第30話
夕陽の提案に小首を傾げていると、彼は続けて言った。
「美咲さんとこで手伝いさせてもらってた時みたいにさ、薫がしんどければ休憩させてもらって、力仕事は俺がして・・・って感じで家事代行させてもらえるならさ、前と同じように一緒にいられるよ。」
「あ・・・そっか・・・そうだね・・・。」
「まぁ問題は、島咲さんが都合よく俺らの条件を飲んでくれるかどうかだけどな。」
彼はそう言いながら立ち上がって、冷蔵庫に手をかけた。
夕陽と一緒に日常を生きられている現状を失いたくないなら、もう少し療養に専念すべきかもしれない。
精神疾患をいくつも抱えるということは、普通の生活が困難になることだ。
俺はどこかそれを心の中で受け入れられず、焦燥感にかられながら、まだ大学に通学したいと思ってる。
辞めたい、投げ出したいと苦しみながら、本当は何も出来なくなる自分が嫌なんだ。
また情けなさで涙が滲みそうになっていると、俯いた俺の目の前に、夕陽は冷たい麦茶を置いてくれた。
そして彼はまた隣にゆっくり腰かける。
「薫はこう思ってるかもしれない・・・『足並みを乱してばっかりで、自分が情けない』って。」
夕陽を思うが故に、邪魔になるような自分が嫌で、何も言えなかった。
「・・・皆さ、気付いてないんだよ。・・・家族がいて、学校に行けば友達がいて・・・もしくは、満員電車に乗って働きに出て、上司や部下と一生懸命働いて、給料をもらって、飲み会に行って・・・。そういう苦しくも当たり前にある日常がさ、無くなるなんて思わず生きてて、実は貴重な時間だってこと・・・。」
「うん・・・」
「でもさ、人間関係には色々あるからさ・・・家庭環境が悪くて精神的に不自由があったり、トラウマ抱えて大人になって、会社に入ってから苦労したりさ・・・必ずしも普通に生きて来れたから幸せだってわけでもない。・・・つまり何が言いたいかというとさ・・・薫の精神状態が安定しないのは、疾患があるからだし、それが珍しい病気なわけでもなくて、薫が悪いわけでもないし・・・ネガティブになっちゃうのも、病気のせいだから薫のせいじゃない。躓いて皆が歩んでる道を外れても、急いでダメになるより、自分のペースを作る方が大事だと思う。」
「うん。」
「俺さ・・・薫と付き合える前、ずっと考えてたよ。薫のこと・・・」
まるで遠い記憶を遡るかのように、ゆっくり瞬きする彼は、同じくそんなに昔のことでもないことを、可笑しく思うように苦笑いを落とした。
「薫から話を聞いた程度の情報量で、色々想像したよ。どんな風に学生生活送ってたんだろうとか・・・家の中ではどんな風に過ごしてたのか・・・家族や周りの人たちに対して、どう思ってたんだろうとか・・・。そんでつらいこともたくさんあったんだろうなって思うと・・・いっつも行きつく考えがさ・・・俺が側にいたら、薫に寂しい想いなんて絶対させなかったのにって・・・。んでも過去のことはもう変えられなくて、もし自分を好きになってもらえて、一緒に居られる権利が与えられたら、これからは一生寂しい気持ちになんてさせないんだって・・・一人ベッドの中で悶々と考えては、何度も誓い立ててたんだ。」
「・・・・・」
夕陽はいつもの柔らかい笑みを見せて、すり寄るように抱き着いた。
「薫を愛してる俺がいるから大丈夫。」
「・・・うん。」
「何があっても俺が側にいるから、二人で考えて生きていけるよ。」
「うん・・・」
「・・・何度もこういうことを、繰り返し言わせてるって思った?」
「・・・・何で心読めるの?」
「ふふ・・・もうわかるようになってきちゃったな・・・。何度でも繰り返して言うよって約束したからなぁ・・・。薫は大丈夫だよ。もう二度と、独りきりにはならないんだから。」
心の柔いところに触れるのが上手な彼は、みっともなく涙を流す俺をニコニコしながら受け止めてくれた。
「・・・夕陽に出会えたことが、俺の人生最大の幸福だよ。」
ボロボロになった顔を上げて、涙で滲んだ声を振り絞って言うと、夕陽もじんわり涙を浮かべて、また強く抱きしめてくれた。
「薫・・・どれだけ挫けそうになっても・・・どれだけ自分が情けなくなって、俺に申し訳ないと思ったとしても、俺は薫の気持ちを否定したりしないよ。解離性同一性障害は、完治する病じゃないって先生が言ってた。でも少しずつ統合は出来てると思うんだよ。心が重くなって、鬱が進行したら、たくさん休んで、少しずつ日常を生きてさ・・・少しずつ回復していくんだよ。経済的なことは俺が考えるし、薫も気持ちに余裕があれば、一緒に考えてくれりゃあいい。」
「うん・・・わかった。」
夕陽はまた顔を見合わせて、じっと俺の瞳を覗き込んだ。
「もう・・・俺だけを信じて生きてける?」
「うん。」
夕陽は安堵したようにゆっくり頷いて、島咲さんに直接バイトの交渉をするために、会って話したい旨を送ってほしいと言った。
「・・・夕陽はお医者さんになれそうだね。」
「ん~?」
メッセージを送り終えて夕陽の肩に頭を預けた。
「だって・・・癒されるし、安心するし・・・聞き上手だし、精神科の先生にきっと向いてるよ。」
「はは、そういうことな。ふふ・・・ん~・・・俺はまぁ・・・薫のパートナーだからさ、薫の専門医なわけ。薫以外の治療はしたくないよ。」
おどけながらそう返す様に笑みが漏れると、夕陽は甘えるようにデレデレして、「可愛い」と言いながら俺の頭を何度も撫でた。
数日後、奇しくも美咲さんのうちへ伺う日が、島咲さんのご自宅へ伺う日と重なった。
思わぬ偶然や巡り合わせで、俺も夕陽も随分一族の方々にお世話になっている。
人との出会いで運命が変動していくと、そう話していた島咲さんの言葉を思い出しながら、いつだってそのきっかけは、咲夜と出会ったことだったなと、思い返すに至る。
咲夜に対して感謝の念があるけど、実のところ夕陽はどう思っているんだろうかと、時々気になっていた。
歩いて20分ほどの道のりの中、徐にそれを尋ねてみることにした。
「ねぇ夕陽・・・」
「ん~?」
仲良く手を繋ぎながら、いつものように穏やかな笑みを浮かべる彼に、なるべく言葉を選んだ。
「あの・・・俺がさ、咲夜の話をしたら・・・やっぱりいい気持ちはしない?」
遠慮がちに尋ねると、夕陽は一瞬表情を止めて、考えを巡らせるように視線を泳がせた。
「ん~・・・・そうだなぁ・・・ちょっと前もめっちゃ焼きもち妬いたとこだけど・・・。んでも、薫が先輩に対して、色々世話になってるって思いながら感謝してるのは知ってるから、今となっては別にそこまで激しい嫉妬心とか、敵意があるわけじゃないよ。」
・・・それまでは嫉妬心と敵意あったのかな・・・
「何を話そうとしたん~?」
俺が言葉に詰まっていると、彼は歩きながらも俺の顔を覗きこんで意地悪な顔をする。
「ん・・・夕陽の言う通り、咲夜に対して返しきれない恩を感じてるのは事実なんだけど・・・俺はその・・・個人的に、夕陽は咲夜に対してどういう風に思ってるのかなぁって・・・。」
「どういう・・・・それはぁ・・・印象がどうかとか?」
「そうだね・・・どういう人だと思ってるのかなって」
時間に余裕を持って家を出たために、二人してゆっくり住宅街を歩きながら、夕陽は通り過ぎる車や建物に視線を流して、また静かに口を開いた。
「最初は・・・そうだな・・・相手を見透かすような目が・・・ちょっと怖かったかな。一般人には想像できないような家庭環境で生きてきた人だからかな・・・雰囲気が普通の学生じゃない感じがしてさ・・・。」
そう言われて、咲夜との初対面を思い出した。
「確かに・・・そうかもね。」
咲夜はまるで、作り物ののような、人形のような美しい顔立ちをしている。
加えて180センチ以上の身長と、抜群のスタイル・・・
一見冷徹とも思える眼差しは、簡単に腹を探らせないような、威圧感がある人だ。
口を閉じてじっと座っているだけなら、誰もが存在自体に、畏怖を感じるかもしれない。
「けど何だろうな~・・・。ほら、一緒に4人で焼肉行った時さ、小夜香さんにニコニコしながら接してるの見て、あぁ・・・普通の人なのかもなっていう印象も持ったよ。」
「ふふ・・・そうだね。デレデレしてたね。」
夕陽も同じく思い出したようにクスっと笑った。
「うん。なんていうか・・・俺が薫に対して接してる様を、傍から見るとこんな感じなのかもなってくらい・・・。そりゃ並外れた部分もあるとは思うんだけど・・・自然体で話してるとことか、俺に対して最初は探りを入れるような態度を取ってた瞬間もあったけど、薫のこと本当に大事な友達だと思ってくれてんだなっていうもの感じたし・・・人情深くて聡明な人だなっていうのは、何となくわかるよ。」
「・・・そっかぁ・・・」
「・・・薫はどうしてそれを聞きたいと思ったん?」
「え・・・ん~・・・どうしてかな・・・。」
自分の気持ちを整理するように考え込みながら、繋いだ手をまたぎゅっと握り返す。
「きっと・・・咲夜は夕陽とはまた違う意味での、特別な友達になったからさ・・・夕陽はどう思うだろうっていう・・・好奇心なのかな。」
「好奇心かぁ・・・」
「咲夜はさ・・・夕陽も感じてた通り、俺たちじゃ到底推し量れないような家庭環境で過ごしてきただろうし、人に対して畏怖を与える程、迫力ある瞬間も昔から確かにあって・・・。今は本当の友達だと思って付き合いを持ってくれてるけど、俺が見逃しちゃうような本質みたいなものを、夕陽は感じてたりするかなっていう・・・探求心?」
「ほう・・・つまり薫は、先輩に未だ興味津々ってこと?」
「・・・いや・・・咲夜にじゃなくて、夕陽の洞察力に興味津々なんだよ。」
「あはは!俺かよ!・・・ふふ・・・そっかそっか。」
夕陽は何だか少し嬉しそうに口元を持ち上げたまま、また前を向いて歩き出した。




