96.神謡
ヤイェユカラ(神の歌)がシカルンテを連れて湖に舟を漕ぎ出す。
陸から見送った。
湖に美しい歌声が静かに響く。その反響音なのか、何かが邪魔して翻訳機能は働かない。ただただ美しい歌声が美しい景色に溶け込むように響いている。
水面の下にはこの湖に封じられた美しい魚が翻るのが見えた。
釣りをする気満々で来たのだが、そんな気持ちも吹き飛ぶ神聖さだった。
夕日が沈むころシベの歌を授けてもらったシカルンテが戻ってきた。ふらふら疲れているようだったが表情は明るかった。
ヤイェユカラのもとに数人の男たちがやってきて神謡の準備ができたことを伝えている。
「オホシリ様、神の歌はとても力が強く頭が壊れそうになります。気を強く持たないととてもつらいですよ。」
シカルンテが言ってきた。
「シカルンテ、オホシリカム様は大丈夫ですよ。最後の神謡を聞くために、この時、ここにいらしたのですから。」
「最後の神謡?」
「はい、これが正式に情報を伝えることができる最後の神謡です。もう、これを継げるものがいないのです。シカルンテに授けたシベの歌ぐらいでも、継げる容量を持つ者はコロポックルの半分もいません。まして、その数万倍の情報量を継げるものが最低16人いないと正式の神謡にはなりません。形ばかりの神謡は続けられるでしょうが、中身は大きく減るでしょう」
いったい、どこまでの過去の情報なのだろうか?
「さぁ、準備ができました。オホシリカム様こちらへ。」
大きな樹の下に大勢の人々が集まっている。
ヤイェユカラが近づくと、人垣が割れて、その中央が丸く空いている。
人垣の内側には輪になって15人の老人、若者、子供、性別も男女ともいる。
ヤイェユカラが大木側に座って16人の輪ができた。
俺はその中央に座らされた。
もう暗くなっているが、16人の外側の人垣の中には松明を持っている者がいて、輪の中心まで照らされている。
「オホシリカム様、はじめます。リラックスして拒まないように聞いてください。」
俺はうなずいた。
最初は静かにヤイェユカラが歌いだした。最初は普通の歌だったが、急に俺の頭の中は、ちょうど俺がこの時代?世界?に転生した時と同じように高速に何かの映像が流れている。
自分の腕が毛むくじゃらで虫を食べている。仲間もまるでチンパンジーかオランウータンのような姿をしている。はじめて道具を使ったときのこと。はじめて鳴き声で意思を伝えたときのこと、道具も様々、道具で生き物を殺したとき、16人の歌い手は一人、また一人と増えていく。増えるにしたがって、だんだんスピードが増していく。火にはじめて触れたとき、火をはじめて起こしたとき、言葉で人を傷つけたとき・・・。大地震、嵐、火山噴火、戦争、大移動。この辺りからはもう光のように映像が飛び込んでくる感じで、強烈な頭痛と吐き気がしてきた。事象だけじゃない、その時の人間の気持ちまでもが流れ込んでくる。
それだけ速く進んでいるにも関わらず永遠に続くんじゃないかと思えるほど詳細に情報が飛び込んでくる。
眼から見える景色はヤイェユカラ16人の歌い手が、体を揺らしながら、手で何かを描くように踊り、歌い続けている。でも頭の中には映像を伴うような、まるで夢のようなものが強制的に割り込んでくる。
ふと気が付くと、ヤイェユカラが最後の歌を歌っている。
木々の間の闇夜はもう終わり、白み始めている。
伝える使命を無事終えた感謝を神に向けて歌っている。
歌の向けられた方向が俺から神へと変わったからだろうが、俺は急に解放されたような感じなって、気を失った。




