猫さがし
「パステル銀河」に収録する予定でしたが、内容を大幅に変えて短編にしました。
目が覚めたら、猫がいなかった。机の下やベッドのそば、植木鉢の中やお菓子の箱を調べたけれど、どこにもいない。
「おかしいわ」
ミウは台所の引き出しを全部開けた。ツナの缶詰、切り餅のパック、乾麺、レトルトカレー。やっぱりどこにもいない。
猫はミウの手のひらに乗るほど小さく、ぷっくりと丸い。薄紫色の毛は洗いたてのタオルのような手ざわりで、顔を近づけるとほのかに甘いにおいがする。
ミウは毎朝起きるたびに猫を見つけた。本棚の上や窓辺からふわふわと降りてきて、ミウの頬をくすぐるのだ。なのに今日は見つけられない。
「ねえ、猫見なかった?」
ミウは足ふきマットに聞いた。足ふきマットは物知りなので、仕事のことや初めて行くレストランのこともすぐに答えてくれるのだ。
「さあ。どこかに出かけたんじゃないかな。ところでミウは白ゴマと黒ゴマどっちが好き?」
「黒ゴマ。昨日はどうだった?」
「昨日も見なかったよ。ミウはいつもお団子頭だけど、おはぎ頭にはしないの?」
足ふきマットは何でも知りたがる。ミウは書類の束と洗濯かごをもう一度確かめた。猫はミウの指に触れるといつも嬉しそうに鳴いた。えさはあまり食べないけれど、ミウがパンくずを差し出すと飛びついた。ミウの指が好きなのだ。今日は一度もさわっていない。
「探さなきゃ」
ミウは足ふきマットを丸めてリュックに入れ、ショッピングモールへ出かけた。ショッピングモールには、猫が入っていきそうなすき間がたくさんある。壁のひびやコンクリートの穴、店と店の間のわずかな空間さえも入り口になる。
帰ったんじゃないの、と足ふきマットが背中で言った。
「帰ったって、どこに」
「猫には猫の居場所があるんだよ。ミウの家は止まり木だったんじゃないかな」
「あなたは猫が嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど、ミウのほうが好きだよ。よく足をふいてくれるから」
ミウは自動扉に顔を押し付け、中に猫がいないか目を凝らした。薄紫の、丸い猫。どこかにいるはずだ。
「開店は十時だよ」
急に声をかけられ、ミウは顔を上げた。足ふきマットが先に答えようとするのを押さえつけ、さっと振り向く。
赤いジャージを着た男が、ぬいぐるみやポーチの入ったワゴンを押して歩いてきたところだった。黒々とした髪に、鋭い目をしている。可愛いものばかり運んでいるのが似合わなくて、ミウは少し笑った。
「そのワゴン、見せてもらってもいいですか」
「十時からって言ってるだろ……仕方ないな」
ミウがワゴンに手を突っ込むのを、男は結局止めなかった。
白い小鳥、着せ替え人形、おもちゃの宝石箱、ロボットのペンギン。どれも可愛くて精巧にできている。でも、どれも猫ではない。
「何か探してるのか」
「猫」
「猫か……」
男はしばらく宙をぼんやり見ていた。そこに猫がいるのかと思い、ミウも同じところを見たけれど、何もいなかった。
「それ、本当に猫だったのか?」
「そうそう! ぼくも聞きたいと思って」
ミウはリュックを両手でぐいっと挟んだ。足ふきマットが黙ったのを確かめ、もちろん猫よ、と答えた。
「私が仕事から帰ると、玄関まで迎えに来るの。ふわふわって、風みたいに。夜は屋根に上って一緒に星を見てた。私の話がわかるみたいだった。星の話や、本の話」
「名前は?」
「猫。ただ、猫って呼んでた」
男はミウの目をじっと見た。ほころびを探すように、奥の奥まで見た。この人どこかで会ったかしら、とミウは思う。
「トマト」
「トマト?」
「あなた、トマト食べたことある? 私はないの。ここのところずっと。小さいころから嫌いだったから。あなたを見たら思い出した。そうだわ、猫もトマトは嫌いだった。だって、汁が毛につくでしょ」
男は少し動揺したように、ミウから視線をそらした。
猫は薄い水色の目で、いろいろなものを見ていた。いつでも見ていた。花も空も、ミウの記憶も。
「忘れたんだ」
男は言った。
「お前は猫を忘れたんだ。だからもう見えない」
苦いものをわざと平気そうに飲み込むような言い方だった。何それ、とミウは言った。
「覚えてるわ。ふわふわで小さくて丸くて、いつのまにかそばにいて」
「どうして『いつのまにか』なんだ? いつからいるのかわからなくなったんだろ。それは、忘れたってことなんだよ」
その通りだ、と足ふきマットが叫んだ。ミウはリュックを絞るように圧迫し、猫が来た日のことを思い出そうとした。でも、頭に浮かんでくるのは目が覚めた時のことばかりだった。当たり前のようにそばにいて、ミウの指にさわるのが好きで、お菓子のようないいにおいのする猫。
「私、忘れてるの?」
「そうだよ。俺のことも忘れてるだろ」
「あなたはここの従業員でしょ。十時の開店を待っていて、ワゴンの中身を見せてくれて、それにトマトを」
猫はトマトが嫌いだった。間違えて隣の庭のミニトマトをかじり、一日中不機嫌だったこともある。苺をあげたら元気になった。パンケーキも好きだった。水色の目に星が映ると、夏の海のようだった。
覚えている。こんなに覚えているのに、猫はもういないのだ。なぜだか自然にわかった。いつからか猫はいて、いつのまにかいなくなった。まるで忘れてしまったように、猫はいなくなった。
「どうして忘れたのかしら」
「俺にもわからないな。でも、猫のほかにも好きなものはあるだろ」
ない、と言おうとすると背中のリュックが暴れた。右へ左へ跳ね、ついに中から足ふきマットが飛び出した。
「ぼくはミウが好き! この男の人はミウを助けてくれた人だよね。だから好き。猫も好きだから、ミウが探したいなら探すよ。どうする?」
ミウはまばたきを繰り返した。足ふきマットがそんなふうに考えているなんて、思ってもみなかった。
「私もあなたが好き。踏み心地がいいから」
「本当? ありがとう。ぼくもミウが好き」
「うん。何度も聞いた」
オルゴールのような音楽が流れ始める。十時、開店の合図だ。赤いジャージの男はワゴンを動かし、自動扉の前に立った。
「買い物してくか? 俺は一番奥の店にいるよ」
「ううん、今日は帰る」
「猫、見つかるといいな」
ミウは足ふきマットをくるくると巻き、小脇に抱えて帰った。途中、電気屋の店頭に置かれたテレビでお天気お兄さんが叫んでいた。
「今日は風が吹きます! とても吹きます! 布団を干したベランダや窓を開けたオフィスで特に吹きます! どうしようもなく吹きます!」
ミウは足ふきマットをしっかり抱えた。あの人も好きだよ、と足ふきマットは言った。
「あの人もミウを助けてくれたもんね」
「そうだっけ」
「そうだよ」
この足ふきマットは本当に物知りなのかしら、とミウは思う。それでも、ミウが覚えていないことを覚えていてくれるのは有難かった。
紫のパンジーを見て、最後に少しだけ猫のことを思った。猫もミウを覚えている。もういないとしても、きっと覚えている。