153.国家と権力の産声
ここで、生まれ始めた国家と権力というものを考えてみよう。
縄文時代、すでに西暦80年ということは、時代区分としてはもう弥生時代後期なのだが、東北、北海道ではまだ縄文文化が色濃く残っている。確かに栽培植物も多く入ってきているが、米のように手間がかかりながらも、収量が多いものはまだ入ってきていない。というより、北方ではまだ稲は栽培可能な植物ではない。おかげで、専門職というか生業というものがない。このことから、東北、北海道はまだ縄文時代ということもできる。そして、生業がないということは、国家や権力の生まれと大きなかかわりがある。
少し話を変えるが、縄文集落でも俺や巫女、呪術師など貢物や供物のもらえる立場の人間や、様々な取りまとめをする長老という立場はある。これらの立場は強い権力があるわけではないし、専門職というわけではない。俺ぐらいの神としている存在でも貢物、供物で贅沢ができたり、神の名前で絶対的な権力を振るうことはできない。他の人より多少楽ではあるが、神としての仕事をこなす分、自分の狩猟・採集の時間が割かれる。
呪術師に至っては自然暦の予測を誤ると全く供物があがらなくなるので、呪術師という職にだけ頼ると死活問題になることもある。やはり、それぞれ自分の狩猟・採集も行う。
長老格も同様で交易での失敗などのリスクと、貢物や交易の利益を比べてもけっして楽な仕事ではない。
なので、皆、公共の仕事よりも自分や家族の狩猟・採集を優先させたがる。だから、縄文中期までの交易は長距離は行わない。遠くてせいぜい200km程度。その繰り返しによる中継でより遠くのものが手に入る。交易人は狩猟・採集の少ない盛夏を中心に1か月以内で交易可能な範囲までしか出かけない。
なので、1年中専門にひとつの職に就き続けるということは縄文時代にはない考えだ。俺も、途中で専門職化は何度か考えたことがある。交易や土器に関して専門化すればもっと効率が良くなると思ったからだ。ただ、そうしなかったのは専門職化は大きな危険がはらんでいると感じたからだ。
専門職、つまり生業として職業を固定化することは、集落経営がより複雑、そして安定が難しくなり、リスクマネジメントの負担が大きくなる。貨幣やそれに代わる商品作物がなかったというのも、安定化を妨げる要因なのだが、その調整に権力、果ては武力が必要になるからだ。
コメを例に考えてみよう。
稲は確かに栽培植物としては優秀な収量が得られる。一方で、その栽培はただ種を蒔いておけばいいというものではない。まずは水田の整備が必要だ。水路を引く、水田を開墾する、排水路や洪水対策など大規模な土木工事が必要なこともある。それらに従事させるために集落民総出で、しかも長期にわたってその仕事に拘束される。いざ稲を植えてもその手間は雑穀などより厄介だ。収穫後の脱穀や精米なども手間がかかる。栽培に従事する者も、ほとんど稲の栽培に専従させられるだろう。
それらの監督にはその決定に従わせるためのより強い権力が生じる。
なんせ、縄文時代の一時的な公的な仕事と違って、1年とか場合によっては働けるようになって動けなくなるまでの一生を専門職に縛るのだから、その対価ももちろん必要だが、それに従わせるための力が権力なのだ。
うまくいっていれば、それだけでいいのかもしれないが、専門職化はリスクも大きい。米の場合、洪水、冷害、害虫など様々な要因で収量が大きく左右する。それに米だけでは生きていけない。
だから自分の集落で最低限食べられる量だけでなく、それ以上を目指して生産し、専従化つまり生業の対価として食料を与えたうえで、余剰を交易で他の必要なものに交換する。そのため耕地面積は拡大し続けるし、土木工事はより大規模になり増加する。それにより、さらに専従させる期間や人の数も増やしていく必要がある。その繰り返しで縄文時代は多かった中小集落が、弥生時代に入ると雪だるま式に大規模集落へとなっていく。
耕地面積が増えると収量が上がるが、この時代の西日本では急速に稲の栽培は増加した。そのせいで飢えることはないが余剰分のコメの他の物品との交換比率は低下した。デフレの状態になってきた。
より耕地面積を増やそうとすると稲の栽培に適した場所の争いが生じるようになってきた。最初は小競り合い程度だったが、青銅の武器が登場すると事態は大きく変わった。戦争がはじまったのだ。
戦争も勝つためには戦闘に長けたもの、戦略、戦術に長けたものなど、兵士全部ではないが一部の軍務は専従でやらせたほうが有利な戦いができる。
一方で、近場の稲栽培の耕地の争いのみで戦争の準備や一部とはいえ兵士や将校に準ずる役職として専従化させることは無駄が多すぎる。余剰なコメの交換は武器や専従化に伴う対価に使われるようになるが、これは不作の時には戦争でコメや耕地を略奪するほかない状況を生み出した。
大陸から近く早くに稲の栽培が伝わった地域ではそのため2重3重の環濠を持つ巨大集落ができたり、集落連合による軍の創設や遠征が行われるようになってきた。
ただ、まだ行政機構ができあがっているわけではない。リーダーとなる、この時代でいうところの集落の首長、長老、巫女、呪術師などは個人的な資質で成り立っていた。
なので、先般の国譲りに関しても、大国主神が不要で出て行けという話にはならなかったのだ。あくまでも看板の挿げ替え程度のもので、一定の交易品の献納により、青銅や鉄の有利な取引が可能になる、今でいうと通商連合の傘下に入るということだ。
国権イコール個人の資質の時代だから、国譲りなどがたやすく成されるわけだ。
この時代のリーダーは個人的な資質という意味で、神話の神々として後の世まで語り継がれていったのだろう。
ちなみに交易品の一定の割合の献納は後の世に大嘗祭へと繋がるわけだが、それまでにはまだ紆余曲折がある。
いずれ、まだ国家も権力も戦争も生まれて間もないわけだが、今回の国譲りは平和的に国譲りが行われる最後。神武東征が大規模で本格的な最初の戦争となるのだろう。
よく縄文時代は世界の文明の中でも稀有な平和な時代ということを言われるが、以上のようなことを考えると、古代中国やその他の国でも国権の譲り渡しは古代ほど平和的に行われていたふしがある。
中国においては堯舜の伝説などがそうだろう。
堯が自分の治世が本当に正しいか市井に紛れて出かけたときに聞いたとされる歌がある。
「日出而作
日入而息
鑿井而飲
耕田而食
帝力何有於我哉」
「日の出と共に働き、
日の入と共に休む。
井戸を掘って飲み、
田畑を耕して食う。
帝の力が私に何の関わりがあるというのだろうか。」
この歌を聞いて堯は自分の治世が正しいと感じたそうだ。
その堯も次の舜に禅譲している。舜もこれを固辞しようとしたが、民に請われる形で受け入れたという。
この詩の最後の一文が証拠だろう。要は当時の権力者は民を権力で制御する必要のない社会システム。つまり家族集落、一族集落、氏族単位の集落の多少の違いはあれど、まだ自給自足が主体だったと考えられるからだ。
自給自足だと権力者の力が及ばないほど民は好きに生産に励むことができて嬉しいのだ。
ただ、稲の栽培だけならまだしも、やがてコメが商品作物として流通するようになってくると、その社会システムは一変する。商品としてのコメの生産管理を行う権力者が必要となり、肥大する生産には有限の土地、それを解決する戦争という政治手法。戦争はさらなる生産を必要として、国権の肥大化は進んでいく。国権が大きくなると、それを手放したくない権力者が増えていく。国権を持っているというだけで贅沢な暮らしができ、そして何より巨大な国権はそれだけで、人間の支配欲を刺激して妄執させるのだから。