第35話
お祭りデートから数日後
夏も本場、最高気温が35度を優に超える8月に入った。
大学生だしまだまだ長い夏休みの真っただ中で、月一で夕陽と日下先生の診療を受けながら、自宅でのんびり過ごすのが常だった。
「厳しい夏の外出は、短めにしてください。」
先月精神科に赴いた際、先生に言われた言葉だった。
昔と違って、酷暑日と名付けられるようになった日は、38度を超えてくる日もある。
暑さも寒さも、心身ともにダメージを与えるもの。
不安定な疾患を患っているなら、わざわざ厳しい所に出向く必要はないと、先生はおっしゃった。
運動不足や体力不足を補うなら、自宅で決まった時間での筋トレを勧められた。
なので無理のない程度に、いつもリビングで習慣的に筋トレしている夕陽に付き合わせてもらっていた。
彼は元来バリバリのスポーツマンだ。
子供の頃からスポーツ万能だったようで、幼い頃から習っていた空手では、中学生で日本一になった。
そんな才能を持つこと自体異例のことだけど、夕陽はあまり自身のスポーツ遍歴の話をすることはなく、話題にすることを何となく憚られていた。
薫 「ふぅ・・・」
「よし、5セットやったし、今日は終わりな~。」
「うん・・・。」
「どしたぁ?疲れちゃったか?ちゃんと水分とってクールダウンしような。」
いつものように気遣いを見せてタオルやコップを手渡す彼を、じっと見上げて、その可愛い垂れ目を覗き込んだ。
「んふ・・・なに?可愛いな・・・」
「・・・夕陽は・・・」
「おん」
「その・・・・・・・」
「・・・・なに~?」
なかなかどう質問するべきかと思案する俺に、待ちきれない様子で、夕陽はそっと抱き着いてすり付いた。
「あのね?・・・・」
「うん。」
「夕陽はその・・・・もう一度、空手を・・・やりたいとか思う?」
「空手ぇ??」
夕陽はハトが豆鉄砲くらったような顔をして、小首を傾げる。
「ん~・・・・別に特にやりたいとは思ってないなぁ・・・。なんで?」
「ん・・・だってその・・・日本一になったくらい才能あったわけだし・・・かなり期待されてる選手だったって・・・」
「ふふ・・・そうかぁ・・・。」
夕陽はテーブルに置かれたグラスを取って、またグビっと水を飲んだ。
ソファに腰かけて、隣をポンポンっとするので、促されるままに腰を下ろした。
「薫はたぶんだけど、せっかくいい結果だしたスポーツを簡単に辞めちゃって、もったいなかったんじゃないかとか、俺に未練はないんだろうかとか、そういうことを聞きたいんだと思うけど・・・合ってる?」
「・・・うん。その・・・ミーハー精神で聞いてるのかもしれないし、失礼なんだったら無理に聞こうと思ってなくて。夕陽の熱意は、空手に対してもうないのかなって・・・」
「ん~・・・。あのさ、ちょっと昔話になるんだけど・・・」
「うん」
「父さんさ、昔若い頃は警察官だったんだよ。」
「え・・・そうなんだ。」
「うん。だから柔道とか、空手とか、剣道とか・・・人に教えられるレベルの人でさ、それで俺も小さい頃からやらせてもらってたっていうのがきっかけで・・・。父さんはその、所謂お巡りさんっていうんじゃなくて、警察署に勤めてる、捜査一課の人だったらしくてさ。んでも、俺が生まれたばっかりの頃、殺人事件の捜査中で犯人追い詰めた時に、不幸にも犯人に刺されちゃってさ」
「え・・・えぇ!そうなの・・・?」
「んでまぁ・・・結構傷が深くて、やばかったらしいんだけど。まぁ何とか助かってさ、その時駆け付けてた母さんが、赤ちゃんの俺を抱っこしながらわんわん泣いてたらしくて・・・。その様子見て、もう自分の身を危険にさらすような仕事をするのは辞めよう、って思ったらしいんだ。」
「・・・そうなんだ・・・」
「そ~。父さんも父さんなりに、仕事に使命感持ってたと思うけど、自分が一番大切にしたいと思ってる人たちを、これからも不安にさせ続けたいかっていうと、そこまでの仕事じゃないって踏ん切りついたらしい。その後母さんが朝陽を妊娠してるのもわかったしな。」
「そっか・・・。結構お父さん波乱万丈な方だったんだね。」
「ふふ、まぁな。・・・・俺はさ、薫もご存じの通り、朝陽を亡くしてから、一旦人生リセットされたような気になっちゃってさ・・・」
夕陽は視線を落として、しんみり語るように少し皮肉を口にするように続けた。
「俺の人生は変わらず続いてくのに・・・朝陽だけこの世からいなくなっちゃって・・・んでもこういうことって、誰にでも起こりうる不幸だよなって言い聞かせて・・・虚しさとか悔しさとか、憎悪とか・・・色んなもんに苛まれてさ、自暴自棄になりたくても、両親が心配でそこまで落ちることも出来なくて・・・それで頭切り替えたくて受験勉強に全ぶりしたんだよ・・・。だから当時高校生の頃、自分を納得させて空手を辞めて違う部活動してたわけだけど、気持ちは朝陽の事故で途切れて・・・自分のことどうでもよくなってきて・・・。んで大学生になって、俺の熱意は薫に移っちゃったってわけ。」
彼は子供の頃の失敗を語るように、仕方なく笑った。
「だから薫の質問の答えになるかわかんないけど・・・もう一度やりたいとは思ってないよ。」
「・・・・・」
「もっと聞きたい事ある~?」
また大きな手で俺の頭を優しく撫でながら、夕陽はおでこにキスしてくれた。
「もっと・・・・」
「ん?・・・ベッド行く?」
「もっと夕陽の話聞きたい。」
「えへ♡いいよ~?」
それからたくさん、小さい頃の話を聞いた。
小学生の頃の初恋話。
空手の話や、初めて出来た彼女の話。
高校生になって出来た友達の話や、別れ話。
お父さんやお母さん、朝陽さんとの思い出話。
夕陽がたくさん語ってくれている中、時に気遣いを見せたり、苦い思い出を何とかオブラートに包んで話していたり、俺が聞きたいと言ったから、一生懸命応えようとしてくれていることが、ずっと愛おしかった。
そしてその夜、一緒にベッドに入って眠りに落ちた後
ふと外から雷の音がして目が覚めた。
「・・・雨・・・」
何度か雷が鳴り響いた後、雷雨が街を襲っているのが窓から見えた。
覗いたカーテンをそっと閉めて、トイレに行こうと寝室を出ようとした時、隣のドアの隙間から漏れ出る光を感じた。
夕陽の部屋として私物を置いている部屋は、そこまで物を持ってこなかった彼の、棚に置いてあるいくつかの書籍や、小さなテーブルと、彼が使うノートパソコンが置いてあるくらいなもんで、夕陽も部屋にこもって何かすることは滅多にない。
気になってそっと中へ入ると、小さな簡易デスクランプがつけっぱなしだった。
そこには、一冊大学ノートが置かれていた。
何だろう・・・
何となく気になって腰を下ろして見てみると、№5と書かれているだけで、何のノートなのかは表紙だけではわからない。
・・・勝手に見るの・・・まずいよね・・・
大学で使っている授業用ノートなら問題ないだろうけど、今は夏休み中だし、わざわざ大学で使っているノートを出してるわけない。
もしかしたら夕陽の日記かもしれない・・・。
閉じずにいたドアの向こう、セミダブルのベッドで静かに眠る彼を見やって、心の中で呟いた。
夕陽ごめん!
さっと見てさっと閉じてしまえばいい。
日記だとしたら見なかったことにしよう。
そう思いながら最初のページをぱらっと開いてみると、ごくごく日常的な文章があった。
今日はスーパーに買い出しに行っただの、薫がこんな話をしてくれただの、取り留めのない可愛い日常的な様子。
やっぱり日記だったのか・・・と思いながら次のページを開くと、途端に書き方が変わった文面が目に入った。
今日は精神科で日下先生から、薫の疾患の詳しい状況を聞いた。
現実味を帯びた悪夢を見ると話していたり、日常的に不安に襲われる傾向にある精神を、薬に頼らずどう解決していったらいいのかと、尋ねられたらしい。
解離性同一性障害は、あらゆる精神疾患を引き起こしてしまうきっかけにもなりうる。
これまで調べた中での疾患のうち、PTSD、心因性失声症、鬱など、最低でもその三つ以上、薫は引き起こしていることになる。
発症するきっかけとなった過去のことは、今更どうにも変えられないにしろ、一つずつ症状を抱える場面と向き合って、対話を重ねていくしかない、と先生に言われた。
薫は今日の夕方、夕飯の準備中、中華料理の話題になった際、「そういえば・・・」と小さく呟いた後、何事も無かったように切り替える笑顔を見せて俺に料理の話をした。
深堀することはしなかったけど、もしかしたら両親とどこか外食に行った思い出が、頭に残っていたのかもしれない。
夕飯の後、ソファでいつものように寛いでいた時も、親子で楽しそうにキャンプをしているCMをテレビで観て、ふと視線を向けると、何とも言えない暗い目をしてボーっとそれを眺めていた。
俺が他愛ない話をすると、我に返ったようにニコリと微笑む。
俺は知らず知らずのうちに、薫に無理をさせているんじゃないだろうか・・・。
もっと先生と情報を共有して、疾患のことも詳しく調べながら様子を窺おうと思う。
その後も日記のような文章と共に、彼が一生懸命調べ尽くした精神疾患の情報と、それと照らし合わせて考察している俺の様子が綴られていた。
どんな些細の事でも取りこぼすことがないように、忘れないように、刻み込むようにびっしりと。
そんな文面で、ノートの半分が埋まっていた。
これが5冊目ってことは・・・もっと前から書いてたんだ・・・
俺と過ごしている中でのことを、こんなに細かく・・・
夕陽はパソコンが得意な人だ。
元々頭がいいし、課題をこなすのだって早い。
けどあえてアナログにノートに書いているのはどうしてだろう・・・。
静かにノートを閉じ、ランプを消してトイレへと向かった。




