第29話
それから数日、体は問題なく元気だけど、何だか起き上がるのも億劫に感じる程、気分は晴れなかった。
夕陽は俺のいつもとは違う様子を心配して、日下先生の病院に向かったところ、軽い鬱症状があると診断された。
週2か3日程度、ハウスキーパーのバイトに行っていた島咲さんにも、事情を説明すると、しばらく休んでもいいと了承してくれた。
周りは気遣ってくれるし、休むことは当然で無理をしてほしくないと、皆良くしてくれるけど
それでも自分が情けなくて、いつも通りに出来ないことに落ち込んでしまう。
夏休みだからいいものの、せっかく復学できたのにこの調子じゃ・・・
焦りというより、もう自分自身に対する諦めに近かった。
落ち込みたくはないのに、どうしても気分が沈んでしまう。
繰り返し同じことを考えてしまう。
そんな時は決まって、夕陽が同じようにベッドに添い寝してくれながら、他愛ない話をしたり、少し近所を一緒に散歩してくれたり、気晴らしに付き合ってくれた。
「薫、無理に元気にならなきゃなんて、考えなくていいからな。色んなことに対する不安はあるかもしれないけど、それらが少しずつ起こらないようにどうしたらいいか、二人で考えていこう。」
「うん・・・」
いつものようにリビングで寛ぎながら、夕陽は優しく語り掛けて、俺の頭を撫でた。
一つため息をついて、金銭的な不安や、最後の予備試験を受ける自信が無くなってしまったことを、彼に打ち明けた。
「そっかそっか・・・。そうだなぁ・・・。俺はさ、予備試験はわざわざ受けずに、大学院まで行くのはどうかなって思ってるよ。」
「でも・・・」
「俺は奨学金の制度をよく知らないから、どこまでお金貸してくれるのかわかんないからさ、今度夏休み明けたら、大学で相談しに行ってみよう、そなへんどうなってんのか・・・。」
「うん・・・わかった。」
夕陽は俺の両手を掬うように大事に取って、ぎゅっと握ったり撫でたりした。
それから頬に触れて、スリスリ肌を撫でて、額にキスされて、髪の毛に指を通して感触を確かめるように撫でた。
目を合わせると、幸せそうにニコニコする夕陽は、優しくキスしてから、いつもの調子で言った。
「薫・・・言おうかどうか迷ったけど、一応報告しとくな。」
「・・・なあに?」
「こないだ薫が倒れた時話してた、親父さんから来てたメールの件だけど・・・。俺が代わりに読んだから、要約して伝えるな。」
その時少し、胃がチクリと痛むような感覚を覚えた。
「薫のためにずっと貯めてた学費を、色々考えたけど薫に使ってほしいから、回数分けて口座に振り込もうと思うって。たぶん日本円にしたら一千万くらい。」
「・・・・い・・・・え・・・・?」
「まぁ額が額だから・・・ビックリするよな。・・・何となく送ってきてた文章読んだ感じだと、親父さんの誠意は伝わったし、お金っていう形でしか、詫びを返せなくて申し訳ないとも書いてた。・・・はぁ・・・俺的にも、最初困惑したし、どうしたもんかなぁって悩んだけど、薫がそんなの今更受け取りたくないっていうなら、突き返してもいいし、もらえるもんは貰っとこうって精神でもいいとは思う。ただ・・・これを伝えることで、考えて決断を下すっていう負担が、薫にかかるのは明白で、今そんな精神状態でないのも承知してる。けど何となく、ここで判断を下して明確な返信をしておかないと、キッパリ別れにはならないのかもしれない。」
「・・・勝手な人・・・」
その時初めて、何も切り替わる感覚なく、視点が俯瞰に変わっていた。
「はは、ホントそれ。」
「でも・・・勝手に関わりたくないって拒絶したのは・・・私の方だった。」
「そうかな・・・。薫は子供の頃待ってたのに、帰ってきてくれなかったんだろ?挙句によそで家族作ってさ・・・・いや、こういう言い方は悪いか・・・・ごめん。」
「私は私を世界一大事にしてくれる夕陽がいたらそれでいいの。」
真っすぐ見つめ返すと、夕陽はまたふわっと笑みを浮かべて抱きしめてくれた。
「えへぇ・・・俺も薫がいれば何でもいいよ。」
「・・・・・・・お金は・・・・これからの生活費として・・・ゆっくり使おうかな・・・」
「うん、それでもいいと思う。」
「これ以上・・・夕陽のお荷物になりたくないし・・・」
「おい~~人の話聞いてる?」
「ごめん・・・・そういう風に言っちゃう癖が治らなくて・・・」
「ふふ・・・いいよ、これから何年も、何十年も一緒に居たら、変わっていくから。」
「・・・・ホントはね・・・・」
「うん」
「ホントは・・・・」
胸の中につっかえているものを、喉から絞り出すつもりで言葉にした。
「本当は・・・俺もう・・・しんどくて全部辞めたくて・・・・」
「うん、いいよ、辞めても。」
「・・・予備試験のことも・・・大学を卒業することも・・・ゆくゆくは弁護士になりたいなんて夢も・・・・ホントはもう全部辞めたい・・・」
「うん」
情けなさなのか何なのか、弱さを吐き出すとどうしようもなく比例して、涙はこぼれていった。
「夕陽の側で生きていられれば・・・何でもいい・・・・。仕事とか・・・出来るものなら何でもいいし・・・夕陽と一緒に・・・毎日寝起きして・・・家事して・・・そういう家族と一緒に過ごしていける普通の幸せがほしい・・・」
「うん・・・そうか。わかった。」
もしかしたら誰もが当たり前にあるかもしれないそれは、俺にとって手に入らないものだった。
そして大事な家族を一人失った彼も、幸せな家庭は、当たり前のものじゃなくなった。
「普通」がどれ程困難で、継続する幸せではないということを、ハタチそこそこで、俺たちはもう知ってしまった。
その後やっと自分が空腹だったことに気付いて、夕陽が作ってくれたクリームシチューを食べた。
温かくて優しい味。お母さん直伝だと言ってた。
美咲さんにおうちに伺う日取りを返信して、父さんのEメールには『送りたいなら勝手にしてくれて構わないし、パートナーと生きていくために使わせてもらいます』と送った。
固定概念や、過去の目標に囚われるのはやめた。
落ち込んでしまう自分のパターンがわかったなら、どこかで考え込むスイッチを切らなきゃならない。
夕陽はご飯を食べ終わった後も、これからの二人のことを色々提案してくれた。
抱えてることに答えを出すために、不安に思っていることを紙に書きだして、一つずつ最善策を二人で考えた。
「薫の一番叶えたいことは、平穏に暮らしていくこと?」
「・・・うん・・・。」
「・・・他に何か思いつく?」
夕陽の優しくて丁寧な字が書かれた紙を見つめて、自分の根底にある想いを打ち明けた。
「本当は・・・何度辞めたいって思ったとしても・・・・きっとね・・・・大学は卒業したいって思っちゃうんだ・・・。必死で勉強して・・・・入学するっていうことが、自分で叶えた最初のことだったから・・・」
「うん」
「自分のメンタル安定させながらでも・・・多少の無理をしてでも・・・ちゃんと通学したい。」
「・・・よし・・・わかった。・・・じゃあ・・・しばらくバイトは辞めとこっか。卒業するっていうことが、直近の目標として、単位を取りながら、通学していくことを第一としよう。運よく頼れる資金源もあることだし・・・な。」
「うん・・・」
「後・・・バイトだけどさ、俺・・・今行ってる塾講辞めようかなと思ってる。」
「・・・え?」
急で思わぬ決断を告げられて、一瞬思考が停止したけど
俺が自分を責めるよりも先に、夕陽は口火を切った。
「こないだみたいに、薫に何かあった時、側にいられないのはやっぱ無理だし・・・。少ない日数なら、家を空けてもいいかなって思ってたけど・・・そもそも独りきりにさせたくないと思ってんのにさ・・・ダメな気がすんだよな。」
俺は夕陽の選択肢を、どんどん狭めていってる・・・
「だからさ・・・薫の代わりに俺が島咲さんちでハウスキーパーやらせてもらったり・・・出来ないかな・・・?」
彼は妙案とばかりに、苦笑いしつつ言った。