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ナナシノカケラ / 迷い人編

作者: たまぞん


 視界の揺れるような熱気を帯びた8月中頃の昼下り、1台の自転車が流れるように田んぼの縁を走り抜ける。


 中性的な顔立ちをしたその青年は、その華奢な体格に似合わぬ大きな鞄を背に携え、これまた枝のように細い脚を目一杯の力で動かす。


 自転車のペダルはゆっくりと、しかし確実にチェーンを引っ張り、車輪は日に照らされ白く煌めいている。


「やっぱり、自転車じゃなくてバイクが欲しいな」


 そう愚痴をこぼし、青年は額に溜まった汗を片腕で拭い取る。


 名前は「ナナシノ」。もちろん、今自転車をこいでいる彼の名だ。


 自転車一つで国々を股にかける旅の人───それがナナシノの肩書きであり、職業と言っていいものなのか定かではないにせよ、一応彼なりの生業としてそう自称しているのである。


 が、しかし季節は夏の盛り。それも帰省シーズン真っ只中の盆ときたものだ。かの旅人も世の習わしに従い、わざわざ数千里離れた大陸から、やたら重量のある自転車と旅の大荷物を引っさげて辺境の田舎まで出てきたというわけだ。


 伸びた髪をゴム紐でしばり上げ、かつて冷水だったものを美味そうにあおるナナシノは、やがて正面に向き直りどこまでも続く蒼と緑の世界をぼんやりと眺める。


 目的地まではあと数十km先と聞く。ナナシノは億劫そうに鞄を背負い直すと、もう一踏ん張りだと己を鼓舞し脚部に込める力を一層強くした。



 のどかな田園風景は一変し、ナナシノは薄明るい林道を快走している。


「そろそろ休憩にするかな」


 自転車をこぎ続けること3時間。ナナシノはパンパンになった…といってもやはりまだまだか細い脚だ。


 そいつを休ませるべくブレーキに手をかけたところ───視界の端に、何やら奇妙な人影を映す。


 小学校高学年くらいの年の子だろうか。白いワンピースと麦わら帽子のよく似合う女の子だ。しかしそれだけでは彼女のことを「奇妙」だと呼称する十分な理由には成りえない。


 その女の子は一人で佇んでいたのだ。民家はおろか、人ひとり通るかすら怪しいような山間部で、たった一人。


 ナナシノは彼女に声をかけた。


「お嬢ちゃん、一人? 親御さんはどうしたのかな」


 優しく微笑みかるナナシノに対して、少女は一言。


「あんた、もしかして幽霊?」


 年端も行かぬ少女といえど、流石に失礼だ。確かに同年代の男と比べても身体つきは良くないし、自分でも少々骨ばっているとは思わなくもないが…。


 ナナシノはめげずに聞き返す。


「なんで、僕が幽霊だと思ったのかな」


 少女は答える。


「だって、こんな薄暗い林道にヒョロガリが一人。その陰気臭い顔も相まって物の怪の類にしか見えないわよ。そもそもこんな道使う人間自体稀なんだから、死人だって思われても仕方ないわよ」


 きっとさぞご立派なご両親をお持ちでいるのだろう。大人相手でもはっきりと物を言い、言葉遣いも随分と落ち着いていて、とてもじゃないが身長140cm程の女児が放ったセリフとは思えない。


 しいて欠点をあげるとするなら、彼女の言葉選びには少々棘がある。そして悪意も感じる。さらに言うと、それを隠そうとしない嫌味な態度も鼻に付く。


 はっきり言って、この子嫌いだ。


「…じゃあ、こんなところで一人ぼっちな君も、僕みたいな幽霊ってことになるんじゃないかな?」


「何言ってんのよ。地に足のついた幽霊なんて、あんた見たことあるっての? それに、初対面に向かって『ぼっち』はないでしょ失礼ね。防犯ブザー鳴らすわよ」


 少女はポケットからブザーを取り出し、それをナナシノの眼前に掲げてみせる。


 失礼はどっちだ。あと、こんな山の中でブザーを鳴らしたとして、一体誰が助けに来てくれるというのだろうか。問い質してみたかったが、流石に大人気ないだろということでやめた。本気で通報されかねん。


「で、あんた一体何者なの? ホームレス? それとも家を追い出されてきたニート? 変質者とかじゃないでしょうね…」


「世間様は僕みたいな人間のことを『バックパッカー』と呼ぶ。お子様には難しかったかな? ただの旅人だよ」


 背負った鞄を少女の前でぐっと持ち上げ、ナナシノは自身が旅人であることを強調する。断じてホームレスでもなければロリコン変質者なんてものでもない。それこそ物の怪の類だろう。


 少女は納得したような、そうでないような顔で頭をひねった後。


「要は『住所不定無職』ってことね。なんだ、私結構いい線いってたんじゃない」


 お嬢ちゃん、難しい言葉を知ってるね。一体誰に教えてもらったのか、是非とも親の顔を拝んでやりたいところだ。…いや、これ以上は止めておこう。後で後悔することになる。


 と、浮き出る血管をなんとか抑え、ナナシノは再び自転車にまたがった。


「ほら、後ろ乗りなよ」


 後方の荷台部分に手を添え、ナナシノは少女に向かい提案する。少女は訝しげに眉をひそめこちらを見るばかり。


「迷ってるんだろう? 家まで送ってあげるから乗りな」


「私、迷子だなんて一言も言ってないわよ」


「そうだっけ。でも君、僕を見たときちょっと嬉しそうだったけど…助けてくれそうな大人を見つけてホッとしたんじゃない?」


「なッ…!」


 少女の顔がみるみる赤く染まっていく。


 実はカマをかけただけなんだけど…、この慌てっぷりは図星だったかな。

 

「それに、君『比古菜(ひこな)さん』のとこの娘さんでしょ」


「………あんた、なんで私の名前知ってんのよ」


 少女の薄赤い顔色は、血の気が引くように一瞬にして青白く塗り替えられた。そりゃ、誰だって知らない人間に自分の名を言い当てられたのなら警戒の一つだってするだろう。


 この子の場合、出会ったその瞬間から執拗に警戒なさっていたようだけど。


 そしてナナシノは、この少女が何者であるかに心当たりがあった。だからそれを口にした。今更な告白だが、タイミングを掴めずにいたのだ。本当は親の顔も知っている。母方はとても綺麗な人だった。父方は知らない。


「実は、君の母親と僕は面識があってね。帰省ついでに寄っていこうと思ってたんだ」


「帰省って、あんたここの人間だったの?」


「まぁそんなところ。と言っても、君のお母さん…『律子(りつこ)さん』と知り合ったのはここ最近なんだけどね」


 少女はナナシノの口から母親の名前が出ると、強張っていた表情を少しだけ緩めた。そして少女は、自身の母親とナナシノとの関係性について問い質す。ナナシノは、数年前この集落に迷い込んでしまったとき、道を教えてくれたり食事を振る舞ってくれたりと世話になった…そう打ち明けていた。


「でも、私はあんたみたいなやつ知らないわよ」


「そりゃそうだ。僕が律子さんの世話になってた間、君は学校に行ってたんだから」


「そう…まぁいいわ。とりあえず信じてあげる」


「そいつはよかった。恩人の娘さんに不審者扱いされたままじゃ、気兼ねなく挨拶にも行けないからね」


 ナナシノは笑いながら、しかし切実にそう溢した。少女の方も、彼に対し先程までのような警戒心は抱いていない様子。


「じゃ、早いとこ後ろに乗ってくれないかな。日が暮れるまでにはこの林道を抜けたいんだ」


「でも…」


 少女はやはり迷っている。ナナシノの話が全て嘘っぱちである可能性を捨てきれず、しかしこれを逃せば無事家に帰れる保証もない。目を泳がせる少女に、ナナシノは言葉を被せる。


「もし僕が幼子を狙う誘拐犯だったとしても、君が乗るのは自転車の後部座席だ。何かあったのなら飛び降りて逃げることもできるし、第一本当にさらってやろうってんなら、こんな長々と説得するより力尽くで言うことを聞かせた方が手っ取り早い。どう? 僕が本当に怪しく見える?」


 最後に、「恩人の娘さんを見捨てて行くなんて僕には絶対にできない」と付け加え、少女は何とか首を縦に降った。


 ガシャン、と自転車の後輪が軋む音がする。


「さて、短い旅の始まりだ。落とされないようしっかり掴まってな」


「いいから。早く出発しなさいよこのロリコン」


「ハイハイ」


 ナナシノの相棒は、再びチェーンを張り動き出した。あと数時間もしないうちに日が暮れてしまう。木々を照らす西日に焦りを覚えつつ、ナナシノは目一杯の力でペダルを踏んだ。



「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかったね」


「私の名前?」


 少し冷気を含んだ風になびかれながら、ナナシノは少女に名を尋ねる。


「お母さんから聞いてないの?」


「君の口から聞きたいんだよ」


「何それ気持ち悪…」


 道中の沈黙に耐えきれなくなり振った話題だったのだが、別の意味で気まずくなりそうだ。やはりどんな洒落た冗談でも幼子相手じゃ煙たがられるだけだったか。


 ナナシノは少しだけ後悔した。



「───『比古菜(ひこな) (すず)』よ」



「え?」


 今度はナナシノの方が聞き返す。


「だから、私の名前! 『比古菜 鈴』っつってんのよこの難聴!! 耳に鹿の糞でも詰まってんじゃないの」


「ハハハ、まさか本当に教えてくれるとは思わなくてね。今日泊まる宿のことを考えてたら反応が遅れた」


 半ギレ状態の少女に、ナナシノは相も変わらずな調子で返す。


 実際問題、旅人にとって寝床の確保は死活問題だ。日が落ちる前にある程度の目星は立てておく…というのは当たり前で、隙間時間を有効に活用しなければ痛い目を見るものなのだ。


「………言っとくけど。日が暮れるからって、家に着いてもあんたの飯や寝床なんてものは無いわよ。あわよくば泊めてもらえるかも───なんて考えるだけ無駄。旅人なんだからそこらへんで野宿しなさいよね」


 ナナシノは一言も発さず、静かにガックリと肩を落とした。


 子供は妙なところで鋭いから困る。正直、宿泊はなしにしても晩御飯くらいは…なんて期待していた自分はもはや数秒昔の話。鹿の糞でも詰められたような気分だ。


「でも、ありがとう」


 しかし心中の暗転っぷりとは反対に、ナナシノは明るく笑い、少女─── 鈴に向け感謝を述べた。


「え、なんで意地悪言われて喜んでんの。やっぱ変態なの?」


「そうじゃなくて。名前、教えてくれただろ? ありがとう。いい名前だ、大切にしなよ」


「………変なやつ」


 照れたように、鈴はそれだけ言うとまた黙ってしまった。でも、二人の間にはもう気まずい沈黙なんてものは存在していなかった。


「で、あんたは?」


「何が?」


「私は名前を教えたわよ。今度はあんたの名前を教えなさいよ」


 僕は答える。


「『名無しの・権兵衛』」


「ふざけてるでしょ」


「源氏名だとでも思ってくれよ」


 鈴はキョトンとした顔でナナシノを見る。


 子供にはわからないよな。悪ふざけが過ぎたようだ。


 でも仕方がない。名前なんて、2つも存在しないのだから。


 辺りからは段々と陽の暖かさが抜け、ひぐらしの鳴き声がセンチメンタルを誘う。もう、日が暮れる。



 突然の大雨に、ナナシノと鈴は屋根を探し走り回っていた。


 地面がぬかるみ始めたのと、日が落ちてしまい真っ暗になった視界とで自転車での移動が困難になった。経年劣化で光力の落ちてしまったヘッドライトだけを頼りに、ナナシノたちはずぶ濡れになりながらとにかく走る。


「こ、こんな大雨…聞いてない…」


「山の天候は変わりやすいからね。とにかく、どこか雨宿りできる場所を見つけないと」


 雨粒が木の葉に叩きつけられる音で、お互いの声はほとんど聞こえない。それでも、決して逸れることだけはないようにと、2人は手を繋いでいる。


 クシュン。


 鈴のくしゃみが微かに聞こえる。ナナシノは鞄から自転車保護用のレインシートを取り出し、それを鈴にかけてやる。


 自転車はここに置いていくことにした。


「とりあえず、これで身体を濡らさないようにしてくれ。あと、疲れたなら早めに教えてほしい。鈴くらいなら担いで走れる」


「このくらい平気よ。それよりこのレインシート、良かったの? これじゃあんたの自転車…」


「ごめん、雨の音でよく聞こえないよ。それより今は走ってくれ」


 小さく「わかった」と返事をする鈴は、それでも雨ざらしで放置されるナナシノの自転車が気になるようだ。見えなくなるまで、彼女はチラチラと後ろを振り返っては申し訳無さそうな表情を見せた。


 しばらく走っていると、ふとナナシノの視界の隅に洞窟のようなものがとまった。


 ナナシノは鈴にそのことを伝え、今夜はそこでの野宿をすることを提案する。


 最初はナナシノとの野宿を渋る鈴だったが、そんな彼女を一筋の雷光が黙らせる。


 鈴はすごすごと洞窟の中へ入っていった。


「思ったより狭いわね…それに寒いわ」


 洞窟の中に入るやいなや、鈴は背を走る寒さに思わず肩を震わせた。


 そんな鈴の様子を見たナナシノは、何を思ったのかパチンと1回、指を鳴らす。


 するとどうしたことだろう。ナナシノの手中にはテニスボール程の火の玉が現れた。


 ナナシノはそれをキャンプ用ウッドストーブに焚べ、一瞬のうちに焚き火を完成させてしまった。


「すごいじゃない! あんたそれどうやったの?」


「実は僕、大道芸に少し自信があってね。割と稼げるんだな、これが」


 実際に、今みたいな手品を使って日銭を稼ぐ程度なら旅先で何度も行ってきた。まさかこんな形で役に立つ日が来ようとは夢にも思ってなかったけど、旅を続けていれば人生やはりわからないものだ。これからはもっと真剣に極めてみようかな───なんて考えていたその時。


 ギュー。


 お腹が鳴ったような音が、洞窟内に響いた。というか、確実に誰かのお腹が鳴った。しかしナナシノではない。


 とすると…。


「その………お腹、空いた」


 恥ずかしいそうに、そしてそれを隠すようにどこか虚空を見つめながら、鈴がボソッと呟いた。パチパチと上がる炎に照らされた鈴の顔は、耳まで真っ赤になっている。


 ナナシノは笑いながら、鞄の中から塊を2つ取り出し、そしてそれらを鈴に差し出す。


「何、これ?」


「何…って、キュウリとナスだけど。見たことない?」


 ナナシノはキョトンとした顔で鈴に問う。


「いや、菓子パンとかおにぎりならわからなくもないけど…なんで生のお野菜がでてくんのよ」


「だってお盆だし、それに生で食える」


 ついでに水分補給もできてイタレリツクセリね、と鈴はナナシノの手からキュウリを一本すっぽ抜く。


 なんともいえない顔でキュウリを噛み砕く鈴の背からは、 " 違う、これじゃない。" と滲み出る不満が顕になっているように感じられた。


 結局その後ナナシノの手元に残ったナスすらも平らげてしまった鈴は、礼も無しに「身体が冷えた」と焚き火台に身を寄せる。


 どれほどの時間が経っただろうか。その間鈴はナナシノのどんな自分語りにも耳を傾けることなく、しまいには「眠るから話しかけないで」と完全に目蓋を降ろしてしまった。


 開けば嫌味か単純な悪口…稀に優しさを覗かせる凶器のような鈴の口も、つぐんでしまえば案外寂しいものだった。


 再び訪れた静寂の中、鈴が動かないことを確認すると、ナナシノは鞄の中から一本の細長い瓶を取り出す。


 そして中に入った白い飴玉のようなものを一握り、一気に口内へ流し込んだ。


 バリバリと骨の砕けるような音だけが洞窟の中を駆ける。眠るからとだんまりを決め込んでいたはずの鈴も流石にナナシノから聞こえる奇妙な咀嚼音を不審に思い、閉ざした口を再び解錠してしまっていた。


「何…食べてるの?」


 鈴が本当に眠っていると勘違いしていたナナシノは心底驚いた様子で、しかし鈴の方から話しかけてくれたことに対し少し嬉しくも感じ、とりあえず「起きてたんだ」と意味のない事実確認で尺稼ぎに走る。飴玉の入った瓶の方は、既に鞄の中へと隠してしまっていた。


「実は僕、重度の鬱病患者でね。今食べてたのはお薬だよ」


「薬には『食べる』って表現使わないわよ」


 鈴はハァと溜め息をつき、再びナナシノに背を向けた。


「興が削がれたわ。やっぱり寝る」


「そうか。今度こそおやすみ」


 ナナシノはさして気にも留めない様子でそう言うと、「僕もそろそろ寝ようかな」と独り言の後、静かに横になった。


「………私、帰れるのかな」


 ナナシノに背を向けながら、鈴はポツリと呟いた。


「不安か?」


「別に。ただ言ってみただけよ」


 鈴は強い女の子だ。普通なら面識のない男と二人きりで野宿なんて、中々できることではない。


 しかし、そんな彼女の " 強さ " も、実際はただのやせ我慢であり、強さではなくただの強がりだった。そしてそんな強がりも、限界が見え始めてきたのだろう。


 ナナシノはそんな鈴の心情をくんで、ポケットから何かを取り出しそれを鈴に差し出した。


「…なにこれ、くれるの?」


「お土産だよ。どこの国で手に入れたのかは忘れてしまったけど、粗末なものでないことだけは約束しよう」


 鈴の手の中で鈍く煌めくそれは、アンティーク調の小さなペンダントだった。金属部分は所々錆びてしまっているが、蓋に埋め込まれた宝石は一点の曇もなく光輝いている。不思議な色をしたその宝石に、鈴はしばらくの間見入ってしまっていた。


 「きれい…」と時折声を漏らす鈴を見て、とりあえずお気に召したようで何よりだとナナシノは胸をなでおろす。


「そういえば」


 ペンダントを眺めていたかと思うと突然、鈴はナナシノの方に向き直り声をかけた。


「あんた、なんで『帰省ついでに』なんて嘘ついたのよ」


「…と、言うと?」


「ずっと聞こうと思ってたのよ。旅の途中でこの土地を訪れて、困ってたところを私のお母さんに助けてもらった───って、ならここはあんたの故郷でも何でもないじゃない。それに、私があんたに『ここの人間だったの』って訊いたときも否定しなかったでしょ。…言ってることが矛盾しまくりなのよ」


 ナナシノは鈴の話を聞きながら、バツが悪そうにポリポリと頬を引っ掻く。


「じゃあ、何でそのことをすぐ指摘しなかったんだ?」


「あんたのことを信用して、気を遣ってあげてたのよ」


「確証も無しに僕を信用してたのか? 慎重そうに見えたけど、思ったよりも思い切りがいいんだね」


「私にはわかるのよ! それに事実、あんたは私のために少なからず尽くしてくれてる。あんたが言ったみたいに、本当に悪い人間なら力づくで私をねじ伏せてたに違いないわ」


「仰るとおりで」


 鈴はナナシノの目を見つめ、そして続ける。


「ねぇ、あんたは何で旅をしてるの。そして、なんでボロが出るような嘘をついたの」


 フッと焚き火台の火が消える。


 洞窟の中には再び闇が広がり、発火剤の爆ぜる音がしなくなった代わりに、雨の音がより一層うるさく感じられた。


 そんな状況に動じるようなこともせず、ナナシノはただひたすらに、物悲しい表情で常闇の先を見つめるばかり。


 鈴はひたすら待ち続けた。ナナシノの口が開かれるその瞬間を。


「なんか、言いなさいよ」


 答えを探すわけでもなく、言い訳を考案するわけでもなく、ナナシノは彼の瞳の奥で思い返していた。生まれたその瞬間から辿ってきた、長い、長い旅路を。


「僕は───作るために旅をする」


 ようやくナナシノの口から発せられたその言葉には、まるで何かを決意するかのような熱が孕んでいた。この先何が起ころうとも、過去に何が起こっていようと、揺らぐことのない確固たる想いがその一言にはあった。


「一体、何を作るの?」


 少し、間が空く。



「僕の、…いや、僕がいる世界を」



 そしていつぶりかの笑みを面に携えて、今度はナナシノの方が鈴の方を見つめて言った。


「僕にはね、故郷が無いんだ。昔馴染みの友人も、僕を産んだはずの両親さえ、この世界には存在しない」


 眼の前の笑顔とはあまりにもかけ離れた悲しい話に、鈴には返す言葉が見つからなかった。


 そんな鈴を困ったような顔で一瞥し、またナナシノは言葉を続ける。


「でもね。だからこそ僕は、自分で作ることができる。選ぶことができる。僕自身の世界を。…一度しか訪れたことのない場所だって、僕がそう思うならそれは紛れもない故郷になるんだよ。だから僕は、旅を続ける」


 水滴の滴る天井を見上げ、誇らしそうにナナシノは答えた。そんなナナシノを、鈴は黙って見ていた。美しい宝石を眺めるような眼差しで。


「あんたは選んだのね。先に進むことを」


 鈴は違うのかと、ナナシノは尋ねる。


「私はね、同じ場所をずっとぐるぐるしてるの。誰かに見つけてもらうことを期待して、ずっと気付かないふりをしてた」


「気付かないふり…って?」


 観念したようにうつむきながら、鈴は答える。


「私ね、ホントは迷子だったのよ。帰る場所もわからずに、ずっと同じことを繰り返して。そしたらね、いつの間にか…自分がどこにいるのかも、わからなくなっちゃった」


 鈴は自嘲気味にそう笑うと、ピョンと立ち上がり入口手前まで移動する。洞窟の外まで出ようとするが、生憎雨は激しくなるばかり。


 鈴は外の景色に背を向け、薄暗い洞窟の奥へと向き直った。


「ねぇ。私、帰れるのかな」


 鈴の眼は、これまで見てきた中で一番真剣な色を映していた。ナナシノの返答次第で、運命すらも変わってしまうような、そんな雰囲気を纏っていた。


 が、そんな眼差しに物怖じすることもせず、ナナシノは実に穏やかな表情で彼女に向かい、そして言った。


「止まない雨はないさ」


 たった一言。しかしこの一言には、得体の知れない説得力があった。


 ナナシノの答えを聞いた鈴は、別段何をするでもなく再び彼の隣に座り直し、そしてそのまま肩に寄りかかった。


 それからはボーっと外を眺め、数分後にはスースーと寝息をたて始めてしまうのだった。


「おやすみ」


 そう呟きながら、ナナシノは鈴の頭にポンと手を乗せる。



「ありがとう」



 ふとした瞬間、鈴がそう言った気がした。


 ナナシノは改めて鈴の方を見てみるが、やはり先程と変わらずスースーと寝息をたてている。


 しかし、どこか満ち足りた寝顔だった。


 ようやく、本当の意味でナナシノのことを知れた鈴は、きっと心を開いてくれたのだろう。


 道標を与えてくれた、旅の人に。


 眠る鈴の小さな掌は、そこに収まるペンダントを強く握り直した。



 次の日の朝。


 昨日の大雨が嘘であったかのような快晴にひとまず安堵、そして容赦のない紫外線に溜息をつき、ナナシノと鈴は自転車を取りに山道を歩いていた。


「昨日はよく眠れた?」


「ロリコン野郎の隣で快眠できるほど、私は自分の容姿に対して理解がないと思われてるのかしら」


「…鈴は自分の容姿云々よりも、口の悪さを自覚した方がいいと思うよ」


「あら、一応わかった上で罵倒してるつもりなんだけど」


「その毒舌が天然モノじゃなかったって事実にちょっとガッカリだ」


「天然なら天然でたち悪いじゃない」


 鈴は珍しく冷静なツッコミを入れると、トンと軽くナナシノの肩をつつく。


 決して痛くはないのだが、一応社交辞令的に「あたー」と痛がってみたりして、ナナシノと鈴は笑みを交わした。


 その後自転車は無事見つかり(と言っても1、2時間は探し回った)、ナナシノはサドルに、鈴は後方の荷物置きに腰を下ろしてようやく下山を開始した。


 登りとは違い、ペダルをこがなくても車輪は勝手に回ってくれる。


 しばらく走っていると、ついに久方ぶりの人里が見えてきた。間違いなく、鈴の住む町だった。


 

 ナナシノはブレーキに手をかけ、ある一軒家の前で自転車を止めた。大きな庭のある、鈴の家だ。


「無事到着、ってところだね」


「ええ、礼を言うわ」


「相変わらず口だけは達者だな」


 鈴はニヤリと口角を上げると、ナナシノに向かい思い切り拳を振り上げる。


 ドスッという鈍い音と共に、ナナシノはその場に崩れ落ちた。


「訂正しなさい。私、こう見えて身体の方も達者なのよ」


「………それほどの強靭さがあるなら、きっとこの先でもやっていけるな」


 お腹の辺りをさすりながら、ナナシノは鈴の肩を叩く。


 鈴も負けじと、ナナシノの肩を叩き返した。



「───あら」



 すると、鈴の家の玄関が開き、中から人が出てきた。



「あ、お母さん!」



 それは鈴の母親、「比古菜(ひこな) 律子(りつこ)」その人だった。


 2人の顔を見比べてみると、なるほど確かにこれは親子だ。鈴の方が、少し律子さんの面影を残している。



「じゃあね、『ナナシノ』! あんたに貰ったペンダント、大事にするから」



 「もう迷ったりするんじゃないよ」というナナシノなりの別れも聞かず、鈴は母親のもとへ走って行ってしまう。


 鈴の手が律子さんの身体に触れようとしたその刹那。



「あら、今声が聞こえた気が…」



 律子さんは不思議そうな顔でキョロキョロと辺を見回す。



 鈴の姿は、どこにも無かった。



 鈴がいたはずのところまで、ナナシノは歩く。そして立ち止まり、地面に落ちた " あるもの " を拾い上げた。


「律子さん」


 ナナシノは律子さんの名前を呼ぶと、彼女のすぐ近くまで歩み寄った。


「あら、あなたは…」



「 " 依頼 " されてたもの、無事届けましたよ」



 そう言うと、ナナシノは律子さんの手をとり、先程拾った " あるもの " を渡す。律子さんは目を見開き、ナナシノに尋ねる。


「これは…」


「預かっていた品です。もう、役目は果たしてくれましたので」


 律子さんはナナシノによって握られた手を解き、中に収められたそれを天に掲げた。


 不思議な色をした宝石が、日に照らされ鋭く煌めく。


 それは、ナナシノが鈴に託したはずのペンダントだった。実のところこのペダントは律子さんの所有物で、彼女から一時的に借りていたのだ。


「…あの子は、何か言っていましたか」


「いえ、きっともう大丈夫です。笑顔で走って行きましたよ」


「そう、ですか」


 そして堪えきれなくなり、律子さんは大粒の涙を流し始める。その手からスルリと、ペンダントがこぼれ落ちた。


 地面へ落下し、一瞬宙を回転しまた地面へ着地したペンダントは、その衝撃で蓋が開いてしまっていた。


 蓋の隙間から、ワンピース姿の " 鈴の写真 " がその笑顔をのぞかせる。


「じゃあ、僕はこれで」


「あの、何かお礼を───」


 律子さんの言葉を遮り、ナナシノは続けた。



「いえ、お代はもう頂いているので」





 夕暮れの中を、1台の自転車が流れるように走り抜ける。


 中性的な顔立ちをしたその青年は、その華奢な体格に似合わぬ大きな鞄を背に携え、これまた枝のように細い脚を目一杯の力で動かす。



『───今日午後2時頃、……町付近の林道で行方不明となっていた少女の遺体が、発見されました……』



 青年の耳に付けたイヤホンから、ニュースキャスターの声が漏れる。そしてそれは風に乗って、自転車のもと来た道を遡る。


 

「ねぇ聞いた? 10年前に失踪した女の子の遺体」



「えぇ、たしか『比古菜さん』のとこの。なんで今になって見つかったのかしら」



「白骨化した状態で見つかったらしいけど、それがなんかおかしいんだって」



「『おかしい』って?」



「遺骨の " 丁度半分 " が、まだ見つかってないらしいのよ」



「やだ怖い、殺人とかじゃないでしょうね───」



 通り過ぎざま、奥様方の井戸端会議が耳に入った。


 しかし、青年はさして気に留めるようなこともせず、ポケットから飴玉のようなものを一つ、口の中に放り込んだ。


 バリッと、骨の砕けるような音が口内に広がる。



「君も中々、お人好しよね。私なら、あーんな回りくどいことなんかせずに丸々パクッといっちゃうわよ」



 気が付けば、自転車の荷台には一人の少女が腰をかけていた。髪はツインテールに結び、全身を黒を基調としたゴシック・アンド・ロリータで固めた日傘の少女。瞳は血塗られたように紅く、髪は蜘蛛の糸を思わせる白銀。


 そして、彼女もまた青年と " 同じ " だった。


「僕は君とは違うんだよ」


「あら、この世で唯一の『同類』なのに中々冷たいのね」


「少なくとも、地に足を着けているうちは人間でいるつもりだよ」


「あぁ、そう。─── " 死者の遺骨 " しか喰らうことを許されぬその身で、中々面白いことを口にするのね」


 滑稽なものでも眺めるような調子でそう言うと、ゴスロリの少女は青年の自転車から飛び降りる。黒いレースのスカートが宙で広がり、それはさながら海を舞う海月のようだ。


 青年は自転車を止め、後ろを振り返る。視線の先には、もう誰もいなかった。



『生きることも、そして死ぬこともできない半端者の行き着く末路、先駆者として見届けさせていただくわ───…』



 しかし、彼女の声は微細な粒子と化し、その場に佇む。


「嫌味小言も程々にしてほしいものだね」


 そう愚痴をこぼし、青年は残留する言霊をはらうと再び自転車のペダルをこぎ始める。




 名前は「ナナシノ」。もちろん、今自転車をこぎ始めた彼の名だ。


 自転車一つで国々を股にかける旅の人───それがナナシノの肩書きであり、職業と言っていいものなのか定かではないにせよ、一応彼なりの生業としてそう自称しているのである。


 が、それはあくまで自称の一つにすぎない。


 彼の本当の名は、誰も知らない。それはナナシノ自身すらも。



 幼い頃、彼は一度死に至った。



 しかし冥界の大門をくぐった先、何者かに連れられ再び世に現界したのだ。


 世に二度目の生を受けたと思われたナナシノだったが、再臨したその地…つまるところこの世界は「地獄そのものであった」と彼は語る。


 生き返ったはいいものの、どういうわけか彼という人間を知っている者が一人もいない。


 かつての友人も、肉親すらも彼のことを覚えてはいなかった。


 帰る場所もなく目指すべき地も有りはしない。その上ナナシノは、 " 死者の遺骨しか口にできない " 、 " 死者という存在を認識できてしまう " という特異体質を持って生き返ってしまった。


 ナナシノは、自分が生きているのか死んでいるのか、わからなくなっていた。


 ───そんなとき、彼の前に先駆者が現れた。



『君に道を標してやろう』



 ナナシノは名を貰い、知恵を貰い、そして「自転車」を貰った。



 ナナシノは旅を始めた。



 ただし、それは「先駆者」とは違った道を歩む旅だった。自分を探す旅ではなく、自分を " 作る " 旅。


 昨日今日の出来事も、長い旅路の一端に他ならない。


 ナナシノは自身の特性を活かし、世界を旅しながら迷える死人に道を標す。そしてその対価として、救ってきた彼ら彼女らの遺骨のうち半分を頂戴するのだ。


 手に入れた骨は飴玉状に加工し、敬意と感謝を込め胃に収める。人間らしさを失わないための大切な習慣だ。


 そしてそういったことの積み重ねを経て、ナナシノは「ナナシノ」として、別の誰かにとっての先駆者となるまでに大成した。



 彼の旅はこれからも続いていく。


 それは終わりのない、先の見えない旅かもしれない。


 根本的には何も変わらない、意味のないことなのかもしれない。


 でも、それでも彼は前に進む。




 ───冥界の大門と再び出会う、ただその時まで。

本作は「迷い人編」「再臨少女編」「冥界の魔法使い編」の全三部構成を予定しております。続編の公開をお楽しみに。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすくて面白い! 細かい伏線がたくさん貼られていて楽しく読めた。 主人公と律子さんの関係や、白い飴玉、ペンダントの正体など、中盤まで濁されていた点が終盤でしっかり回収されていたので、作…
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