第0話 誰かに向けた祈り
----それは、セイレーン内にあるとある教会。
少年、ランデ・ベルーゼは、暗い夜の聖堂で、青みがかった長い黒髪の女性を前にしていた。
彼女の名はシエル・ベスマン。サーレの中では英雄として名の知れた戦士だった。
その彼女の肩を、緊迫した面持ちでランデは掴んでいた。
「もう時間がない…!出発の準備は終わりましたね?」
「けどランデ!あなたは!?」
心配そうな面持ちのシエルを見て、ランデは申し訳なさそうに俯いた。
「僕は残る。…守りたいものがあるんだ」
そう告げると、シエルは驚き、彼の肩を掴み返した。
「それがどういう意味かわかってるの!?ここに残ればあなたは…っ!」
「シエル教官」
ランデは狼狽えるシエルの手を握った。冷たく冷えた手は、小さく震えていた。
「僕が今の僕になって、こうして戦えるのはあなたのお陰です。本当に感謝してる。だからこそ、あなたにはあなたにしかできないことをしてほしい」
シエルは言葉を返そうとしたが、詰まって出てこない。ランデの瞳は、覚悟を決めた者のものだったからだ。
「さぁ早く。僕にはきっと、あなたの捜索命令が来る」
シエルの肩を放し、ランデは寂しそうな笑みを見せた。
その覚悟に、シエルはこれ以上の引き留めはできないと悟り、同じように肩を放した。
「…クレアに、よろしくね?」
「彼女は不満そうだったよ。それこそ、僕の術式を使ったらどんな行動に出るかわからない」
ランデは困ったように笑った。シエルはその表情に涙を浮かべるが、振り切り、背を向ける。
「もう…行くわ。必ず目標を成し遂げてみせる」
「…頼みます」
シエルにしかできないこと。それを成すため、彼女は覚悟を決めた。
だが、最後にシエルは振り返り、ランデを抱きしめた。強く、思いを込めた抱擁だった。
「そして必ず、あなたを救うわ」
シエルの腕の中で、ランデは涙を浮かべた。
このように弱さを見せられるような存在は、シエルしかいなかった。
「…ありがとう。人類とサーレの未来を、お願いします」
「ええ。必ず」
シエルはランデから離れ、出口へと走っていった。
その後ろ姿を見送った後、静かになった聖堂で、ランデは自分の服の胸にしみができていることに気づく。
「…さようなら。あなたがきっと、僕の初恋だった」
そう呟くと、カタン、と、聖堂の長椅子から音が聞こえた。
目を丸くしたランデだったが、微笑むと長椅子の影に向かって問いかけた。
「挨拶しなくてよかったの?」
一瞬の静寂。
「良いわよ。2人とも、私が何を言ったってどうせ聞きはしないんだから」
返ってきたその声はひどく不満そうで、ランデは困り笑いをするしかなかった。
ランデは腕の時計を見る。日が変わる。すでに深夜だ。
それを確認すると、彼もまた出口に向かって歩く。
「どこへ行くの?」
椅子の影から聞こえる声に呼び止められ、ランデは足を止めた。
振り返ると、仮想月光がステンドグラスを通り、青白い光が太陽の女神像を照らしていた。
「最後に、顔が見たいんだ」
穏やかな声音だった。ランデは再び出口へ向かい、扉に手をかけた。
「…そう」
悲しみと呆れの籠った声を最後に、椅子の陰からは声も気配も消えてなくなった。
ランデは扉を開く。
空には星が瞬き、街はそのものが眠った様に静か。
昼は人口太陽による偽物の空。このセイレーンにおいては、この夜の空こそ、ただ一つの本当の空だった。
ランデは空を見上げながら、一人呟く。
「ごめん。君には一番重く、辛い役回りをさせる。けれど、僕に頼れるのはもう君しかいないんだ」
その祈りは、誰に届くこともない。
「カグラを頼む。これは、君にしかできないことなんだ」
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