第14話
翌日、夕陽は帰り道での一件に何も触れず、俺が話した両親のことも、特に蒸し返すことはなかった。
いつも通り日下先生のところに診察を受けに行く日で、二人して手を繋いで病院へと向かった。
何でもない様子で夕陽は俺と電車に乗って、時々他愛ない話をした。
そんな彼の様子を窺いながら、本来の自分ならタイミングを見て、『昨日はごめんね』なんて言っていたと思う。
けどもう今は、そんな言葉は自己満足で、夕陽に否定の言葉を吐かせるだけの、下らないやり取りだと分かっていた。
夕陽と一緒に居ることで、俺はいつもどこか生き急いでいる。
彼は「いつも自信がない」と吐露してくれたのは、俺のことに四六時中悩みながら生きていてくれるからだ。
それなのに俺は、自分の精神面での不調を起こさないようにとか、夕陽に心配かけないようにとか、大学を卒業して、予備試験もまた受かるようにとか、必死に心配事を解決しようとしていた。
それが前に進むことだと思っていたから。
「柊さん、少し・・・朝野さんとお話しする時間を頂いても、よろしいですか?」
一対一で診察をしてくれていた日下先生が、落ち着いた口調でそう問いかけた。
「・・・はい」
先生は俺のことはもちろんとして、一緒に暮らしている夕陽のことも気にかけてくれている。
夕陽に対しては診察しているわけじゃなく、相談事を受けているのだろうけど、夕陽はいつも話した内容をかいつまんで教えてくれるくらいなので、実際どういうやり取りをしているのかは知れない。
待合室で腰かけていた夕陽に声をかけて、夕陽が立ち上がった場所に座った。
彼の温もりでお尻がちょっと温かい。
診察室のドアに手をかける彼に、何となく視線を向けると、夕陽は俺に気付いてまた優しく微笑んで手を振った。
先生はよく俺に、不安にさせるような状況からは距離を置きましょう、とアドバイスしてくれる。
色んな人格が自分の中で駆け回っている時、あまり前に出てはこないような人格が、突然一緒に居る夕陽に否定的な言葉をぶつけたりもする。
気を遣っている無意識的なストレスが原因なんだろうかと先生に尋ねたけど、そういうわけではないと思うと言われた。
時々・・・そんな自分が嫌で、夕陽が気にしていないとしても、家を飛び出したくなるときがあった。
大事な大事な夕陽が、穏やかな表情でキッチンに立っていても、洗濯物を取り込んでいても、いつかこんな愛おしい時間が終わるんだと考えて、壊される前に自分で手放してしまいたくなる。
夕陽がいないとダメなくせに、自分を狂わせた悪夢を思い出す。
考えても仕方がないことばかりが、ぐるぐると渦を巻いて自分を巻き込んでいく。
先生はきっと、そういうものから距離を取って客観的になれって言ってるんだ。
解離性同一性障害は・・・完治するものじゃない。
夕陽は、我慢して抱えていた俺より、今のままでいいんだと言ってくれた。
でも正直俺は
症状を引き起こす前の自分に戻りたい。
こんな風に思っている時点で、人格の統合なんて・・・無理に決まってる・・・
マイナス思考から逃げるようにパッと頭は切り替わった。
立ち上がってツカツカと診察室まで歩いて、さっきまでいたそこの扉を、当たり前のように開け放つ。
目の前にいる日下先生と夕陽は、驚いた表情で同時にこちらを見た。
「薫?」
「先生、夕陽と何話してたの?」
日下先生はじっと俺の瞳の奥を探るように見つめ返してから、ニコリと口元を持ち上げる。
「普段の生活の中で、柊さんに対して心得ていた方がいい事柄を、いくつか朝野さんに提示していました。」
「・・・ふぅん・・・例えば?」
詰問する俺を止めるように口を開こうとした夕陽を、先生は手を少し上げて制止した。
「例えば、家の中にある刃物について、出来れば一か所に全て保管して、寝る前に朝野さんが施錠して管理していただきたい、という話です。」
「それはどうして?」
「朝野さんがお休みになっている間、万が一柊さんが目を覚まして、自傷行為などをしたりしないためです。」
「・・・・・」
チラっと夕陽を窺うと、それでもいいかと俺に問うように黙っていた。
「そんなことしても・・・人間知恵が働いたらどんなものでも自傷したり、自殺したりすることは可能かと思うけど。」
「そうですね。問題は朝野さんの目の届かない所で行われてしまうことです。それを避ける対策もお話していました。」
「・・・それはどういう・・・?」
「あくまで私の提案の段階でしかありませんが、例えば玄関先に小さな監視カメラを設置しておきます。夜中万が一柊さんが不審に外出しようとしてしまえば、映像として感知して、朝野さんのスマホに通知音が鳴るように設定します。そしてもう一つ、玄関でも同様ですが大量の鍵を取り付けることは手間ですし困難なので、ベランダにも開閉を感知する装置を設置しておきます。寝る前に電源を入れておけば、寝ている間に扉が開いた際、知らせを飛ばすことが出来ます。」
「・・・先生はつまり・・・俺が危険行為をする前提で対策しないといけない程、精神状態がよくないと判断したってこと?」
「念には念を、ということですね。」
「・・・島咲さんに俺の話をしたのは・・・俺がバイトしている間も、俺を管理して監視するため?」
「薫・・・監視なんて言い方・・・」
「いいえ、島咲さんに柊さんのことを」
「その名前で呼ばないでよ!!!」
怒りで体が動いた俺を、夕陽は立ちはだかるように受け止めた。
「俺は!夕陽と結婚するの!もう婚約してるの!!柊なんて名前は俺にはもうないの!朝野だよ!先生は・・・わかってくれてると思ってたのに・・・」
「申し訳ありません。では・・・薫さんとお呼びしますね、お二人とも朝野さんになってしまいますし。・・・薫さん、あくまで対策です。貴方が、危険行為を働くと思ってのことではないです。ですが担当医である以上、危険な目には遭ってほしくありません。」
その時また唐突に、自分の意志が戻って来た感覚になる。
「・・・・・先生・・・・・・・俺・・・・・元に戻りたい・・・」
音もなくまた涙がボロボロ零れる。
夕陽はそっと俺を抱きしめて、安心させるように頭を撫でた。
「・・・・薫さん」
抱きしめられた夕陽の腕の隙間から先生を見ると、いつもの真剣な視線が返ってくる。
「今までたくさん、我慢して生きて来られたと思います。小さな子供のように行動を制御出来ない貴方も、朝野さんの伴侶になることを心底望んでいる貴方も、現実を受け入れながら、自分を守るために現状から逃亡しようとする貴方も、全て本物なんです。皆色んな面を、意志を持ちながら、それをひた隠しにしたり、いつの間にか忘れたりしながら生きています。一番強い思いや願いが先頭に立って、人間を突き動かして生かしています。薫さんは、その色んな思いが人格となって入れ代わり立ち代わり、先頭に立っているだけなんです。自分の気持ち関係なく、堪えて耐え忍んで、前に進もうとする懸命な薫さんが元の姿で、そういう自分に戻りたいということでしたら、困難かもしれませんが、不可能というわけではありません。」
「・・・・・・俺は・・・・夕陽を失いたくない・・・」
「はい、もちろん理解しています。」
「俺のそういう自分勝手な治療に・・・・夕陽を巻き込んだら苦しめるかもしれない・・・・」
「苦しまないよ。」
先生の返答を待たずに、側にいた夕陽は答えた。
「薫・・・お風呂で話したこと忘れちゃった?」
夕陽は優しく目を細めて、愛おしそうに俺の頬を撫でる。
「薫もわかってるんだろ?俺たちはもう一蓮托生だよ。先生が話してくれたことは、薫が怪我をしたり、俺が怪我をしたりしないための対策で、薫が異常だからするわけじゃない。現に今まで俺たちは怪我なんてしてこなかった。けど薫の心が重くなっていくなら、そういう対策も考えてみた方がいいかもしれないなって話だよ。」
「俺は・・・・自分を疑わなきゃダメ?自分を信じなきゃダメ?」
少し戸惑う表情を見せて躊躇う夕陽に、俺は重ねて言った。
「お願い・・・俺の意志を尊重するとか言わないで・・・・俺が夕陽の心臓なら、俺を制限しておいてよ。巻き込んでいいなら・・・俺が間違わないように夕陽が決めてよ。」
自分がとんだ無理難題を押し付けていることくらい、理解していた。
それでも先生は口を挟むことはないし、夕陽は真剣に悩んでいた。