の記憶
七海は毎年彼岸花の咲く季節に奇妙な夢を見る。
夢の中に出てくる、毎回違う時代、立場の同じ顔の男性。
いつも恋に落ち、そして死に別れる。
そして七海の前に現れた夢に出てくる男性とそっくりな謎めいた画家――
夜が明ける寸前の街は、まだ夢の中にいるように静かだった。
ビルのガラス窓が淡い桃色に染まりはじめ、眠気と疲労が一度に押し寄せる。七海はコートのポケットに手を突っ込みながら、ビルの裏手をぼんやりと歩いていた。
夜勤明けの足取りは重い。頭の芯にまだ電話の音が残っている気がする。
機械的な応対と、割り切った声のトーン。今日も何十本と電話をこなしたはずなのに、ひとつひとつの内容が靄の中に沈んでいた。
ふと、視界の端に赤い色がちらついた。
そこだけ、季節が違うようだった。
小さな路地の先。ガラス越しに、真紅の花が咲き乱れているのが見えた。
ギャラリーだった。
白い壁に、大きな絵が一枚だけ飾られている。名前も知らない画廊。扉は半開きで、誰の姿も見えなかった。
吸い寄せられるように中へ足を踏み入れる。
その絵は、まるで夢の一場面のようだった。
彼岸花。赤い、燃えるような花が、画面いっぱいに揺れている。
花の海の真ん中に、一人の女性が立っていた。目を伏せ、静かに微笑んでいる。
白い服が風に揺れ、黒髪が首元に貼りついていた。
……自分に、似ている。
似ている、なんて言葉では片付けられない。
それはまるで——「これは、私だ」と胸の奥が即座に告げるような、圧倒的な既視感だった。
額縁の下に、名札のような小さなプレートがあった。
《赤い花の道》——そう、題名には書かれていた。
作者名のところには、たった一文字。
「蓮」
その名前を見た瞬間、七海の鼓動がひとつ跳ねた。
なぜだろう。初めて目にするはずの名前なのに、
——どこかで、呼ばれた気がする。
七海は無意識に絵へと歩み寄った。
額縁の中の赤が、鼓動と同じリズムで脈打って見える。
そのとき、不意に背後から声がした。
「……彼女に、似てるね。」
びくりとして振り返る。
そこには、青年が立っていた。
黒のハイネックにロングコート。痩せていて、目元の陰がやけに深い。
「すみません、急に。驚かせたならごめん。でも、本当に……よく似てる。」
七海は言葉を探したが、喉がうまく動かなかった。
その目が、自分を通り越して“誰か”を見ているように思えたから。
青年は視線を絵に戻し、言った。
「この人は、昔……赤い花の中で、僕を待っていた。」
——あ、と思った。
耳の奥で、ぱちん、と小さな音が弾ける。
気づけば、七海の視界が揺れていた。
足元から熱が昇る。
目の前の花が、風に揺れて、燃えるように開いていく。
熱い。痛い。けれど、怖くない。……知ってる、この感覚を、昔、たしかに。
――火の音。
――誰かが叫ぶ声。
――「先に逃げろ」
――「いやよ、あなたを残していけない」
――赤い花、赤い空、赤い指先。
「……っ!」
七海は、絵の前で膝をついた。
額に浮いた冷や汗を拭う手が、かすかに震えていた。
青年が慌てて近づこうとしたとき、七海は問いかけた。
「……あなた、名前……なんていうの?」
彼は少しだけ目を細めて、静かに答えた。
「蓮。画家をやってる。」
その名前を聞いた瞬間、心の奥で、
**誰かの“誓いの声”**がよみがえった。
——また来世でも、あなたを見つける。
額縁の中の彼岸花は、風もないのに揺れて見えた。
七海は立ち上がり、絵と青年のあいだでゆっくりと問いかけた。
「……この絵のモデルは、誰?」
青年――蓮は、少しだけ黙った。
視線は絵の中の女性から離れない。
「……正確には、モデルなんていないんだ。ただ……」
言いよどみ、連は言葉を探すように目を伏せた。
「あるとき、夢で見た。花の中に立って、僕に手を伸ばす人を。名前も顔も分からないのに、目が離せなかった。……それから、ずっと、描き続けてる。」
「……それが、この人?」
七海の声はかすれていた。
目の奥がじんと熱いのは、涙ではなく、何かもっと古い感情のようだった。
「なぜ、彼女を描いたの?」
問いかけながら、自分の胸に問い返していた。
なぜ、自分はこの絵に引き寄せられたのか。
なぜ、この人に“見られていた”気がしたのか。
蓮は、ほんの少し微笑んだ。けれど、その微笑みはどこか寂しさを含んでいた。
「さあ……どうしてだろうね。気がついたら、彼岸花ばかり描いてた。気づけば、彼女が真ん中に立っていた。」
「でも……会える気がしてたんだ。ずっと、描いていれば。いつかきっと、彼女が現れてくれるって。」
七海の心臓が、音を立てて跳ねた。
蓮はゆっくりと、七海の目を見た。
「……だから、君が扉の前に立ってたとき、正直……驚いたよ。」
静寂が流れる。
けれどその沈黙の中で、確かに何かが動き出していた。
まるで、閉じたままだった記憶のページが、一枚、音もなく捲れたように。
*
ギャラリーを出たあとの空気は、妙に澄んでいた。
けれど、七海の胸の中には微かなざわめきが残っていた。
駅までの道を歩いても、通勤客のざわめきに混じっても、彼岸花の赤が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
まるで、自分の中で誰かが目を覚ましたようだった。
あの絵を見たときの感覚。あの男の名前。連という響き。
すべてが、夢と現実の境を曖昧にしていく。
その晩、七海は早めに布団に入った。
頭が重く、眠気が妙に深かった。
けれど、眠りについた瞬間——
燃えるような赤が、視界を満たした。
夢の中で、七海は走っていた。
どこか知らない山の中。
道の両脇には、びっしりと咲いた彼岸花。
ざわざわと花が揺れて、遠くで誰かが叫んでいた。
「逃げろ、早く!」
誰かの声。男の声。懐かしい声。
けれど、足は止まらなかった。
走って、走って、振り返って、手を伸ばして——
火の海だった。
家が燃えている。空が赤い。
誰かが倒れて、血を流して、彼岸花の中に沈んでいく。
「やだ……やだ、いやっ……!」
叫ぶ声で、七海は飛び起きた。
心臓が激しく打っている。額は汗で濡れ、喉はからからだった。
窓の外はまだ夜。
カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、白く床を照らしていた。
夢の中の光景は、記憶ではなかった。
でも“知らない”とは言えなかった。
七海は胸に手を当てて、そっとつぶやいた。
「……知ってる。あれ、たしかに……私……」
記憶ではない。けれど、それは“物語”でもなかった。
自分の体のどこかが、あの夢の続きを、もっと奥の風景を——思い出そうとしている。
夢から覚めたあと、しばらく七海は動けなかった。
冷たい汗が肌を伝い、指先がかすかに震えていた。
カーテンの隙間から差し込む灯りが、現実のはずなのに、どこか嘘のようだった。
ゆっくりと起き上がると、枕元のノートに手を伸ばす。
こんな夢を見た日は、何かを書き留めておかないと、不安で眠れなくなる。
そう、昔からそうだった。幼い頃から“変な夢”を見てきた。でも、今夜の夢は、違う。
火の匂い。彼岸花。あの声。あの手。
ペン先が紙に触れる音すら、耳に染みる。
《燃える家 彼岸花 赤い空 ……“あの人”》
自分の字を見て、思わずペンを止めた。
「……“あの人”? 誰……?」
名前は出てこない。顔もはっきりしない。
けれど、心の奥が、微かに痛む。
懐かしさと、悲しみと、焦がれるような感情。
まるで、長い旅をしていた誰かを、ようやく思い出しかけているような——そんな感覚だった。
その瞬間、ふと頭の中に、絵がよぎった。
《赤い花の道》
彼岸花の中に立つ、自分にそっくりなあの女性。
あれは、未来の自分じゃない。
たぶん——過去の、私。
そう思ったとき、胸の奥で「かちり」と音がした気がした。
鍵が、回った音だった。
何かの扉が、いま確かに開こうとしている。
七海は自分の胸に手を当て、そっと目を閉じた。
「……思い出すのが、怖い。」
でも、知りたい。
なぜ彼女は彼岸花の中に立っていたのか。
なぜ蓮の名前に、あんなにも胸が揺れたのか。
記憶はまだ遠く、靄の中にある。
でも、それはたしかに“自分のもの”だと、七海は感じていた。