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「し、死にそうです……」
「先生! もっと速く走ってよ! なんで大人なのに車の運転へたっぴなのよ!」
「お、大人にだって苦手なことくらいあります! 私、この世のありとあらゆる自動車を壊して回りたいくらい運転が苦手なんですからね……!」
不穏なことを言って車を走らせているのは、ソーニャとアーミラ。
ソーニャの方はばしばしと膝を叩きながら急かしているが、アーミラの方はどう見てもそんな場合ではない。両目をかっぴらいたまま、まばたきひとつすらせずじっと目の前のなにもない道をにらみつけていて、額から噴き出した冷や汗が丸っこいめがねを壮大にずらしつつあるというのに、それを直すことすらしない。高いところから飛び降りる夢を見て、地面に衝突する寸前で飛び起きた人なんかはこんな顔をしているかもしれないが、かわいそうなことに、アーミラがいるのは夢の中ではない。
「き、気持ち悪くなってきました……」
「ええっ! 運転してる側なのにっ?」
ものすごく前のめりになっているものだから、座席シートとアーミラの身体の間には拳二個分くらいの余裕はある。ソーニャは小さな手を差しこんで、アーミラの背中をなでながら、
「がんばってよ、先生! あの車にルウが乗ってるんだから!」
もちろんそんなことはない。
当のルウは、この暴走自動車の後ろからてくてく歩いてきている。
どうしてこんなことになってしまったのだろうか、と問いかけて、これまでの話を振り返ってくれる人も死神もいないので、どんどん車は加速していく。
☆
「山だなあ」
「森だねえ」
さっきのコンビニで一応買っておいた虫よけスプレーを、服に隠れていない部分に吹きつけながら、沙季とルウは上り坂のふもとに立っている。
大して整備されているようには見えない、曲がりくねった道がひとつ。木々の間を蛇が歩くように続いている。真新しいわだちがみっつもあれば、ここを通ったことはまちがいないらしいな、とわかる。
自分で行こうと言い出したのはいいものの。
うへえ、と沙季は溜息のひとつでも吐きたくなる。最近はバイトに勉強ばかり。精力的でなかったと言えば嘘になるけれど、学校の体育の授業以外でろくに運動なんてしてこなかったのだ。ここまで歩いてくるのだってまあまあ疲れているし、ましてや夏だ。
だるいよなあ、と思う。
まあでも、一度やるって言ったことは、ちゃんとやらなくちゃな、とも思う。
「んじゃ、行くか」
「ん」
さすがに道の真ん中は行かない。上から車が降りてきたとき、自分たちの姿がモロにバレてしまうから。歩きにくいよな、と思いながら、道の脇、転落する心配のない範囲のところをざくざくと草を踏みながら歩いていく。
ルウはすいすい先に進んでいくから、沙季はそれに置いていかれないように慌て気味で足を動かした。おかしい、足の長さはこっちの方が勝っているのに、と思ったけれど、重心が高い分こっちの方がバランスが取りづらいのかもしれない。いやでも、なにもないところで転ぶのってちっちゃい子どもばっかりだし、ふつう身長が小さい方がバランス感覚は悪いのかも、なんてとりとめのないことを、
どぉん、と。
大きな音がして、ふたりは動きを止めた。
「いまの音さ、」
「さっき聞こえたやつ」
滝の近くで。
あのときは頭にたんこぶを作って伸びている死神を見つけた。今回もそれに似たようなことが起こっているのかもしれない。
「なんの音だろうな」
「わかんない」
沙季の息は少しずつ切れつつある一方で、ルウはまるで疲れた様子を見せない。さすがに小学生に負けられるかよ、と沙季も足に力を込める。近道とかあったりしないかな、と弱気な気持ちも同時に、
「あれ、」
あった。
近道が。
「ルウ」
ん?と振りむいたルウに手招き。ちょいちょい、と示すのは獣道。
頂上へと上っていく道のほかに、ぐるっと山を横切るような道がある。
ふたりはちょっと迷った。
「音が聞こえたの、むこうの方だったよな?」
「頂上じゃなかった、かも」
「行ってみるか? かえって遠回りになっちゃうかもしれないけどさ」
うむむ、とルウは自分のほっぺたをぐにぐにと持ち上げて、それから言う。
「こっちの道いこ」
獣道を指差して、
「おもしろそうだから」
「おっけ」
上り坂じゃなくなったから、ちょっとは軽快に歩けるようになった。それでも足元の悪さは相変わらず……むしろさっきよりもひどくなっている。人が三、四人程度はすれちがえそうな道幅で、転落するような心配がなさそうだったのが、救いといえば救いだった。
声が聞こえてくる。
「――やつらよりも先に――、確保を――」
「でも――こんなの――」
男の声だった。だから、アーミラのものでもソーニャのものでもない。なんとなく、さっき会ったセラドニクスの声でもなさそうだった。もっとふつうの声。
焦っているような。
沙季とルウは、目で合図をしあう。聞こえてくるのは、この獣道の先からじゃない。車道の方から。獣道を外れて、音をできるだけ立てないように、こっそりと近づいていく。
黒い服を着た、男のふたり組だった。
「――むこうから連絡が来た。見つけたらしい」
その言葉で一目散に、車に飛び乗って、むりやりUターンして、走り去ってしまう。
その姿が見えなくなってから沙季は、なんだったんだろうな、と言おうとして、また聞こえてきたどぉん、という音にかき消されてしまう。
もう少し、上の方から聞こえてきた。
「……行ってみる?」
「行ってみよう!」
ルウが言うので、ふたりはまた上り始める。さっきの獣道が平坦だったから足の力も回復して、今度はすいすい目的の場所までついた。
アスファルトがへっこんでいる。
というか、陥没している。片側の車線が壊れきって、元の地面が露出している。
ルウは珍しい光景に目を輝かせている。沙季はひえ~っと心の中でつぶやいている。声に出さなかったのは、そこにそれを聞きとれるだろう人たちがいたから。
「密猟は禁止されているんですよ、君たち! いまならまだ間に合います、警察に自首しなさい!」
「うるせー、めがね野郎! なにもかも間に合わなかったからこんな仕事に手を出してんだろうがよ!」
セラドニクスと、黒服の男たちが口論していた。黒服の方は四人。セラドニクスはごま塩頭の男とふたりだったけれど、地の利があるからそれをものともせずに正面から説得している。
道を塞いでいたのだ。陥没した地面の横に軽トラを止めているから、黒服たちの黒い車はその先に進めずにいた。
セラドニクスたちは大声で叫び合い続ける。こんなことをして親御さんが泣いていますよ、うるせー親子の縁なんざとっくに切れたよ、あなたは自然環境のことをどう思っているのですか、知るか俺は今日を生きていくだけで精いっぱいなんだよ虫けらのひとつやふたつが知ったことか、どうしてですかまともな仕事に就けばいい、さすがお偉い学者さまは違うねえまともに生きてりゃまともな仕事に就けるってかふざけてんじゃねえぞ、そんなこと言うなら農業でもやりゃいいだろうだうだ言い訳して人様に迷惑かけて何様のつもりだおのれらは、土地持って年金もらって悠々自適の爺様は気楽でいいなあ!
口論の内容、世知辛え~。
乾いた笑いを浮かべつつ、どうすっかな、と迷う。
ここは無視して進んでみようか。ルウが気になってるのは先生と友だちだけなんだろうし。セラドニクスとあの……地元のおじさんだろうか。あのふたりがここで足止めを続けてくれるなら、その間に森に紛れてこそこそ様子を見て帰ってくることもできると思う。
どうする、とルウに話を振ろうとする前に、
「な、なあ……! あきらめようぜ……!」
状況が動き始めた。
そこではじめて、四人の黒服のうち威勢よく喋っていたのがふたりだけだったことに気が付いた。たぶん車に乗って、自分たちと同じルートをたどってここまで来たのが、セラドニクスと喧嘩していた方。
先にそこにいたのかもしれない。残りの黒服の男ふたりは、怯えたような声で言った。
「あのめがねの言うとおりだって。あんなやつ、俺らじゃどうしようもねーよ」
「なに腑抜けたこと言ってんだ! 『変種』だぞ! しかもあんなでけーやつ、ちゃんとマーケットに流せりゃ一攫千金だ!」
沙季は『変種』って?とひそひそルウに聞く。『物質界』にはいなくて『心霊界』にだけいる種類の珍しい生き物のこと、とルウは教えてくれる。
威勢のいい方の黒服はすごみながら、
「へへへ……そうだ、学者先生。そんなことしてていいのかね。俺らの裏にはブラックマーケットだってついてんだ。あんた、こんなことしてタダじゃ済まねえぞ」
「残念ながら、このあたりではブラックマーケットの勢力はそこまで強くありませんよ。政体の安定した地域ですからね。治安機構が正常に機能しているので、末端の密猟者が僕に邪魔だてされたくらいでは報復には動けません」
「ああ、そうかよ。さすが物知りなこって!」
黒服のひとりが、車にもう一度乗りこんだ。
「なにを――、」
「あんたとちがって俺には失うものなんざなにもないんでね! ぶっ壊させてもらうぜ!」
車のエンジンがかかる。
とっさに沙季はルウを抱える。ちょっと様子を見ようと、こっそりバレないようにとそれだけのつもりだったのに、とんでもない大捕り物に出くわしてしまった。
絶対あのままま軽トラに突っ込むつもりだ。上り坂でそこまでスピードも出ないだろうし、ひどいことにはならないだろうとは思うけれど、それでも万が一ということがある。映画だったらどう見ても爆発するシーンだ。多少音を出してしまってもこの際仕方ないからとにかくこの場を離れなくちゃ。
「ルウ、」
「むし」
「え?」
「おっきい」
ルウが指差す。
空の方。
つられて沙季も顔を上げて、
「――――は?」
メートル法でその大きさを表すのは難しかった。だって、そのサイズの生き物の大きさを正確に測ろうなんて思ったことがなかったから。
だから、子どものころに二回行った動物園の記憶をひっぱりだしてきて、沙季はこんな風に、それを表現した。
「――ゾウよりでけえ」
そんな巨大なカブトムシ。
羽をぶんぶん鳴らしながら落ちてきて、
どぉん、ともう一度地響き。