178.セイシュ
この集落は労働者を集めてヤマトの各地域に振り分けるのが専門のようだ。
これといった農地も生産施設も見当たらない。高床式の囷や地下埋設式の窖があるが、ごったがえす人の多さに比べて少ないように見える。これらの備蓄は非常時用だろうか。とりあえず、もう夕方なので適当に労働者用の三角屋根の長屋のような建物に向かう。
「オホシリ様ではないですか?」
建物の入り口にさしかかろうとしたときにいきなり声をかけられた。
「やっぱりそうだ。こんなところでどうされたのですか?」
声をかけてきたのは何度か交易で会ったことのある若者だった。
「ああ、ミホロ・ケノコト(御母衣・毛の事)のミヨシさんじゃないですか」
ミホロはたぶん今の岐阜県御母衣ダムの辺りだと思う。実は現世のころは行ったことがあるけど、転生後は行ったことがない。うちで使う海沿いの交易路からだいぶ外れて山のほうと聞いていたし、現世のころ車でいいってもそれなりの山奥だった記憶があるのでわざわざ交易路から外れて行こうとは思わなかった。そういえば現世のころ御母衣や能登というのはアイヌ語由来ではないかというのをネットで見た覚えがある。
ケノコト(毛の事)はもともとは北方の狩猟系集落の人々が先の大神殿造営の時に出稼ぎに出てきたときに倭語で定着した出稼ぎ者の呼び方だ。その後も北方まで戻らず山のほうで狩猟を行う傍ら、米作系集落へ来て毛皮や干した獣肉で交易をおこなう集団になっていたはずだった。
彼はケノコトの人々の中でかなり倭語が達者だったので交易でよく会っていたのだ。
あわてて肩を抱いて周りに気取られないように誘う。
「夕餉がまだなら一緒にどうですか?」
「はあ、いいですよ。でもほんとどうされたんですか?」
「まあまあ、食べながらでも」
「じゃちょっと待ってください。いいもの持って行きますから。」
ミヨシは小走りに長屋の中に入って行って小さなヒョウタンを抱えて出てきた。
「ミヨシさん、実は今後の交易上いろいろ知りたいことがあって名前を伏せてこちらに来たんですよ。こちらではオホドと呼んでください。」
基本的には同じ北方系の人なのである程度は正直に話す。
「そうだったんですか。確かにここ数年で交易もだいぶ様変わりしましたからね。うちらも直接商品を交換することはほとんどなくなりましたよ。」
「えっ!?狩猟はもうやってないんですか?」
「ええ、ミホロの郷ではもうほとんどやってないです。長老が若者に教えるくらいです。ミホロ周辺は山が険しすぎて獣が北の地ほど豊かではありませんし、効率が悪いので」
「どいういうことでしょう?」
「実は、オホシリさま、あっ、いやオホドさんの大神殿造営時のことにヒントを得て、出稼ぎをすることになったんですよ。」
話を聞くと当初は普通に山で獲った獲物を干し肉や塩蔵、毛皮などに加工してから米作集落へ行って交易していたという。ただ、山のほうでは獣が少なくなる一方で米作集落が激増して狩猟系集落が激減、イノシシやシカなどが畑や収穫物を荒らす地域が増えてきたという。同時に米作集落では米作に時間を取られて狩猟もままならず、獣がとれても適切に加工処理ができないということが増えてきたらしい。なので、直接集落へ出向いて周辺の害獣を獲ったり、その肉や毛皮を加工したりすることで米を得て生計を立てているらしい。
「今ではエミシと呼ばれています。」
アラエミシは北方の荒ぶる民族をいうが、エミシは多少侮蔑的な意味合いがあるのではと心配になる。
「それで、問題とかはないですか?」
「ええ、各集落に重宝がられて引っ張りだこです。今回もここのヤマトの裏山でイノシシ退治を依頼されてきてたんですよ。で、これはその報酬です。一口どうぞ。」
おそらく仏教が入ってくるまでは、俺が思うほどの差別的なことは起きてはいないかと思うけど、少し先が心配になって顔を顰めながら差し出されたヒョウタンに口をつける。
「あっ、酒じゃないですか」
「そうです、米で作られた上等な酒です。普段北で飲む酒や米作集落の酒とも違うでしょ。」
ヒョウタンに入っていた酒は清酒だ。
この時代になるまで酒は確かにあった。多くはヤマブドウやサルナシ、野生のイチゴのようなものなどを発酵させたもの、そして稗や粟などの雑穀、米も陸稲や最近では水稲でも酒が造られるが、どれも濁っていたり、中にはペースト状のものまであった。実は過去に自分でも作ったことはあるけど歴史や文化に影響を与えるかもしれないと自重していたものだった。サラリとした飲み口で一瞬だったが現世を思い出して驚いてしまった。
「セイシュというらいいです。ここ最近は稼ぎがいいんで米以外にも交換したりするんですが、今の一番人気は酒です。その中でもこのセイシュはイノシシ5頭または鹿5頭分でヒョウタン1個分しか交換できない上等品なんですぜ。なんでも、ここじゃ集落長ですら年に1、2度しか飲めないらしいです。アマテラス様は毎日飲まれるらしいけど。いまじゃエミシの間じゃ、これに交換するのが流行なんですぜ。」
ミヨシさんはヒョウタンの酒をぐいと飲んでから自慢げに話すが、口調がだんだん素が出てきているようだった。
まあ確かに一般的な濁り酒なら普通の米と大きく価値は変わらないだろうけど、この時代にこの飲み口だと人気が出るのも頷ける。特に北方系民族はコロポックル、アイヌ、縄文アイヌ含めてみんな酒が好きだったが、酒に固形物が含んでいる分、腹がいっぱいになるのも早くて酩酊するまで飲むことはあまりなかった。まれに発酵がうまくいきすぎてということはあったが。
ミヨシさんはそのほかこの周辺地域を転々と出稼ぎ?委託?狩猟生活をして生活しているようで、各地の情報を細かく饒舌に語ってくれた。
一時は身バレするかと心配になったが、彼が酔っ払っても俺の本名を言わなかったことと、すっかり素が出てタメ口になったかげで、俺も久々に気持ちよく酔うことができた。
すっかり夜も深けて周りの人も少なくなったので、彼と肩を組みながら長屋の中に入って適当に空いているところに彼を寝せて、おれもそのまま横になった。
これからの潜入調査にいろいろ役立つ情報も多くあったのでこの再会に感謝しながら眠りについた。