172.神託
俺は集落に神託を残すことにした。
これは留守の際に不測の事態が起きた時の対処を残していくものだ。
この時代、この北の大地の文化に文字はない。文字のかわりになる伝達手段はあるにはあるのだが。土偶もその一つだし、小型のストーンサークルやウッドサークル、均した地面に絵文字を描く方法など。
巨大な建物であるこのイキの集落の中心には巨大な囲炉裏のようなものあり、冬期間はここで大きな火が焚かれる。その中心部の囲炉裏から十字に列柱室が伸びている。その列柱室の廊下の中央に枠を置いて灰を敷いて均一にならす。灰だけだと柔らかすぎるので若干の湿った砂も混ぜてその上に文字を描く。
描く文字はアルファベットを使ったローマ字だ。
それも、かなり簡易版だ。
縄文アイヌ語には濁音は少ない。ないわけではないが、方言の一つとして許容される範囲だ。だから50音分の対応した表をAKSTNHMYRWにAIUEOだけの表を作る。つまり14文字だけで書いていくわけだが、呪術師と長達、その子供たちを集めてこれの読みかただけを覚えさせる。
これは神聖な文字なので口から発する言葉と同じように一度使われたら神のもとへ戻さなければいけないと教えてある。だからこの列柱室の灰の上以外に描いてはならないと言ってある。
もともと、永遠性よりも循環性を重要視している文化なのでその点は心配なく守ってくれている。
長期に出かけるときは、この灰の上に、様々なことが起きた際の対処を書いて残していくのだ。
今回は十字の列柱室すべての廊下にこれを設置した。
交易品の交換比率の変化や難民が来た際の対応などのうち最悪の状態のことを中心に書いていく。通常残された長老や交易担当者で対応できるレベルのことはあれこれ書きはせず口頭で指示していく。
口頭ですべて指示してもいいが、一人の人間が覚えられることは限度があるし、大人数では仮に同じことを聞いても聞き手の受け取り方で、異なる行動をとることも考えられる。特に今まで経験したことないような緊急事態でパニックを起こすのは避けなければならない。もっとも重要な点と、あくまでも最悪の事態だけを想定したものを書いていく。
長達は驚愕している、呪術師たちも書かれていく言葉に目を見開いている。子供たちはおびえているようだった。
ちなみに自然災害に関して過去の大地震、津波、火山噴火、雷、火災、洪水などは訓練済みだ。だから俺がいてもいなくても同じ対処が可能だろう。
「こうならないように、私はこれから西に向かうのだから心配はいらないよ。それに今まで経験して訓練してきた大いなる神々の蠢き(自然災害)と比べたらたいしたことではない。人の手によって引き起こされるものだから、人の手だけで解決可能だ。」
皆、顔を見合わせて、頷いている。
「交易品の取引が前回と同じレベルになったら安心だから、そうなったら、この灰の文字はすべて消してもかまわない。それと、いつも通り、これ以降、この文字を消すまでの間、集落民以外にこれを見せてはいけないよ。」
長老たちは納得したように大きく頷いて集落の安泰を誓ってくれた。