28.突然
温泉で賑やかに交易人たちと一夜を明かした。
ウコ・アプカシ(往来する)達交易人は途中の集落の何か所かに寄ってから、俺たちの塔の集落へ向かうそうだ。温泉を出てすぐのところで別れた。
彼らと別れてすぐに左手、西側に大きな山が見える。俺のいた現世なら岩木山だが、きれいな富士山型の山だった。現世の岩木山はちょうど漢字の山の字と同じように山頂が3つある。僅かに山頂の火口に小山が見えて盛んに噴煙か水蒸気をあげている。グレー色で上空に行っても消えずに横にたなびいているところからすると水蒸気ではなくて火山灰をともなう噴煙のような気がする。この山はまだまだ噴火活動を続けるだろう。
弘前のあるあたりは岩木川の氾濫原で深い河畔林が広がっている。リンゴなんてものはない。もしあったら異世界確定なのに・・・。最近、異世界であってほしい欲求が強くなってきた。
さて、現世で東北自動車道があったあたり、ようするに東側の山際に道が通っている。理由は河川の氾濫に巻き込まれないため、やや高い場所を道が通っているのだが、集落もほとんどが小高い丘の上や、河岸段丘のような一段高い場所の端のほうにあるようだ。
アシリ・ウパシ(新しい雪)によると、この平野の北のほうに森林地帯があり、そこに深緑の王とよばれる人たちが高い塔を築き暮らしているという。いずれは行ってみたいところだ。
旅は順調だ。途中の渡河も問題なく済んだ。集落までの残りの距離は温泉を出てから少なくとも残り60kmはあるはずだ。今日は30km以上は進んで泊まりたいところだ。現世の浪岡のあたりの集落で世話になることにした。塔の集落からほど近いのでかなり友好的な集落で食事も振舞ってくれた。
翌朝早めに出発して、少しでも近道をしようと、大きな道ではなくて間道を使うことにした。残りは20km前後。大きな道は現世では国道7号線で、間道のほうは青森空港のあたりを経由してまっすぐ三内丸山方面へ抜ける道だ。近いとは言っても違いは2kmか3km程度の差だろう。最初は登りがあるが一度登りきるとあとはほとんど下りになるし、登り切ったあたりで、この旅の初日に通った南八甲田に抜ける道と合流する。
この道は間道とはいっても比較的ひらけている場所が多かったが、最後の登りの辺り、道が合流する手前2,3kmの辺りだけは深い森になっていた。
その南八甲田に抜ける道に合流する少し手前で出会いたくないもの遭遇した。
アシリ・ウパシが急に立ち止まった。
俺もこの時一瞬だが嫌な臭いを感じた。
アシリウパシの娘のアシリ・クル(新しい人)も立ち止まり肩にかけていた弓を構えて、矢筒の矢に手を伸ばそうとしている。
俺も黒曜石の槍を強く握りなおした。
バキバキという細い枝や雑木の折れる音が真横から聞こえたと思った瞬間、真っ黒な塊が突進してきた。
それは大きなツキノワグマのようだった。でも俺の知っているツキノワグマよりだいぶ大きい。昔、北海道のクマ牧場で見たヒグマと同じくらいある。それが真横から飛び出して不意を突かれたかっこうだった。
熊が狙ったのは俺のすぐ前を歩いていたカンチュマリだった。
カンチュマリの直前まで突進すると、そこで仁王立ちになった。熊は獲物を襲う時に一度立ち上がることがある。このあとの熊の前足、鋭い爪をもった手による一撃が恐ろしいのだ。一瞬で顔や首をやられてしまう。
俺は無我夢中で黒曜石の槍を立ち上がった熊めがけて突き上げた。
冷静に考えると、黒曜石のナイフがついた槍とはいえ、熊の厚い皮膚と胸の肉や骨を貫通するほどの威力があるとは思えない。浅い攻撃だったと思うが、それでもひるんだ熊は立ち上がったままの前足による一撃を諦め、前のめりに四つん這いに戻ろうとした。俺は厚い皮膚と肉のせいか抜けにくくなった槍から手を放してしまった。ただ、そのおかげで、槍は熊に突き刺さったまま地面とぶつかり熊の自重でずぶりと深く突き刺さった。
俺は放心状態だった。
アシリウパシ「オホシリ様、お見事です。熊と1対1で対峙されて戦士の一撃で仕留められるとは」
あとで聞いた話だが、戦士の一撃とは熊が攻撃のため立ち上がる瞬間を狙い、槍を突き立て仕留める方法で、極めて稀な仕留め方なのだそうだ。普通は冬の山に入り、冬眠中の熊を探し、巣穴を急襲して周囲から共同で仕留めることが多く。もしくは、丸太を使った罠や木の上に追いつめて矢を射かけて落ちたところに槍で仕留めたりする。いずれ、そんな猟の際に追いつめなどに失敗して熊が反撃してきたところで、猟師が戦士の一撃を試みて成功することがあるかどうかというレベルのことらしい。
アシリウパシ「オホシリ様、ここはもう集落に近いので、私が走って集落に知らせてまいります。ルェケムクル(皮の針の人)は熊の毛皮も扱えますし、解体もできますので、こちらでお待ちください」
そう言って走り去った。
集落まではまだ10kmぐらいあると思うが・・・。
ルェケムクルはこの旅では目立たない存在だったが、俺にとっても、他のメンバーにとっても一番重要だった。俺たちは彼の作った獣の皮の靴を履いていた。加えて靴底は草で編んだワラジで山登りや火山灰でダメになるたびに新しいものと交換してくれたし、皮に限らず温泉で洗濯す時も率先して皆の分までやってくれた。荷物も人一倍もってくれた。そして、彼は今から仕留めた熊の処理をしてくれるという。
ルェケムクル「この季節の熊は臭いがきつく食べるのにはあまり向きませんが、それでも食料だけでなく様々利用できますから余すとこなく使いましょう。特に一突きで仕留めていますから良い皮がとれますよ」
そういって黒曜石のナイフで手際よく熊を処理していく。まずは皮をきれいに剥いで、内臓、とりわけ通称熊の胆といわれる熊の胆嚢などをより分けていく。熊の皮下脂肪の熊脂などは現世でも貴重な部位だったが、縄文でも重要な部分のようだ。
俺は田舎暮らしで何度か熊や鹿の解体を見ているので、こんな時も卒倒せずに済んで体面を保つことができた。もちろん女性のカンチュマリやアシリ・クルも全く動じず、ルェケムクルを手伝って、近くのフキの葉っぱを集めて、切り分けた部位を包んでいる。
3時間ばかり経っただろうか?
アシリウパシが集落のもの数人を連れて戻ってきた。
皆で手分けして解体した熊を背負子に入れて運んだ。
そのころには熊のきつい臭いもなぜか気にならなくなっていた。




