第1話
春休みが残りわずかになってきていた3月中旬頃、いつものように美咲さん宅で家事や掃除をしていた。
その日は15時頃に仕事を済ませた美咲さんが早めに帰宅された。
「ただいま。」
「あ、美咲さんおかえりなさ
「お邪魔しま~・・・おう、薫おつかれ。」
よく似た顔が二人分玄関のドアから現れて、思わず呆気に取られた。
「咲夜・・・おつかれ。」
「ふふ、俺は疲れてません。休日なんで。」
意地悪そうな笑みを向けてくる咲夜と違って、美咲さんは上着を脱ぎながら言った。
「更夜さんのところで仕事をしていたら、こいつが小夜香ちゃんの忘れ物を届けに来たんでな・・・夕飯に誘ったんだ。」
「そうだったんですか。」
キッチンに立っていた晶さんがだいぶ大きくなったお腹に手を当てて、美咲さんの上着を受け取りに来る。
「ゆっくりしてってね、咲夜くん。」
「ん、ありがとう。随分お腹大きくなったねぇ・・・。」
「ふふ、でしょ?おやつあるから手洗いしてきてね。」
晶さんは咲夜を弟扱いというより・・・子ども扱いにしてる気がするな。
洗面所に向かう咲夜の背中を見ながら、お風呂掃除をしている最中の夕陽と出くわすなぁと思い、間に入った方がいいのか少し気になった。
でも・・・一方で二人が出くわした時、果たして何か会話を交わすのか・・・会話するとしてどんな話をするのかすごく気になった。
少し思案して、一通り掃除も終わったし、バタンと閉まった洗面所の扉の前に、さり気なく聞き耳を立てに行った。
咲夜が蛇口から水を出して手を洗っている音が聞こえる。そしていくつか物音がして、扉が開く音がした。
「あれ、先輩・・・こんにちは。」
「ああ、朝野くんお疲れ様。・・・ちょっと小夜香ちゃんちで美咲に会ってさ、夕飯誘われたんだ。」
「そうなんすね。」
「・・・・どう?使用人の仕事、無理なくやれてる?」
「はい、俺は全然・・・元々力仕事も家事も得意なんで。・・・聞くなら薫に聞いてあげてください。」
「・・・ふ・・・何で?朝野くん俺が薫に話しかけたら嫌でしょ。」
な・・・・!
露骨に夕陽を煽る言い方するじゃん!
「・・・嫌って程じゃないですよ。薫に色目使ってる奴が話しかけてたらすっげー嫌ですけど。先輩は薫にとって大事な友達ですし、薫は先輩と話すの好きですよ。・・・それとも、色目使ったりするんすか?」
「はは!まさか。俺小夜香ちゃん一筋だから♪」
「・・・まぁそっすよね。先輩に関しては心配してないです。」
「・・・・じゃあ、他に色々と薫を狙ってる奴いんの?」
意外と会話長いな・・・
晶さんと美咲さんは二階の自室で話してるようで、リビングには誰もいないけど、聞き耳立ててる俺はだいぶおかしい奴だろう。
「まぁ・・・今は大丈夫ですけど・・・大学行くようになったらそれなりに心配ではありますね。」
夕陽のその言葉に、ちょっと不貞腐れているような様子が窺える。
するとその時、扉のすぐ側で咲夜の声が聞こえた。
「だってさ、薫。あんま彼氏に焼きもちやかせんなよ?」
ビックリして思わずドアから離れると、ぶつけまいと気遣ってくれたのか、咲夜はゆっくり扉を開けた。
「立ち聞きなんていい度胸じゃん。俺にバレないとでも思った?」
悪そうな笑みを向ける咲夜の後ろで、ポカンと俺を見る夕陽も目に入った。
「・・えっと・・・ごめんなさい。・・・二人だけの時にどんな会話するのかなぁって好奇心で。」
咲夜はふんと呆れたように鼻を鳴らしてキッチンへ入って行った。
すると夕陽はいつもの優しい笑みで、俺をぎゅっと隠すように抱きしめた。
「何を期待してたんだよ~」
「いや別に何かを期待してたわけじゃなくて・・・二人が話すことなんてないじゃん。」
「ま、そだな・・・」
すると晶さんが二階からゆっくり階段を降りてくるのが見えたので、思わず心配で駆け寄ろうとすると、先に気付いた咲夜がささっと彼女の側に行った。
「ありがとう、咲夜くん」
「なるべく一人で降りないでって言われなかった~?」
「家の中の階段にそこまで過保護にならなくていいのよ?滑り止めも貼ってあるし、こうやってゆっくり気を付けて降りてるでしょ?」
「妊娠前から手すり持って降りててもこけたことあったよね?それも俺が見た限り一度や二度じゃなかったはずだよ?」
そうなんだ・・・
それを聞いてぞっとして夕陽を見ると、これから絶対目を離してはいけない・・・とアイコンタクトで誓い合った。
「もう・・・それはそうだけど・・・」
口を尖らせて言い訳を探す晶さんが何だか可愛らしい。
咲夜の手を取って無事リビングまで降りると、同じく美咲さんが後から降りてきて言った。
「すまん、柊くん朝野くん、言い忘れてたことがあるんだ。」
「はい」
今日の報告書を記入しようとスマホを取っていると、美咲さんはチラリと晶さんを見てから切り出した。
「実は・・・もうすぐ晶は臨月に入るし、しばらく休暇をもらうことにしたんだ。通常なら育休は出産前に取れるものではないかもしれんが、今のところ俺の雇い主は更夜さんなので、早めに休めと言われて・・・少なくとも2年は育休を取れと言われてしまってな。」
「そうなんですね。」
「へぇ・・・じゃあ結構長めの育休なんすね。」
「ああ・・・出来れば俺は・・・任せきりにしている業務も多いし、更夜さんの手を煩わせたくはないんだが・・・。」
何やら珍しく、美咲さんは困った様子を見せつつソファに座った。
すると晶さんと一緒にキッチンに立っていた咲夜が声をかけた。
「どうせあれでしょ?美咲的には、山積みの仕事を押し付けるのが心底申し訳なくて仕方ないけど、更夜さんからしたら嫁さんと子供を第一に考えろってスタンスで、頑なに休むように言われたんでしょ。」
「まぁそれはそうなんだが・・・。それに・・・」
近くに腰かけた俺と夕陽に、美咲さんは一瞥をくれた。
「俺が休みで家に居られるなら出来ることはやれるし、二人の仕事を奪うことにもなる。」
「あ・・・」
そこにまで思い至らなくて思わず俺も夕陽も、顔を見合わせて黙った。
同じように考え込む美咲さんを見て、夕陽は気を遣わせまいと口を開いた。
「あの・・・ご心配ありがとうございます。まぁ俺らも・・・来月からは進級して復学する予定ですし、あまり都合よく働けなくなるなぁとは思ってて・・・。親から多少仕送りはもらってますし、明日から生きていけなくなるっていう程じゃないので、それは自分たちで考えて何とかします。皆さんにこれ以上お世話になるのもあれですし・・・・な、薫」
「うん。美咲さんありがとうございます、お気遣いいただいて。バイトのことはどういう形態なら働いていけるか程度を考えて、自分の体調も鑑みて選んでいこうと思ってます。短期間のバイトだけ行ってみるとか・・・それなら一緒に応募しても雇ってもらえるだろうし。」
「・・・・そうか。もし俺が予定より早く仕事に戻ることがあったら、またお願いすることもあるかもしれない。その時は頼んでもいいだろうか。」
俺たちは二人して頷いた。
今後は残り4回程の手伝いを頼むと言われ、美咲さんはそれでも他に手伝ってもらえそうな仕事があれば斡旋すると言ってくれたけど、そればかりはお断りすることにした。
きっと美咲さんは急な都合でバイトを失くした俺たちに、通常より高い給金を支払おうとするだろうし、何より何の経験もない俺たちを家事手伝いと雇ってくれたので、そこまで甘えるわけにはいかないと、俺も夕陽も思っていた。
その日は晶さんがどうしてもと言うので、夕飯をご馳走になって帰路についた。
帰り道、夕陽の手を取って歩きながら、俺は頭の中であれこれ考えていた。
多少の接客業ならもう出来るだろうか・・・
以前勤めてた書店はそこまで接客業務ばかりじゃないし・・・いや、それでしんどくなってしまった時周りに迷惑かけかねない。
だったら簡単な軽作業系の仕事とか?時間と正確さが問われる緻密な作業出来るかな・・・
俺も夕陽も向いてそうなバイトだったら・・・例えば家庭教師とか・・・でもそれじゃあ夕陽と一緒には居られない。俺の集中力が切れてしんどくなってしまった時どうしようもない。
そもそも最近そこまで無理なく働けていたのは、懇意にしてくれていた晶さんたちのおかげだ。
復学するとなればまた学業とバイトの両立ってことになる。
その上予備試験の勉強も再開するってなったら・・・あれ・・・俺結構前は無理して過ごしてたのかな・・・。
「薫・・・」
「は!なに?」
夕陽は少し心配そうな顔をした後、またいつものように微笑んで見せた。
「薫、最近は半月に一回先生んとこ通院してるじゃんか。その治療費ってこれからも問題なく払っていけそう?」
「・・・うん、前に怪我したときに振り込まれた父さんからの仕送りが、まだだいぶあるから・・・大丈夫。」
「そっか・・・。とりあえずさ、4月から復学するし・・・薫は一旦バイトのことは置いといて、大学に通うってこと出来たらそれでいいと思うんだ。」
「うん・・・でも・・・」
「無理しても本末転倒だし、薫はしばらく働くことを考えなくていいよ。さっきも言ったけど仕送りもあるし、俺だけ空いた時間にバイト入ればそこまで問題ないと思うんだ。ただまぁ当たり前だけど・・・大学でとる講義が全部かぶるってことはないと思うし、どうしても薫が俺と離れて、一人になる時間は今より多くなると思う。もし・・・もしそれでも薫が問題なく過ごしていけそうだったらさ、俺が多少家を出てバイト行ってても、大丈夫そうかなって思うんだけど・・・どう?」
変化していく環境の中で、夕陽は出来るだけ俺のことを考えて、無理のない提案を考えてくれている。
「・・・うん、最近は調子いいし、諸々かかる生活費計算し直していけそうなら、それでいいと思う。夕陽だけ働かせてしまうのは申し訳ないけど・・・確かに無理して両立出来る自信が、今はもうないから・・・」
弁護士資格の取得は、何も急ぐことではないかもしれない。
でも出来れば在学中に取得出来るように、予備試験はすべてクリアしておきたい。
俺が大きく掲げている目標は今のところそれで、夕陽もそれを応援してくれている。
「ま、ちょっとまバイトは無くなるけど、次の探しつつ短期のバイトあったら行ってみたりしながら、新学期までゆっくり過ごそ。」
「うん、そうだね。」
混乱を繰り返して、自分の中身に振り回されていた冬を超えて、もう東京は春らしく温かくなり始めた。
夕陽は俺が何か月か前に選んであげたマフラーを、大事に手洗いした後、乾かして大事にクローゼットにしまっていた。
マフラーに口元を埋めて歩く横顔が、好きでよく眺めていたけど、春らしいトレンチコートやテーラードジャケットを着ている夕陽も、ものすごく似合っていてカッコイイ。
握った手をぎゅっと力を込めて、チラチラと視線を送っていると、彼はまた俺を見つめてニッコリ笑ってくれる。
俺はというと、誕生日に夕陽からもらったシャツを着てコーディガンを重ね着していた。
うちに着いて上着を脱いで、お風呂の準備でもするかと袖をまくっていると、夕陽が後ろから抱き着いた。
「なあに?」
首元にキスを落とす夕陽の癖っ毛からいい香りがしてスンと嗅ぐと、そのまま甘えるように唇が深く重なる。
夕陽は絡まった腕を解きながら、俺の腰を撫でるように大きな掌を伝わせた。
「俺があげたシャツ・・・やっぱ見込み通り似合ってるなぁと思って・・・。流石俺。」
「ふふ・・・ありがと。それより・・・夕陽、お風呂一緒に入ろ♡」
「え!・・・入る。」
また甘えてキスを繰り返す彼をなだめながら、お風呂掃除に向かった。
夕陽と付き合ってまだまだ半年も経過していない。
けど本当にたくさん、色んなことが巻き起こった日常を歩いてきた。
一言で説明できないくらい、複雑な気持ちの繰り返しだった。
でもきっと俺を支えてくれていた夕陽だって、同じように大変だっただろうと思う。
数か月の出来事をまるで何十年かの思い出のように振り返りながら、二人で久々にお風呂に入り、背中を流してくれている彼に声をかけた。
「ね・・・夕陽」
「ん?」
「今でもね・・・入れ替わる程じゃないけど・・・気持ちがフワフワすることがあるんだ。見え方が変わりそうな感覚というか・・・」
「うん」
「でも・・・抑え込みそうになってる感情をさ、やっぱりちゃんと伝えようって言葉にしたら、切り替わるのが止まったりもするんだ。」
「そうなんだ。」
「夕陽のことを不安にさせたくないから・・・出来るだけ正直に伝えようとは思ってるけど・・・。でも大学に通い直すようになったら、関わる人は周りに沢山いるわけだし・・・何もかもを正直にってわけにはいかなくなると思う。・・・不安になりすぎるのもよくないけど、自分の気持ちをちゃんとコントロール出来るかも怪しくて・・・その・・・」
「うん」
丁寧に洗ってくれた背中を、夕陽は静かにシャワーで流す。
「これからも俺のしんどいことに・・・巻き込んじゃうと思うし・・・介抱してもらうようなことが多々あるかもしれない・・・。」
「うん」
体を洗い終えて、夕陽が立ち上がって俺の手を引いた。
視界に映る彼の足やおしり、斜め後ろから見る腰や筋肉の筋が、お風呂という明るい場所で目の前にあるのが、何だか気恥ずかしいけど、促されるがまま湯船に浸かった。
「・・・だからさ・・・」
「うん」
向かい合って座るように座って、夕陽はいつものように穏やかな笑みを浮かべながら、俺を迎えるように腕を開いた。
そっと透明の湯の中を歩いて抱き着く。
「・・・あったか・・・・」
「薫・・・ありがとな。」
「え・・・?」
「言えてないことがたくさんあって、その一つだけどさ・・・。俺を選んでくれてありがとな。」
浴室内で響く彼の声が、耳元でくすぐるように落ちる。
「薫の人生の半分は俺が貰うんだよ。だからどれだけ何が大変でも、一緒に居たいよ。お互いがお互いのことと、自分のことを考えて生きていけるんだよ。薫を愛してるから、それが出来る相手として選んでもらえて嬉しい。毎日側に居られることが・・・。毎日目ぇ覚めたら薫がそこにいて、毎晩おやすみって一緒に眠れて・・・好きな人とそうしていられるのって、死ぬ程幸せだろ?」
「うん・・・」
「薫・・・もっと俺を薫の人生に巻き込んで・・・。」
「・・・うん・・・。」
「薫が俺の名前を呼んでくれるだけで、いちいち嬉しくなる俺のこと知ってる~?」
「ふふ・・・知ってるよ♡夕陽♡」
彼が幸せそうに微笑む度にキスを繰り返した。
俺はいつまでも臆病者で、これからも何度も夕陽を失くしてしまうんじゃないか不安になるんだ。
けどもう、自分の命よりも大事だと思えてしまったから、彼がずっと一緒にいたいと思ってくれる自分になる努力をしたい。
そのためなら何も惜しまずやれると思った。
お風呂から上がって、お互いの髪の毛を大事に乾かして、そのままベッドに入ってまったりデートの予定を話し合った。
夕陽に最初告白されたあの日から、一緒に映画館に行ってなかったので、久しぶりに映画を観に行く予定を立てた。
それからまたお互いをぎゅっと抱きしめ合って、お風呂に入ってるような暖かさで眠くなって、瞼が落ちそうな俺に夕陽は何度もキスをして、結局そのキスで目が冴えてきて、また何度も体を重ねた。