第23話
6月下旬、事前に夕陽も受診したい旨を先生に伝えて、定期健診にやってきた。
彼は特に緊張している様子もなく、いつも通り辿り着いたビルのエレベーターに乗り込んで、精神科の自動ドアを一緒に通り抜ける。
二人一緒に問診を受けるわけではないけど、何だか俺の方が妙に緊張してしまっていた。
そんないつもより少しソワソワしている俺に気付いて、夕陽は不思議そうに待合室で声をかけてくれたけど、俺は何でもないように微笑み返した。
夕陽とぴったりくっついてソファに座って待ちながら、拳を握って、一つ深呼吸する。
すると夕陽の大きな手が落とした視界に入ってきて、俺の片手をぎゅっと握ったり、離したりして弄び始めた。
チラっと彼を見ると、ニヤニヤしながら今度は俺の手をスリスリ撫でる。
もう・・・可愛いことして・・・
そうこうしてるうちに名前を呼ばれて、夕陽に背中を見守られながら診察室へと入った。
「失礼します。」
「どうぞ。・・・薫さん、お好きな椅子へ。」
先生の診察室の中は、子供でも物怖じしないようにか、可愛らしいぬいぐるみが置かれていたり、キャラクターのシールが壁面に貼られていたり、小さな子供用の椅子から、大人用のカラフルなスツール、落ち着いたシックな椅子まで色んなものがある。
先生曰く、その人がその時選んで座る椅子で、多少心境を推し量っているのだとか。
俺は白くて高さ的にも座りやすいスツールを選んで腰かけた。
先生はパソコンを少し操作して、事務椅子をくるっと向けると、俺の目線に合わせるように高さを下げて、いつもの優しい瞳をゆっくり瞬きした。
日下先生は他人の心境を探るプロだ。
けどその目に威圧感はなく、見透かされているような不思議な感覚もない。
「薫さん、何かお話したい事はありますか?」
その日最初に投げかけられた質問は、少し意外なものだと感じた。
話したい事・・・・
「・・・・・先生は・・・夕陽のことをどう思いますか?」
俺の質問に、先生は特に動じることなく少し視線を落として思案した。
「・・・そうですねぇ・・・。年齢のわりに、かなり大人びた方だと感じます。」
「・・・ですよね。」
「ええ。・・・・。」
先生が夕陽に対して他の印象を語ろうとしているのか、それとも違う質問を待っているのかわからないまま黙っていると、先生は結婚指輪が光る白い手を組んで、自分の足の上に置いた。
「語弊を恐れずに、薫さんに伝えたいことがあるとすれば・・・朝野さんに受診を勧めてくださって、感謝しています。」
言葉の意図を汲み取るために視線を返すと、先生はいつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「優しくて、朗らかで、聡明で、賢明で・・・愚直で、温厚で、真面目・・・私が朝野さんから感じてきたものは、そういうものです。そして時に、嫉妬深く、狂気じみた薫さんへの愛情や、執着心を感じたこともあります。それらを肥大化させている一因は、大事な身内を亡くした苦しみによるものだと、確かに感じていました。もちろんそれだけではないでしょうが、本人もおっしゃっていたように、心のバランスを保つためにも、己と向き合う機会を持つタイミングは、いつ何時でも測るべきです。朝野さんの精神が、絶妙なバランスで数年間保たれていたとしても、それが何かのきっかけで崩れてしまいそうだと・・・薫さんはわかっていましたよね。」
「はい・・・」
「貴方と朝野さんは、他人には言い表せない、稀有な絆で結ばれているように思います。お互いが必要不可欠で、どちらかが生きるべきだと思えば支え合えて、どちらかが死のうと思えば一緒に・・・と思うほど。」
淡々と変わりない様子で語る先生が、ただ浅はかな上辺の意見を述べているわけでないことがわかる。
だからこそ、その感性が鋭いことに驚きを隠せなかった。
「朝野さんの根底にある問題は、これから信頼関係を築いて探っていくつもりでいます。」
「はい・・・よろしくお願いします。」
軽く頭を下げると、木漏れ日が入る窓を背に、先生はわずかに「ふふ」と笑い声を漏らした。
「薫さんの話を少し聞いて、治療の説明を朝野さんにしたときも、そんな風に神妙な面持ちで『よろしくお願いします。』とおっしゃっていましたよ。」
「そ・・・なんですか・・・。」
「・・・薫さん・・・朝野さんの為なら、必要なことは何でも頑張れる気がしますか?」
「はい、もちろん。」
「それは何故でしょう」
「だって・・・・だって・・・夕陽は・・・俺のために何でもしてくれるんです・・・。いつも俺の事一番に考えて、側にいてくれて・・・俺のことを誰よりも解ろうとしてくれて・・・俺の事ばかり優先してくれて・・・いっつもいっつも・・・彼の時間の全てを・・・奪ってるのに・・・」
「いいえ、薫さんは何一つ奪ってなどいません。人間が生きる時間は、色んな物に変えることが出来ますが、朝野さんに以前時間の話をした時、自身の願いと欲望を叶えるために使ったとおっしゃっていました。いつだって自分はそうだったと。」
「願いと・・・欲望・・・?」
「はい。薫さんを支え、側にいて願いや要望に耳を傾け、時間を費やして薫さんの苦しみと向き合うことは、自分にとって必要なことだったと。誰よりも側にいるのは自分でありたくて、少しも離れたくはなくて、一番に頼りにされたくて、愛し愛されていたくて、その相手として自分を選んでくれたことが、毎日嬉しくて仕方がないと・・・いつだったか、そうおっしゃっていました。」
先生の言葉に、途端涙が溢れてこぼれた。
診察室の向こうで、大人しく座って待っているだろう彼を想像して、無性に抱きしめに戻りたくなる。
「薫さんは、朝野さんに日々生きていく力や喜び、幸福を与え続けていました。出会った頃に、壊れそうだった心を繋ぎ留められていたのは、薫さんがいたからだと。」
「・・・はい・・・」
「誰かから・・・愛されることに慣れていない貴方が、ネガティブな考え方で推し量ってしまうことは、決して薫さんのせいではありません。ですが、隣にいるべきは自分で、朝野さんを一番に想っているのは自分だと、ハッキリわかっている薫さんは、心の中にちゃんと存在します。パートナーである自信は・・・そろそろ持っても大丈夫なんですよ。」
物語を朗読するような声で優しく諭されて、涙をグイっと拭ってまた一つ頭を下げた。
「ありがとうございます・・・先生。」
「いいえ。」
ニコリと穏やかな笑みが返ってきて、ふと時々感じる羨ましさに似た感情が、心の中に落ちた。
「・・・どうされました?」
俺の僅かな表情の変化に気付いて、先生はまた問いかけた。
「いえ・・・その・・・俺と同い年の息子さんがいるとおっしゃっていたのを思い出して・・・。先生みたいなお父さんがいるの・・・羨ましいなぁと思ってしまって・・・」
「・・・そうですか。・・・・まぁ・・・家族だと少し恥ずかしいのか、こんな風に面と向かって自分の話をすることは、なかなか難しいみたいですけどね。」
「そうなんですか・・・そういうものなんですね・・・。」
少し気恥ずかしそうに笑みを落とす先生は、また近況を俺に尋ねながら、他愛ない話を聞いてくれた。




