132.復興
津波の被害のあった他の集落も建て替えラッシュだったが、材料不足と立地場所が水没したために集落の統合や移住したりする集落が増えて一時的に深緑の王国の力は衰退した。一番の原因は舟が流出したことだろう。集落の復旧と舟の製造で人手がとられるのと同時に、やはり食料など自給自足のための狩猟・採集もこなしていかなければならないからだ。
俺はすぐに元居た物見の氏族に支援を要請して、舟の建造をやってもらうことにした。食料についても干物を中心に支援してもらった。
集落建設がはじまってちょうど5年ぐらいで、復興の道は半ばだけど、津波の被害後の混乱と支援に頼った集落運営に目途がついた。火山噴火よりは狩猟・採集地域に大きな被害はなかったのも幸いした。北のモシリ(北海道)のようにサケ・マス類の遡上にももともとあまり頼ってなかったのもよかったかもしれない。サケ・マスは大きな地震の影響で遡上しなくなることがある。東日本大震災でも、その前の奥尻島の地震でもそういった現象が起きた。
また、一斉に大木など材料の大量の切りだしが行われてしまった。樹齢数百年の巨木が惜しげもなく切りだされてしまった。そのため、しばらく建て替えが難しくなりそうだとわかった時点で、設計変更が行われた。
これまで地中に2メートルほど埋め込んで柱を立てていたが、全体の半数近い柱は礎石の上に立てて、交換が可能な設計に変更した。埋め込んでしまうよりは腐食の心配も少なくなるし、なにより柱の交換が楽になる。
建て替えのスパンもこれで長くなる。技術継承も柱交換の時にスロープの建設や柱を立てる工程は新築の場合と同じだから問題ないだろう。
ちなみに、この時代青森ヒバの大森林は平野部にも広がっていたが、切りだしの比較的楽な地域は伐採されて無くなっていた。コロを使って運ぶが、急傾斜地は運ぶのが大変なので、集落より低い土地や山間部にはまだまだたくさんの青森ヒバが茂っていた。深緑の王国も名前の通り、まだまだ青森ヒバの大森林が山のほうには広がっていたが、切りだして運ぶことができず放置されているにすぎない。俺の知識や神謡お知識を使えば、急傾斜地からの切り出しもできそうだが、森林破壊は土砂崩れなど他の災害も呼び込んでしまいそうなのでやらないことにした。
その、木材を運ぶコロだが、最後は屋根の上に乗せる風習がある。神社の鰹木に似ているが、巨木を運んだ功労に報いるという考えもあるようだ。一番最後に乗せる棟木の上に置かれて、見た目は大木を運ぶ時の様子を逆にした感じだ。一番最後は逆になり、どんなものも巡るという円環思想にもつながるともいえるかもしれない。
神社の鰹木は棟木を押さえる木が装飾化したものと聞いていたので、それとは違う系統のものだろう。
この巨大建造物の見た目は集落というよりは大神殿のような建造物だ。
大神殿と違うのは集落民全員がこのなかで暮らしていることだ。
夏場の日中は狩猟・採集で夜しか建物内に戻らないが、冬場はほとんど建物内に籠りきる。建物の外に出るのは毎朝のし尿の運び出しと、屋根の雪下ろしぐらいだ。
中は快適で、当初は俺とレラタサの二入では広すぎる割り当てだった。子供たち、孫たちができたころになると、かなり賑やかな所帯じみた空間になっていた。
前の王も亡くなり、俺はそのままオホキミ(オオキミ)と呼ばせて、子や孫に引き続き岩城王の名前を継がせた。
巨大建造物こと集落建物が完成する頃には、地震と津波の影響は感じさせないレベルにまで復興した。交易も順調で沖縄方面の産だと思われるような貝の装飾品まで入ってきた。
俺はまえに居た塔の集落の時もそうだが、ここでも大きな災害に見舞われたとはいえ、かなり裕福な集落に神として迎えられていたことに全く気が付いていなかった。普通、これほど早く復興などできないのだ。
それに気が付くのはさらに1000年以上経ってからのことだったのだが。
やがてレラタサが亡くなり、次の神嫁をどうしようかと議論がはじまったが、以前の通り2,3年の旅に出かけることにした。
この旅で、この地、東北、いや日本全体にこれから途方もない影響を与える事件に巻き込まれようとは思ってもいなかった。