第15話
薬剤の匂いなんて一切しない診察室で、俺は縋るように夕陽を見上げていた。
「・・・薫、即答できるほど俺も頭の回転早いわけじゃないや・・・。家に帰って、一緒に考えよ?」
落ち着いた笑みを返してくれる彼が、ふっと緩める表情が、俺にまた安心感を与えてくれた。
「・・・その方がいいかもしれませんね。」
先生は変わらず穏やかな表情を向けて、パソコンの前のいつもの椅子から腰を上げて、俺の側に立った。
そして小さな子に安心させるように、目線を合わせて俺の手をそっと取った。
「薫さん、大丈夫ですよ。以前より少しずつ治療は進んでるんです。目に見える数値として結果は出ませんが、人込みに出かけて問題なく過ごせたり、学生生活を送れること自体が、前までは困難だったはずです。ですが、何でも出来るようになったばかりの時が、一番油断大敵でもあります。やっと自転車に乗れるようになった子を、一人で大通りを走らせたりはしないでしょう?私も朝野さんも、薫さんが怪我をしないよう安全に走れるようになるまで、補助をするのが役目です。以前とは違う薬も処方しておきますが、ふらついて怪我をしないためのものだと思ってください。」
「・・・はい・・・。」
いつの間にか落ち着きを取り戻して、また心は空虚だった。
夕陽は改めて先生に向き直って頭を下げた。
「先生、ホントにいつも気にかけてくださって、ありがとうございます。」
「いいえ・・・。ふふ、実は・・・私事ですが、お二方と同い年の息子がいるんです。少し控え目なところが薫さんに似ていて・・・。特別気にかけてしまってるのかもしれません。私情を挟まないように気を付けますね。」
珍しく自分の話をして微笑んでくれる先生に、俺たちは呆気にとられた。
夕陽 「そう・・・だったんですか・・・。・・・・え・・・?ん?」
夕陽も恐らく俺と同じことを思って不思議な顔をしてるんだろう。
先生はどう見ても、到底大学生の息子がいる年齢には見えない・・・。
「どうされました?」
「え、いえ・・・日下先生・・・30代半ばくらいかなぁって思ってて・・・な?」
夕陽が苦笑いを返して言うので、俺も頷き返した。
「ああ、なるほど。ふふ・・・もう40代半ばですよ。」
意外な事実にまた豆鉄砲を食らった後、俺と夕陽は病院を後にした。
通り過ぎる見慣れた景色を、夕陽に握られた手を頼りに歩いていた。
半歩先を行く彼の大きな手を見つめて、何だか自分に対する情けなさが募る。
俺はこの手を離されたら・・・
夕方になって人通りが多くなってきた駅の入り口を抜けて、改札前で夕陽は俺を振り返った。
「薫、気分はどうだ?・・・しんどいようならちょっと休憩していく?」
その時ふと、通り過ぎていく人並みの中、頭の中に記憶が蘇った。
「ここ・・・・来たことある・・・」
チラホラ待ち合わせをする人が見受けられる改札前で、辺りを見渡した。
夕陽 「え・・・そりゃ病院来るときはいつも来てるし・・・」
「・・・・ああ・・・うん、何でもない・・・。」
ハッキリと思い出したけど、それを夕陽に言うのはあまりにも無粋過ぎたので、そのまま歩き出そうとした時、踏み出した体が軋むような感覚に陥って、思わず足元を見た。
体がふらつくような感覚になって、夕陽がさっと俺の肩を抱いて支えた。
「薫!?だいじょぶか?」
「・・・リサと夏祭りデートに行った時、ここで待ち合わせたんだよ。」
「・・・・・へ?・・・・ああ・・・・そうだったんか。」
「・・・リサあの時浴衣着てきてくれたんだ。・・・綺麗だったなぁ。」
「・・・・・薫?どうしたんだ?急に・・・」
「何で今まで気が付かなかったんだろう・・・。特別なデートになったんだよ?夕陽もその日は連絡入れてくれてたんだっけ・・・?ちゃんとうちまで送ってあげなきゃって思ったんだけどね、大丈夫って言われたから・・・やっぱり送ってあげた方が良かったかな?女の子を夜一人で歩かせるなんてダメだよね。」
「・・・まぁそうかもな。」
「・・・帰りの電車・・・次後10分くらいで来るね。」
「そうだな。・・・な、薫・・・何でその時のデートは特別だったん?」
「ん~・・・夕陽も女の子とデートしたことあるよね?」
「あ?まぁ・・・そうだな。」
「お祭りデートでさ、しかも浴衣着てくれて、ちょっとそれだけで特別感はあるんだけど・・・ロマンチックなことに、花火を見ながらさ・・・・」
やめてよ・・・
「・・・・キスでもした?」
その時頭の中で、ガラスがひび割れるような、ピシ・・・という音が聞こえた気がした。
「夕陽・・・・・」
騒々しいホームで、辺りに響き渡る音声アナウンスが流れ、通過するだけの特急電車が、けたたましく目の前を通り過ぎる。
「何で・・・・・」
自分より遥かに背の高い夕陽に視線を上げると、彼は特に変わらないいつも様子で俺を見つめていた。
「・・・・・・・違うよ・・・・いや・・・そうじゃなくて!」
混乱する頭をぶんぶん振った。
すると夕陽は人目も憚らず、そっと俺を抱きしめる。
「薫・・・」
優しい声が降りかかって、自分の中にいる自分が、彼に何をしようとしていたのかハッキリとわかった。
「ドアを開けても開けても・・・ゴールのない部屋を彷徨ってるみたいだ・・・。夕陽・・・助けて・・・。」
「うん。大丈夫だよ。」
時間通りに到着した電車に乗り込んで、その後涙の痕を隠すように俯いていると、少し周りからの視線が刺さった。
夕陽が隣に腰かける俺にだけ聞こえるように、優しく小声で語りかけながら、俺の気を逸らせてくれたり、夕飯や夜の予定を楽しそうに話してくれた。
心の中で彷徨っていて、夕陽を嫌な気持ちをさせておいて、俺はさっきまでのことは忘れたように応えながら、何事も無く家に辿り着いた。
そして冷たくて静かな空気の中、マンションのエレベーターを待ちながら言った。
「あのね・・・・俺・・・・駅前を通り過ぎる時の、パン屋さんの香りが好きなんだ・・・」
「ふふ、そっか。めっちゃいい匂いするもんな。・・・っていうか、薫があそこのパン屋好きなのはずっと前から知ってる。」
無機質な音がして、目の前に開くそこに乗り込む。
「夕陽と・・・エレベーターに乗るとね・・・・・あの時のこと思い出すよ。」
「そうなん?・・・え~?ふふ・・・あの時キスしていいか聞いたらダメって言ったじゃん。」
「・・・・そうだね」
視線を返すと、夕陽は少し意地悪な笑みを浮かべてそっとキスをした。
辿り着いた部屋の鍵を開けて、またバタンと閉まって、夕陽は静かに鍵をかけて靴を脱いだ。
「ホントは・・・・あの時怖かった?」
その大きな背中に問いかけると、玄関に佇む俺を夕陽はゆっくり振り返った。
「ああ・・・今までで一番怖かったかも。いや・・・・二番目かな・・・・。生きた心地がしなかった。正直不安過ぎて吐きそうだった。」
「知ってる・・・・・。一番は・・・・もしかして病院・・・・?」
「・・・・うん・・・。」
「あの時心配かけてごめんね?」
「ホントだよ・・・」
「俺はいなくなったりしないよ。」
依然として靴を脱がないままそう告げると、夕陽はぐっと歯を食いしばって、次第に涙を浮かべた。
「・・・・・・・・嘘つけ・・・・・・」
鼻水をすすりながら、彼は崩れ落ちるように膝をついた。
「俺を突き放そうとしたろ・・・・・。どこにも行くなよ・・・!永遠に・・・手錠でもかけて、ベッドに繋いでてやろうかと思ったこともあんだぞ!?」
「・・・・・・・ずるいこと言ってごめん・・・・」
「・・・・・・他には?・・・・他に言うことは?」
「・・・・どこにも行きたくない・・・・」
ボロボロ涙を流して、真っ赤な目をした夕陽は、表情を歪ませて俺を睨んだ。
「薫・・・・・自分を疑うか信じるかって聞いたよな?」
「うん」
「・・・・・・・・不安定な自分でいるなら、俺だけを信じてろよ・・・・。俺は揺らがないよ。俺は薫を捨てたりしない!一人きりで残して家を出たりしない!働きに出ても必ず帰ってくるよ・・・。薫がバイトに行くなら俺はずっと帰りを待ってる・・・。薫を・・・・・世界一大事にしてるのは俺だ。他の誰でもない!」
やっと動いた足が震えているのを感じながら、靴を脱いで夕陽の前に座った。
床に手をついて俯く彼は、握りしめた拳を震わせながら言った。
「・・・・・・薫・・・・佐伯先輩を・・・こないだ構内で見かけたろ?」
「うん」
「・・・・何人かの友達の輪の中で、笑ってたろ・・・何でもなく・・・日常的な風景みたいに。」
涙を拭って夕陽をそっと抱きしめる。
「俺は・・・・・あんな風に笑えない・・・・・薫から拒絶されてフラれたら・・・・俺は平気でなんていられない・・・・。俺は違うよ・・・・・薫も違うだろ?」
それを皮切りに夕陽は何も言わなくなった。
抱きしめ返してキスをして、パッと切り替えるようにいつもの笑みを見せた。
それでまた強く抱きしめて、人格が入れ替わって無邪気に他愛ない話をする俺に、何でもなく相槌を打った。
『俺は違う』
夕陽が言った言葉が、頭の中にこびりついた。
「ごめんなさい」をもう彼に言いたくなかった。
「夕陽・・・・」
「ん~?」
二人してキッチンに立って、いつも通り夕飯の準備をする彼の隣で、涙が出そうになるのを堪えながら言った。
「ありがとう・・・・」
「ふ・・・なにが?」
「泣かせてごめ・・・・じゃない・・・あの・・・・」
「薫・・・泣いたのは俺が感情的になったからで、薫の言動は関係ないんだよ。」
「でも俺・・・・」
「・・・・佐伯先輩とデートした時の内容を話されてもさ、別に今となっちゃ・・・俺の方が薫と親密な関係にあるわけだから、ふぅん・・・ま、俺は薫と心も体も繋がってる仲だけどな~って思ってるよ。・・・・・・問題なのはさ・・・俺の中身なわけ・・・」
「中身・・・?」
もうすっかり春が通り過ぎて、室内は少し西日で暖かすぎるくらいになっていた。
「夏が近づくとさぁ・・・・・どうしようもなく俺も不安定になってきちゃうなぁ・・・。薫の別人格の挑発に乗っちゃうほど・・・・。ふふ・・・俺・・・お盆嫌いなの。」
おどけて言う彼は、また心地のいい音をまな板に落とす。
「薫と早く結婚してぇ・・・。」
「・・・俺はもうほとんどしてるつもりでいたよ?」
「そうだったぁ♡愛してるよ♡」
お揃いの指輪をつけた手元をそのままに、そっと俺の頭にキスを落とす夕陽が、それから月日を重ねるごとに、どんどん憔悴していった。