155.再び西へ
「オオキミ様、子供ができました。」
夕飯時にヤエから話しがあった。
「ありがとう。これからは、とにかく風邪をひいたりしないように、そして無理をしないような。」
今まで、結婚した際は出かけないか、相手と一緒にというのが普通だったが、今回は戦争に巻き込まれるかもしれないし、まして子供ができたというならば置いて行くしかない。
アマテラスこと転生者の天野の言うことを無視してもよいのだが、なんとなくそうしてはならない気がする。
子供ができていなければ俺が西に行くついでに、おそらく戦場にはならない出雲の大国主神さまのところぐらいまでなら一緒に行って里帰りで休ませようかとも思っていたが。
「ヤエ、申し訳ない。またしばらく留守にする。でも、子供が生まれるまでは一緒にいられる。せめてその期間だけでも我が儘を言って甘えてくれ。そうしてもらわないと、安心して出かけられないから」
集落運営は孫のヒナに任せて、俺はヤエと生まれてくる子供のためにできることをやった。
やがて男児を出産した。
イキ、意味は岩城と名付けた。
集落名と同じだ。
出雲との友好で集落に名前を付けることになり、以前はイ・キ・ノ・キミが治めた集落なのでイキ(岩城)と名付けた。
この子の代からイキ(岩城)がよく名前に付けられるようになった。一種の苗字のような使われ方になっていった。
5年をイキ(岩城)の集落で過ごして、再び東征軍の駐留する西日本の安芸まで行く。その途中で出雲に立ち寄り巨大神殿の工事の進捗を確認する。
神殿は最上部の柱を継ぎ終わったところだった。
あとは千木や鰹木をあしらった屋根を作って内装工事を進めて、前のほうに階段を建設すれば完成だ。当初はスロープにしようと考えたが、スロープでは雨天時に滑って危ない。俺も昔、塔の集落時代に雨の日にスロープで転んで下に転げ落ちたことがある。
階段の基礎の柱は、すでに高いほうから途中まで作った。神殿の安定性を増すためと、あとから本殿と同じ高さを継ぐのは大変なので、高い位置の階段の柱は本殿建設時に立てることにしたのだ。
たたら製鉄の現場でも集落出身の若手が修行している。
彼らに声をかけて、北の産物を土産として渡して激励して、東征軍の駐留しているアキ(安芸)に向かう。
「サルタヒコ様、ご指示の通り、土器含め生活様式は全てこちらの地域と同じようにしております。」
アメノトリフネ改めカムヤマトイワレビコに留守中の動きの報告を受けた。
郷に入らば、郷に従えだが、土質や環境が異なってくるし、地元との無用な軋轢は避けたい。九州の文化をそのまま持ち込むのではなくて、溶け込むように東征を進めていく計画だ。
戦闘はアマテラスの子供たちの天孫たちの直属とだけするようにして、この東征が瀬戸内や畿内の元々の人々に決して不利益がないと思わせる必要もある。
それに、現世では神武天皇、そして神武東征の証拠などもなく、実在は疑われている事案だ。
東征は説によっては卑弥呼の時代からはじまるというのもある。
なるべく、東征の証拠を残したくないという思いもあった。
次の東征軍の進む先はキビ(吉備)岡山県だ。
「イワレビコ殿、次はキビに向かいます。ここでの噂は広まっており、キビでは問題なく受け入れてくれるでしょう。」
アキで7年も駐留したのは、東征軍が地元住民に不利益にならないどころか、様々な物品を特に余剰なコメの交換でもたらしてくれることで高評価を得ている。その噂を少し先のキビ(吉備)岡山県まで伝播するのを待った結果だ。
大軍というか集落大移動なので、コメは糧秣として必須だ。それを略奪ではなくて交易手法で手に入れていく。よほどの凶作や風水害でも起こらない限り、コメは大規模集落ほどだぶつているので入手は簡単だ。
ここまでは多くの大規模集落で歓迎してくれた。大規模集落というよりは国家といえるかもしれない。
キビにおいても同様の手法をとるつもりだが、キビより東方、畿内に近くなれば天孫たちの軍と衝突する可能性も高くなる。
畿内に入る直前辺りで軍の兵士の鍛錬や軍船の整備を終えておきたいのだ。
ここではあまり時間をかけると天孫たちの反撃も考えられるので、3年をめどに宣撫と軍備の再編成と鍛錬、整備を行う予定だ。
軍船の再構築も必要になる。
3年は戻るには面倒な期間だが、幼子を残してきているのでキビに到着したら急ぎ戻った。この年齢の子供の成長は早いのだ。できるだけ一緒にいる時間を作りたいのだ。