第20話
一昨年の6月、夕陽は18歳になり、受験を控える高校3年生だった。
年子の妹である朝陽さんは当時16歳の高校2年生。
翌月の7月10日、通学中だった朝陽さんは交通事故で亡くなった。
「やりきれねぇよなぁ・・・。きっとあの時、俺も父さんも母さんも、同じ気持ちだったと思う。命捨ててまで・・・自分を犠牲にしてまで・・・知らない誰かを救ってほしいわけじゃなかったよ。」
外からわずかに虫の声が聞こえる夕陽の部屋で、二人してベッドに潜り込んで、ポツリポツリとこぼす彼の話を聞いていた。
「つーか・・・朝陽がさ、咄嗟に誰かを庇って・・・なんて、そんなこと出来る子だとは思ってなかった正直・・・。正義感が強いだとか、そういう感じじゃなかったし・・・。」
夕陽は思い馳せるように呟いて、また俺を力いっぱい抱きしめた。
「一周忌だった去年は・・・どんな風にお盆過ごしてたか、もうほとんど覚えてねぇなぁ。・・・暑くて暑くて・・・若干熱中症になってさ・・・ばあちゃんに心配されたのは覚えてるけど。んで・・・帰って来てさ、薫に会いたくて仕方なくてさ。電話したんだよなぁ・・・」
「・・・あ~・・・・そうだね、思い出した。焼肉奢るからご飯行こうって言ってくれた時だよね。」
「そうだよ~。ふふ・・・・・別にあの時は薫、俺のこと友達としてしか意識してなかっただろうけどさ・・・。んでも俺は救われてたよ。」
そう言い残して、夕陽はそっと重たい瞼を閉じて眠った。
同じ布団の中、寄り添って温まりながら、世界一安心できるその空間で、俺は必死に夕陽の気持ちを考えた。
俺は夕陽と比べて、希薄な家庭環境であったと思う。
病を患って完治して退院後は、忙しくする両親とそこまで思い出もなく育った。
良く言えば放任主義、悪く言えばそれはネグレクトだと言える。
食費を含めた生活費だけを送りつけて、海外で働くようになった父は、もう帰ってこないんだと確信したし、母には別にいい人がいることも、何となく察していた。
対して夕陽は
絵に描いたような理想的な家庭で育ったように思う。
付き合い始めてから時々、家族の話を聞いていたし、こぼれ出てくるエピソードは微笑ましいものばかりで、両親の親族共々、とてもいい人たちのようで、祖父母の話もよくしてくれた。
家庭環境で何か問題など起きることもなく、兄妹関係も良好で、朝陽さんは小さい頃からお兄ちゃん子だったようだ。
そんな彼に起きた悲劇
それは謂わば、美しい風景画に落とされた、どす黒い絵の具。
或いは、綺麗に整ってハマったパズルが乱れて、失われたピース。
壊して粉々になってしまったグラス。
二度と元の形には戻らない出来事が、彼の身に起きてしまった。
それはとても日常的と言えば日常的で、誰にでも起こりうる不幸。
平穏で幸せだった夕陽の日常は、18年で一旦幕を下ろした。
悲しみ、悼み、それらを毎日繰り返すことは、彼にとって地獄でしかなかっただろう。
愛してやまない、毎日を一緒に生きてきた妹が、交通事故で亡くなった。
それなのにまた当たり前のように日が昇り、翌日になる。
いつも通り通学中の可愛い小学生たちが、笑いながら登校し
味を感じないトーストは、焦げることなく変わらず香ばしく焼き上がり
彼の両親の職場では、いつも通り世話しなく人々が働き
電車は馬鹿みたいに満員で、クズは痴漢を働くし、学校に辿り着けばクラスメイトは何も知らず、明るく騒ぎながら制服を着崩している。
夕陽の目に映る全ては、妹がこの世からいなくなった現実なのに
いつも通り周りの人間は幸せそうに笑ったり、下らないことに悪態をつく。
大事な妹は二度と生き返らない。
それらの平穏で変わりない日常は、じわじわと夕陽の心を殺していったに違いない。
日常を平気に生きることが困難だった夕陽は、朝陽さんが亡くなってから約3か月
家から出ることなく過ごしていたらしい。
当時の彼は、8月のお盆が明けて、夏休みが終わりを迎えても登校する気力はなく、9月が終わり、秋に差し掛かった10月頃一つの転機が訪れる。
何となく呆然と電源がついたテレビを自室で眺めていた夕陽は、ある番組で国立の大学生がインタビューされ、受験しようと思った経緯を語っていた。
『好きな女の子がいたんですけど、頭悪い人無理って言われて・・・当時偏差値底辺だったんで・・・その悔しさをバネに猛勉強しました!』
高校3年生だった夕陽は、その言葉を聞いて、来年自分は、本来なら受験する年だと気づいた。
この世界では
誰が死のうと日常が続いていくし、大企業の社長が死んだとしてもそれは変わらない。
無かったことのように、嘘みたいに皆悲しんでいたことを忘れて、戻ってこざるを得ない。
ずっと足踏みして止まっていても、きっといつかは、苦しみ続けて生きることが嫌だと思う時が来る。
いや、もうそう思ってる。
朝陽はもういない。
自室の隣の部屋は、幼い頃からずっと妹の部屋だ。
可愛いネームプレートがドアに付けられていて、何も変わっていない部屋は、父さんも母さんも気持ちが落ち着くまで片付けることは出来ないだろう。
朝陽の部屋に足を踏み入れると、風も無いのにふわっとカーテンが揺れた。
妹がまだそこにいる気がした。
居てほしかった。
「朝陽・・・」
悲しみ疲れた自分のしゃがれた声だけが、無情に部屋に落ちて
この気持ちが繰り返すもので、もう終わらないことだと気づいた。
悔しさをバネに・・・?
そんなことで国立に受かるなら、俺にだって出来る。
それが夕陽のスタートラインだった。
どうせなら自分が興味ある学部をと、T大のことを調べているうちに、法律のことが気になっていた彼は、直感で法学部に入学することを決め
両親には、学費も安く済むし、これからどれだけ出来るか試してみたいと意気込んで、了承を得たのだとか。
ごくごく一般的な偏差値である地元の高校に通っていた彼にとって、ハッキリ言ってそれは無謀だと言える。
ましてや受験の数か月前からチャレンジしようというのは、よっぽど才能がなければ短期間での偏差値向上は見込めない。
それから夕陽は、寝食を忘れて勉強に没頭した。
そして案の定途中で無理が祟って倒れ、両親に心配をかけてしまったことを悔いて、正しく日常生活を送りながら受験勉強に励んだ。
11月頃からまた学校にも登校し始め、12月の期末テストでは、いきなり学年トップになったのだとか。
そして受験を迎える直前の模試では、軽々とA判定を叩きだした。
夕陽は間違いなく、学術の才能がある人だった。
それとも彼の精神状態が、それを無理やり開花させたのか定かでないけど、幼い頃からやっていた空手も、中学生で日本一の選手になるまで上り詰めているので
俺なんかよりよっぽど優れているのは明白だ。
文武両道で人当たりもよく、友達も多く、愛された家庭で生きてきたことがわかる人間性
出会ったばかりの頃は、彼からわかるそれらが全てだと思い込んでいた。
そして心の奥底で、夕陽のことを羨ましく思いながら、嬉しそうに友達付き合いをしてくれる彼と、仲良く日々を過ごしていた。
その裏で夕陽は、ひたすら地獄の苦しみを思い出しては隠し、それから逃げるように俺に恋心を向けて、狂いそうになる気持ちを抑え込みながら
あんな穏やかな笑みを見せてくれていたのかと思うと・・・
腕の中で依然としてスヤスヤ寝息を立てる夕陽を眺めて
起こさないように静かに涙をこぼした。
あの時より俺は、夕陽の苦しみに寄り添えているだろうか。
あの時より・・・その悲しみの一片くらい、抱えてあげられるだろうか。