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忌憶の家

作者: 文梧





 木材の爆ぜる音がした。パチパチという音がする度に火の粉がいくつも飛び散り、灰色の煙と共に空へと舞い上がって数秒の内に消えた。真っ黒な煙が暗い夜闇の中へと立ち昇っていく。それでもその様子ははっきりと見て取れた。

 家が燃えている。全体が轟々と燃え盛る炎に包まれ、今にも崩れ落ちそうになっている。炎は木材の柱や壁を炭に変え、周辺の酸素を燃やし尽くしながら、それでも尚弱まることを知らずに燃え続けている。

 その光景を、ただじっと見つめていた。燃えていく家の前に佇みながら、なにをするでもなく、ただ呆然と目の前の光景を瞳に映していた。

 窓ガラスは割れ、そこからも炎が勢いよく吹き出し続けているのがわかった。炎はもう既に家の至る所に燃え移っているのだろう。家の中も火の海と化しているはずだ。

 炎はただ無情に家を燃やし続けた。燃えている家もただ淡々と燃えているだけで、そこには何の情緒も、過去も、感じさせるものはなにひとつとしてなかった。にもかかわらず、家は異様な存在感を放っていた。まるで今この世界に、その家しか存在しないかのように感じられる圧倒的な存在感。

 その存在感に捉われたかのように、ただじっと見つめ続けた。家が崩れ落ちていくのを。火の粉となって飛び散っていくのを。真っ黒な煙となって夜の闇に消えていくのを。

記憶が燃えていくのを。


     *



私は目を覚ますと、自分は今新幹線に揺られている最中なのだということを思い出した。

窓際の席で、窓に頭をくっつけながら眠り込んでしまっていたらしい。眠る前には誰も座っていなかったのだが、いま目をやると右隣のふたつの席はどちらも埋まっていた。ひとつ隣には四十代くらいのスーツ姿の男性が新聞を開いていた。もうひとつ隣では老婦人が右手に杖を持ちながら前屈みになって眠っていた。

 私は左足をゆっくりと下した。下す時に爪先が男性のスーツの脛にぶつかってしまい、私は小さく「すいません」と声をかけた。

 起きてから、私は自分がなぜ新幹線に乗っているのかを思い出して憂鬱な気分になった。

 昨夜、仕事から帰ってきてしばらく経ち、そろそろ寝ようと思っていたときに、長く音信が途絶えていた母から電話があった。

 祖母が亡くなった、と。

 祖母は八十過ぎの高齢だったが、全くといっていいほどの健康体だった。私が六年前に上京してから一度も会っていなかったが、毎年正月には年賀状が贈られてきたし、手紙のやり取りも幾度かあった。それらには必ず写真がついていて、いずれも元気そうな祖母の姿が映っていた。手紙には、今日は隣町まで散歩してきたとか、この間友達と一緒に登山に行ってきたとか、そういった類の内容が書かれていた。

 同年代の誰よりも健康で元気だった祖母が亡くなったと聞いて、信じられない気持だった。祖母はまだまだ長生きすると思っていた。少なくとも、もうすぐ死ぬだろうなんて、考えたこともなかった。

 実際、そのときも急なことだったらしい。母によれば全くそのような兆候は見られなかったのだという。祖母は普段通り夕飯前に風呂に入り、夕飯の後は早めに寝室に入った。母は夕飯の食器を洗い終わった後、台所でテレビを観ていた。テレビを見終わり、畳んだ祖母の洗濯物を起こさないようにこっそりと祖母の部屋に運びにいった。そのとき、様子がおかしいことに気づいたのだという。

 電話でそれを聞いたとき、勿論ショックな気持ちもあったが、しばらくすると少なくとも安らかに逝けたのだと安心する気持ちも湧いてきた。私の実家では幼い頃に祖父が亡くなってからずっと祖母も一緒に暮らしていた。そのため、幼少期の私は祖母に毎日のように遊んでもらっていた。そのことを思い出すと目頭が熱くなるのを感じた。

 電話を貰った後、荷支度を済ませ、朝一番で会社に休暇の連絡を入れ、東京駅から北陸新幹線に乗った。

 窓の外を見ると、眠る前とは大分景色が違っていた。都会の気配はもはや全く感じられず、山や田畑がちらほらと見受けられるようになっていた。

 六年ぶりの帰省に、私なりに思うところもあった。両親、特に母とはほとんど連絡を取っていなかったし、大学一年の盆以来帰っていなかった。そのことの気まずさもあって、帰った後のことを想像して余計に憂鬱になるのだろうと思った。

 もちろん、上京してあまり帰らなくなったことにはほかに理由があるのだ。しかし、なぜか私はその理由をどうしても思い出せなかった。最初のうちはちゃんと帰りたくない理由があって帰りたがらなかったことは覚えている。おそらく、大学生や社会人としての生活に夢中になるうちに、それらに関する記憶は徐々に消えていったのだろう。私の記憶の中で、帰りたくない理由は次第に〝長く帰らなかったことの気まずさ〟へと変わっていったのだ。

 それほど帰りたくなかった理由をなぜ覚えていないのか、私自身も不思議だった。唯一、大学一年で帰省するときは、それほど抵抗は感じなかったように思う。そのときになにか、嫌なことがあったのだろうか。私は考える。

 もしかすると、母と関係があるのではないかと、私は思った。

 上京してから、私と母の折り合いはいいとは言えない。お互いに連絡をとろうとすることはなかったし、一度帰省したときも、ふたりの間で交わした会話はそれほど多くなかったように思う。それに、昨夜の電話のときの母の声。

 そっけない口調だった。ただ淡々と、自分の息子に祖母が死んだ事実を説明していた。明らかに身内の訃報を伝える口調ではなかった。

 実母を亡くしたショックで放心しているのではないかと思ったが、あの口調は私と母の仲に理由があるのではないか。

 私が上京する前に、母との間になにかあったのだろうか。しかしそれさえも、私は思い出すことができなかった。

 いろいろと思い出せないことで、私は今回の帰省に、憂鬱だけでなく不安さえも感じ始めた。だが、祖母の葬儀とあっては帰らないわけにはいかないし、いつまでもわからないままにしておくのは気持ちが悪かった。私が今まで地元に帰ろうとしなかったこと、母との不仲、そのふたつの理由を解明したい気がした。


 新幹線を降り、電車へと乗り換えて、私は目的の駅へと到着した。駅はほとんど無人駅といってもよく、ホームの出口には改札の代わりに、切符を確認する駅員が立っている。

 周辺の風景はもはや完全に田舎である。

 私はロータリーに出ると、丁度そこに止まっていたタクシーに乗り込んだ。この寂れた駅にタクシーが止まっていることは滅多にないのだが、運がよかったらしい。実家までは歩いていけない距離ではないが、長いこと新幹線や電車に乗っていたため、座っていても足が疲れていた。

 私がタクシーの運転手に実家の住所を告げると、タクシーは緩やかに発車しだした。運転手は随分と無口で、車を走らせている間一言も声を掛けてこなかったが、私にはその方が有り難かった。

タクシーの車窓から、私が高校三年の時まで住んでいた町の景色が見える。駅の近くには小さな商店街がある。商店街といっても、八百屋や薬局、駄菓子屋などが五軒並んでいるだけのものである。商店街を抜けると、住宅街になり、次第に家も疎らになり、一面田畑が広がっている。

 それらの景色を眺めながら、私は一度きりの帰省の時の記憶を探っていた。

 あの時、私は確かに帰ることに対する抵抗はなかった。だが、一度きりの帰省の時には母とはもう不仲だったのだ。帰省に対する抵抗の原因は、私が上京する前の出来事に起因しているのではないだろうか。では、一度きりの帰省のとき、私はそれを忘れていたのか。そして、帰省してからそれを思い出したのだろうか。思い出したから、私はそれ以来一度もここへ戻らなかったのだろうか。もし、そうだとしたら、またそれを思い出すだろうか。

 タクシーは狭い畦道を通っていく。そこを抜けると、山の麓に沿って家々が立ち並ぶ道へと出た。その一画にある山へと続く緩やかな坂道に差し掛かった。そこに並んでいる三軒の家屋。一番奥にある大きな家が、私の実家である。タクシーは丁度その前で停車した。

 私はタクシーを降りると家の庭へと入っていった。玄関の両脇に、家紋のついた提灯が下げられていた。

 玄関に近づくにつれて、私は自分の緊張感が高まっていくのを感じた。しかし、今更後戻りはできない。

格子の嵌った玄関の引き戸をゆっくりと開ける。奥の座敷から、数人の話し声が聞こえる。もう既に何人かの親戚が到着しているのだろう。私は奥に何と声を掛けようかと迷った挙句、言葉を発した。

「ただいま」

 六年ぶりに口にするその言葉。

 座敷からの声が止んだ。いくらか間があった。

 奥の座敷の障子がするすると開いた。中から顔を覗かせたのは、母だった。数歩こちらに歩み寄ってから、いま玄関に立っているのが自分の息子であることを確認するかのように、少しの間立ち止まって、また私の方へ歩いてきた。

「おかえりなさい」

 薄暗い中にあった母の顔が、玄関からの外の明かりに照らされてはっきり見えるようになる。少し皺が増え、頬の辺りにしみが出来ていた。頭髪にも幾本か白髪が混じっているのが見える。六年ぶりに会ったのだ。記憶より老けていて当然だろう。

「東京から……大変だったでしょう」

 六年振りに会う息子にかける言葉というよりも、遠くから遊びに来た甥にかける言葉という気がした。

「まあ。でも、座れてたし、そんなに」

「そう……」

 それだけの言葉を交わして沈黙する。その沈黙には、互いに、なにか切り出さなければならないと思っているがなにから切り出せばいいかわからない、と思っていることが読み取れた。母は俯きながら言葉を探していたが、その試みは失敗に終わったようだった。

「とりあえず、叔父さんたち来てるから、みんなに挨拶して。顔見せてやんなさい」

 叔父さんとは、どの叔父さんなのか。私は親戚たちの顔を、ほとんど覚えていなかった。

 母は、私が靴を脱いでいる間に、私の持ってきた、二日分の着替えなどが入ったトランクを上がり框に引き上げながら言った。

「あと、お祖母ちゃんも。奥にいるから」

 座敷に入った私は、テーブルを囲んでいた親戚たちから口々に、「武史君ひさしぶりだねぇ」だの「すっかり大人になって」だの「いい男になったじゃないの」だの声を掛けられた。私の覚えている親戚の顔は、やはりほとんどなかった。私は親戚たちに愛想笑いを振りまきながら、内心うんざりとした気持ちになっていた。こうして偶に親戚たちに会って、口々にお世辞をいわれるのは、子供の頃から苦手だった。

 親戚たちとの挨拶を終えると、彼らに一礼して私は奥の襖へと向かった。

 私は襖の前に立ち、少し躊躇った後、それをゆっくりと開けた。

 できた襖の隙間から、奥の部屋を覗いてみる。真っ暗な部屋の真ん中に、布団が一枚敷かれてある。私はなんとなく見てはならないものを見てしまったような気がして、一瞬目を反らした。

 私は襖を大きく開け、中に足を踏み入れた。恐る恐る、布団の方を見ないようにしながら、そちらへ進んでいく。祖母の遺体を見てしまうことが恐ろしかった。

 私は布団の傍まで来ると、ようやくそちらへ目を向ける。

 祖母が布団に横たわって、目を閉じていた。穏やかな表情で、文字通り寝ているようにしか見えなかった。実際に祖母の遺体を見れば、祖母が死んだという実感を得られるものだと思っていたが駄目だった。頭では祖母はもういないのだと理解できていても、心では信じられなかった。今にも目を開けて、〝武史ちゃん、おかえり〟と微笑んでくれそうな気がするのだ。それが辛かった。

 私はゆっくりと祖母の布団の傍に膝をついた。

 結局、祖母と会ったのは六年前が最後になった。こんなことになるならもっと早く帰ってやればよかった。どうして今までそうしなかったのだろう。理由のわからない帰省への拒絶に、今はただただ後悔だけが私の中にあった。

 私は祖母の穏やかな顔を見ながら、自分の視界が滲んでいくのを感じた。


「あんたの部屋、そのままにしてあるから」

 私の荷物を二階に運んでいた母が、階段を降りながらいった。

「父さんは?」

「お寺。住職さんのところ行ってる」

 母は相変わらず私と目を合わせないままいった。荷物を運んだついでに着替えたらしく、喪服姿になっている。母は階段を降りながら真珠のネックレスを首につけた。

「もうすぐ、ほかの人たちも来るから。あんたも着替えといて」

 どうやら座敷にいる親戚たちは祖母の死を聞いていち早く駆け付けたらしい。私は「うん」と返事をして二階へ上がった。

 私の部屋は本当に、私が最後に部屋を出たときのままになっていた。小学校から高校の時まで使っていた勉強机、夢中になってはすぐに飽きたCDやカセットゲーム、高校のときに少し齧ったギターがあった。ある日、友人たちの前で曲を弾いてみせたことがあるのを覚えている。彼には秘密だったが、私が弾けたのはその一曲だけだった。

 喪服に着替えて一階へと降りると、祖母の遺体の納棺を手伝った。祖母の身体を拭き、経帷子を着せている間、なんども祖母の冷たい身体に触れ、ゾッとした。ようやく、この遺体はもう祖母ではないのだと理解できるようになってきていた。

 帰ってきた父と再会し、会場となる奥の部屋の設営など、すべての準備を終えた。それから続々と、親戚たち、近所の人々、祖母の友人たちがやってきた。私は玄関先で弔問客たちに芳名してもらっていたが、やはり、色々な人に声を掛けられた。

「武史?」

 今まで年配の人たちばかりに声を掛けられていたため、突然若い声に呼ばれ驚いて顔をあげた。

「やっぱり武史だ。久しぶりだなぁ」

 声の主は、私と同い年ぐらいの男だった。私ははっと思い出す。

「祐二か?」

「ああ、そうだよ」

 祐二は顔をほころばせる。

 祐二は父方の従兄弟であると同時に、隣町に住んでおり中学高校と一緒だったため仲が良かった。ほかの親戚とは違ってよく覚えている。帰ってきてから初めて同い年の友人に会ったため、私は嬉しくなった。

「本当に久しぶりだな。高校卒業以来だから、七年振りか」

「そうだな。どうだ、東京の生活は?」

「なかなか充実してるよ」

 あとでまたゆっくり話そうと言い合うと、祐二は家の中へ入っていった。

 住職が来て、通夜が始まった。会場の部屋は、喪服を着た弔問客でいっぱいになった。前の方に、私は両親と共に並んで座っていた。住職が読経を読み上げる間、母はハンカチを眼に押し当てていた。化粧でごまかしているが、昨夜もかなり泣いたのかもしれない。

 読経が終わると、身内である私たちから順に焼香をあげた。私の番になったとき、私は棺桶の小さな窓から覗いている祖母の顔にそっと触れた。やはり冷たかった。皮膚の感触がゴムのようだった。これは祖母ではないなにかなのだ。では、祖母はどこへ行ってしまったのだろう。

 私はふっと顔をあげた。遺影の祖母と目が合った。


 通夜の後はちょっとした会食があった。私は祐二と互いの近況を報告し合った。祐二は地元の大学の教育学部に進学し、県内の中学校で教師をしているらしい。

 会食が終わり、弔問客たちがぞろぞろと帰っていった。祐二が家族と共に帰ると、私は残っている親戚たちの話に混ざる気にはなれず、祖母の部屋へと入った。

 部屋の真ん中で仰向けに寝転がっていると、部屋の襖が開いた。そちらに目をやると、父が立っていた。

「ここにいたのか」

「うん」

 父は部屋の中に入って来ると、私の傍にどっかりと座った。沈黙が続いたが、母のときとは違って気まずくはなかった。父は元々無口な方だった。

「……天井」

「うん?」

 呟く声に父が聞き返す。

「天井、覚えてる」

「ああ」父は私の視線の先――天井に目を向けながら相槌を打った。「子供のときは、よくここにきてお祖母ちゃんと一緒に寝てたからな」いって、父はわずかに目を細めた。「あんな小僧だったのに、早いもんだ」

 いわれて、私は自分の子供時代を思い出す。幼い頃は、母とも別段仲が悪いということはなかった。母は昔から世間体を気にする人で、〝息子になにも習わせてないのは恥ずかしいから〟という理由で、様々な習い事をさせたがった。塾にそろばん教室、習字、水泳……どれも長続きせず、すぐにやめてしまった。その度に母は躍起になってなにか新しいことをさせようとした。私は母のそんな面が好きではなかった。

 だが、それでもあの頃は、ごく普通の親子関係が成り立っていたように思う。母が息子の成長に、ごく一般的な家庭の親と同じく興味を持っていた。しかし、今ではまったくそんな風に感じられない。私が今勤めている会社さえ知らないのではないだろうか。

 いつからこうなったのだろう。高校受験のときは、母にいろいろうるさくいわれていたように思う。では、自分と母の関係が悪くなったのは、高校に入った後なのだろうか。

 結局、母にはなにも聞けていない。それどころか、普通の会話さえ躊躇われる。もし聞いたらどんな返答がくるのか、それがなんとなく怖いのだ。自分が帰省しなかった理由も思い出せていない。戻ってきていいこともあったが、今のところは後悔の方が強かった。

「母さん、俺のこと怒ってるのかな」ポツリとそう漏らした。

「どうして」父は聞き返した。しかし、反応を見るに、私と母の不仲については、やはり少なからず察しているようだった。

「始めは、ずっと長い間帰って来ないし、連絡もよこさなかったことを怒ってるのかと思ったんだ。でも、違うみたいでさ。自分でもなぜなのかわからないんだよな。父さん、なにか聞いてない?」

 父は考えるように唸ってからいった。

「母さんからはなにも聞いてないけどな」

 口数の少ない父は、普段の母との会話も少ないのだ。

「思うに、俺が高校のときになにかあったんじゃないかな」

「高校?」

 私の言葉に、父が反応を示した。

「そういえば、お前高校のときに、引き籠ってた時期があったな」

「え?」

 私は思わず眉を顰める。自分が引き籠っていた?

「覚えてないのか?」父も怪訝そうな顔になる。

 覚えがなかった。

「いつ?」

「確か、そうだな。三年の秋頃じゃなかったか? 丁度大学受験に向けて猛勉強してた時期だよ。母さん、そのときだいぶ心配していたっけな。一週間も部屋から出てこないもんだから、気苦労でかなりやつれてな、口数も少なくなって精神的にもだいぶ参っていたみたいで、見てられなかったぞ」

「あ」と思わず声が漏れる。そういえばそんな記憶があるような気がする。暗い自室に閉じこもって、しばらくなにもする気が起きず、ほとんどうつ状態だった。

 しかし、なぜそんなことになったのかは思い出せなかった。一週間もの間、そのような状態になったということは、余程の理由があったはずである。それなのに、なにが起きたのか全く思い出せない。私が長い間、帰省したがらなかった理由を思い出せなかったことと同じである。

 私はハッと思い至った。もしや、自分が帰省することを拒絶していたことと母との不仲、そしてうつ状態になり引き籠もっていたことは、すべて同じ出来事が原因なのではないか。

 私は高校三年の秋に起きた〝ある出来事〟に、大きなショックを受けた。それが原因で引き籠り、母との間にも何らかのトラブルが起きた。その出来事を心の中で拒絶するあまり、無意識にそのときの記憶を頭の奥底に仕舞いこんでしまったのではないだろうか。だが、大学一年で帰省したときにその出来事を思い出し、それが原因で実家に帰ることを嫌がるようになった。そしてそれは、私自身がそのことを忘れてからも、無意識の内に帰ることを拒絶させ続けていたのだ。そう考えれば、それらすべての原因を思い出せないことに辻褄が合うのではないか。

 私が記憶をなくすに至った出来事とは、一体なんだろうか。

「そのとき、俺なにかいってなかった? どういうことがあったとか」

 父は、記憶を探り出すかのように頭を捻りながら考える。

「特に聞いてなかったかなぁ。引き籠もってる間はなにをいっても返事がなかったし、出てきたら出てきたで、口を閉ざしたままで……。あの頃は、俺もいろいろ忙しかったから、よく思い出せないしなぁ」

 結局、父からはそれ以上のことは聞けなかった。


 夜中、嫌な夢を見て目が覚めた。どんな夢だったのかは思い出せない。心を抉られるかのような、本当に嫌な夢だった。夢で目が覚めるなど、何年振りだろうか。それも、帰省してきた当日の夜中に。

 一度起きてしまうと、どれだけ寝ようとしても寝付けなかった。そのうち、尿意を催してきたので、トイレに行こうと部屋をでた。暗い廊下をトイレへと向かっていると、階段を上がってきた母と出くわした。

 驚いて声が出なかった。こんな時間まで起きていたのか。

 なにか声を掛けようとして、私は思わず口をつぐんだ。廊下まで上がってきた母と目が合った。

 奇妙な既視感を覚えた。前にもこういう場面に出くわしたことがある。暗い廊下。私と母がいて、目を合わせている。別におかしな光景ではない。むしろ、十八年間同じ家に住んでいたのだから、こういう場面はよくあった筈だ。それに私も母も夜遅くまで起きていることが多かった。

「まだ起きてたの」母がいう。そのときはもう私から目を反らしていた。「明日、早いからもう寝なさい」

 母は目を反らしたまま、両親の寝室へと姿を消した。

 私はその姿を見送りながら、奇妙な既視感の意味を考えた。そして、今の母の表情を思い浮かべ、そして理解した。

 母は、自分を恐れているのだ、と。


 翌日、隣町の葬儀場で祖母の告別式がおこなわれた。

 式場には昨日よりもさらに多くの参列者たちがやってきた。なかには全く見知らぬ者たちもいた。

 長い式の後、祖母の入った棺は霊柩車によって式場を運び出され、火葬場へと向かった。

 町と隣接した山の上にある火葬場へ、車で向かっているとき、車窓から黒い煙を吐き出す葬儀場の煙突が見えた。昔、化学の授業で習ったことがある。火が燃えているときの煙は黒く、燃え尽きると白くなるのだそうだ。だから、あの煙突から出ている煙の火元はまだ燃えている。あそこで今、誰かの遺体が燃えているのだ、と私は思った。

 誰かの遺体が、煙になって排出されているのだ。


 真っ黒な煙が立ち昇っていく。


 火葬場へ到着して手続きを済ませると、火葬炉に集合した。係員がストレッチャーで棺を炉前まで運んできた。全員で火葬前の別れを済ませると、係員が炉の扉を開けた。何人かが、ハンカチを目元にやりながらすすり泣いている。母も同様だった。「お別れです」という係員の言葉が胸に突き刺さる。火葬炉の扉がゆっくりと、祖母の棺を吸い込んでいった。

 火葬の間、控室で待機ということになった。全員に軽食が用意され、父と母は来てくれた親戚や祖母の友人たちを接待していた。

 私は部屋の隅の方で祐二と思い出話に浸っていた。子供時代、祐二がよく家に遊びに来て祖母と三人で遊んだり、近所の夏祭りに連れて行ってもらったこと。そこで友達に会って、みんなで祖母に焼きそばやお好み焼きを買ってもらったこと。それから次第に、学生時代の友人たちの思い出話になっていった。

「そういえばさ、武史、高校のとき草野っていう女の子いたの覚えてる?」

「草野?」

「覚えてないか? ほら、武史、その子と仲良かったじゃん。下の名前は……なんだっけ。確か……、明穂。草野明穂だ」

 明穂。

「ああ、思い出した」

草野明穂。高校三年のとき、私と同じクラスで仲の良かった女子生徒である。私の通っていた高校は二年のときにはクラス替えがないため、二年間同じクラスだった。しかし、二年のときはそれほど話したことはなく、彼女と親しくなったのは三年になって一緒にクラスの委員長になってからだった。あまり目立つ生徒ではなかったが、優しくて誰からも好かれるような子だった。

「思い出したよ。一緒にクラス委員やってた」

「そうそう。今、話してて唐突にその子のこと思い出してさ。武史、その子と三年の後半すごく仲良くなってただろ。たまにふたりで一緒に帰ったりしててさ」

「そうだったよ。懐かしいな」

 大学受験の時期、ふたりで高校の近くの図書館にいって勉強したりしていたのだった。明穂は成績優秀な生徒で、彼女に苦手な教科を教わったものだった。逆に、明穂の苦手な化学を私が教えたりすることもあった。

「クラスでたまに噂になってたこともあったんだぜ。あのふたり付き合ってんじゃないかって」

「ああ」私は照れ臭くなって頭を掻いた。

 たしかに、そんな噂が流れていたこともあった。実際には付き合うまではいかなかったのだが、明穂は性格もよく容姿端麗だったので、当時私は満更でもない気持ちだった。

 懐かしかった。卒業以来、明穂とは会っておらず、連絡もとっていなかった。彼女はどこの大学が志望だといっていただろうか。地元の大学に進学するといっていたのではなかったか。今はどうしているのだろう。どこの会社に就職したのか。結婚はしているのだろうか。私は途端に明穂のことが気になりだした。

「その後どうしたのかな、明穂ちゃん。祐二、ずっと地元にいたんだろ。なにか知らないか?」

 途端に祐二の表情が困惑の色に変わった。

「お前、覚えてないのか?」

「え、なにが?」

 私はなにかいけないことでも訊いたのだろうか、という気になる。祐二の方も、まるでまずい話を切り出したことに気付いたかのように、困った表情をしている。

「覚えてないって、どういう意味?」

 そのとき、係員が火葬が終了したことを知らせに来た。

「また後で話すよ」

 祐二は、すぐに立ち上がるとそそくさと控室を出て行ってしまった。私も釈然としない気分のまま立ち上がり、収骨室へと向かった。


 祖母の体は灰と石ころのような骨の集まりと化していた。私は寂しい気持ちでそれらを見つめていた。もう祖母の魂はなく、肉体もなくなってしまった。祖母が存在したことをしめすものは、写真や記憶しか残っていないのだ。

 喪主である父が頭の方に立ち、私たち親族が祖母の遺骨を取り囲むようにして立った。私たちは祖母の遺骨を箸で掴み、箸渡しのようにして骨壺に入れていった。

 私は箸で祖母の遺骨を掴み、別の箸に渡していきながら、祖母はあの火葬炉のなかでどういう風に焼かれていったのかと考えた。火はどのように人を焼くのだろう。


 火の粉がいくつも飛び散り

 煙と共に空へと舞い上がって

 真っ黒な煙が夜闇へと立ち昇って

 燃えている


 急に気分が悪くなり、吐き気が込み上げてきた。私の異変に気付いた隣の叔母だという女性が、「大丈夫?」と声を掛けてきた。

「すいません。ちょっと気分悪くて……。休んできます。」

 そういうと、その場にいる人たちの視線を浴びながら、静かに部屋の外へと退室した。

 奇妙な感覚だった。なにかが私の内部から這いずり出てこようとしているような、そのなにかが鑢のような表面で私の脳を削りながら這い進んでいるかのような激しい不快感。

 私はなんとか吐き気を抑え込んだ。

 ここにきてから私が求めていた答え、それを思い出しつつあるのだ、ということがわかった。だが、脳が思い出すことを拒否しているのだろうか、思い出しかけているのにその糸口をなかなか掴むことが出来なかった。

 ただ、明穂という名前が、いつの間にか私の頭にこびりついて離れなくなっていた。


 結局その後、祐二から話を聞くことはできなかった。私が明穂の近況について知らないか尋ねようとしたときの反応について、どういうことなのか訊きたかったのだが、その度にはぐらかされてしまうのだった。

 告別式の日程がすべて終了し、訪れていた親戚たちが帰った後、私は自室の押し入れを漁っていた。高校の卒業アルバムを探しているのだった。アルバムを見て明穂についてもっと思い出したかったのだ。

 卒業アルバムは、上の段の奥のほうに仕舞われていた。それを引っ張り出し、床の上に広げてパラパラと捲ってみる。

 私たちのクラスの写真が載っているページが見つかった。私は五組だったため後ろのほうのページだった。学生時代の私、祐二が写っている。明穂の写真も見つかった。私の記憶よりも大人びた顔立ちをしている。

 さらにページを捲った。合唱コンクールの写真が載ったページ。ピアノの前に座る明穂の写真があった。そうだ。彼女はピアノも得意だったのだ。

 修学旅行の班別行動のときの写真。体育祭の写真などが見つかったが、私の知りたい情報がわかるような写真は見つからなかった。

 こんなことをしている場合ではないのだ。会社もあるし、明日の正午には東京へ戻らなくてはならない。そもそも、こちらへ戻った理由は母との不仲や、帰省を嫌がるようになった原因を探ることだったのである。

 始めは母に訊くべきかとも思ったが、あの様子では素直に教えてもらえるとは思えない。それよりも有効な方法があるのではと思った。昨日、明穂の名前が頭から離れなくなって以来、原因は明穂に関係したことではないか、そう思えるようになっていたのだ。

 なぜそう思うのか、理由はわからない。直感的にそう思うのである。だが、私は記憶を頭の奥に封じ込めただけであって、その記憶はまだ私の頭の中に眠っているのだ。だとすれば、自分の直感に従って考えるべきなのではないか。

 携帯が鳴った。開くと、祐二からメールが届いていた。

『今日は悪かった。明日、帰る前に会えないか? 話したいことがあるんだ』

 話したいこととは、明穂のことだろうか。祐二からなにか情報が聞けるかもしれない。私は承諾する旨のメールを返信した。


 翌日、午前中に私は祐二と会うことになった。朝食を食べ終えると、家の前の坂道を下った。祐二は既にそこで待っていた。

「悪いな。時間とらせて」

 昨日の態度とは裏腹に、すまなそうに祐二はいった。

「いや、いいよ。今日中に帰ればいいし、俺も話聞きたかったから」

「そうか。なら良かった。少し歩きながら話してもいいか」

 祐二がそういうと、私と祐二は揃って畦道の方へと歩きだした。

「昨日は話をはぐらかして悪かったな。ちょっと動転してたんだ。お前が俺のことをからかってるのかとも思った」

 私は意味がわからず訊いた。「どういうことだ。明穂のこと、知ってるのか?」

「それよりも武史、お前、草野のこと、どこまで覚えてる?」

 どこまでとはどういうことだろう。私は祐二の質問の意味を慎重に考えながら答えた。

「俺が覚えてるのは……俺と一緒にクラス委員だったこととか、頭が良くて勉強を教えてもらってたこととか、合唱コンクールでピアノを弾いてたこととか……そんなことくらいだよ、どうして?」

「じゃあ、本当にあのことは覚えてないんだな」

 祐二は溜息をつきながらいった。

「あのこと?」

 祐二はなにをいっているのだろう。あの頃、明穂になにかあったのだろうか? もしそうならば、それは私の探していた原因となる出来事なのではないか。

 私は緊張が心の奥から湧き上がってくるのを感じた。それと同時になにか不吉な予感を感じる。それを知りたいと思うと同時に知ってはいけないような気がする。

「口で説明するよりも見せた方が早い。草野の家にはいったことあるか?」

「明穂の家?」

 私はそう問われて微かな記憶を探った。明穂とふたりで下校するということはよくあったが、家の方向が違っていたためいつも途中で別れていた。ふたりで受験勉強をする際にもお互いの家へ行くことはなく、隣町の図書館を利用していた。きっと、家にまで行ったことはなかったのではないか。

 はっとなった。

 いや、ある。たった一度、明穂に彼女の家に誘われたことがあった。

そのときもやはり、一緒に受験勉強しようということになっていたのだ。私は記憶のさらに深い所へと潜り込んでいく。確か下校途中に急に彼女から誘われたのだ。勉強するだけなら図書館でも事足りる筈なのになぜ家へ誘ったのだろう。そのとき、私の頭にクラス内の自分と明穂に関する噂が思い浮かんだのを覚えている。

 もしかして、という期待が私の頭をよぎった。今思うと、私は本当に明穂のことが好きだったのではないか。私は明穂のその誘いを承諾したのである。

 それからふたりで、明穂の家に行った筈だ。しかし、そこからのことが思い出せなかった。

「行ったこと……ある。ただ、よくは覚えてない」

「そうか……。まあ、いい。この後時間とってもいいか? 彼女の家に行こうと思うんだ」

 祐二は考え込んでからそういった。

 明穂の家へ行く。一体何の目的で? 明穂は今もあの家に住んでいるのだろうか。

 私はいろいろと訊きたいことがあったが、それを抑えてとりあえず祐二についていこうと決めた。今は彼を信じるしかないだろう。

「わかった。いいよ」

 ふたりは黙々と歩き続けた。畦道を抜け、道路に沿って歩いていくと新興住宅地に差し掛かる。そこを抜けるとまた田畑の広がる風景になり、その先にある町境となる国道を渡った。

 私は周りの風景に見覚えがあるのを感じた。ここを通ったがある。あの日、明穂に家に誘われた日、彼女に案内されながらこの道を通ったのだ。

 雑木林に囲まれた古い家々が密集している区域の、狭い路地に差し掛かる。家と家を分け隔てている木製の塀は、湿って老朽化している。アスファルトも雨で流れてきた泥でぬかるんでいる。家々の屋根や木々で日光が遮られるため乾かないのだ。

 私はここも思い出した。こんなところを通った覚えが確かにある。狭い路地の中、塀に制服を擦らないようにしながら、泥で滑らないように足元を注意しながら慎重に歩いたのだ。しかし、明穂はいつも通っているから慣れているのか、どんどん先へ進んでしまっていた。いまは私も祐二も慎重に歩を進めている。

 そうだ。明穂の家はこの先にあったのだ。しかし、私はそこから先を思い出すことができない。まるで、あの日の記憶を順に追っていっているかのようだった。

 明穂の家はまだあるのか。明穂は今もそこに住んでいるのだろうか。祐二は私を明穂に会わせようとここまで連れてきたのか。

 私は好奇心や期待とは裏腹に、胸騒ぎを覚えていた。もしそこに行ってしまったら後戻り出来なくなってしまう。なにかの取り返しがつかなくなってしまう気がした。心の中で、そこに行ってみたいという気持ちと行ってはならないという気持ちが葛藤を始めていた。

 祐二は歩くのに慣れたのか、私よりも数歩先を行っている。もうすぐでそこに着く。蘇り始めた記憶からくる直感が、私にそう告げていた。祐二に、行くのをやめて引き返そうと言いたかった。しかし、そうするには余りにも遅すぎた。

 祐二が私の数歩先で立ち止まり、彼から死角になっているその場所を指さした。

「ここだよ」

 祐二がそう告げた。

 私は祐二の立つその場所までたどり着き、彼の指差すその先に視線をやった。



 明穂の家の庭には、何本もの木々が鬱蒼と生い茂っていた。大きく伸びた木々はまるで幽霊のように枝葉を垂らして家の屋根を覆い隠している。その様子がなんとも不気味に思えた。ほかの家々同様、日光が遮られているため薄暗く、それがまた不気味さを増している。幽霊屋敷の様相を呈している。地面にも雑草が膝の丈くらいまで伸びきっている。庭の奥の、家の壁と塀に挟まれた暗い空間には、アルミ製の小さな倉庫が置かれていた。倉庫は壁も扉も一部がへこんでいたりしてボロボロだった。

 家は木造建築の二階だったが、壁や玄関の柱には蔦が張りついていて、屋根には黴のような汚れがこびりついている。

 優等生な明穂のイメージに合った綺麗な家を想像していた私は、その光景を目にした途端がっかりとした気分になった。どう考えてもこの家は、明穂が住んでいる家と聞いて頭に浮かぶものからはかけ離れている。

 だが、こんなものなのかもしれない、と私は思い直した。長く住んでいるなら古くもなるだろうし、それほど新しい家でもないだろう。雑草が伸びているのが気になったが、きっと明穂も両親も、手入れをする暇もないほど忙しいに違いない。いくら明穂が魅力的な子でも、いい家に住んでいるとは限らない。明穂に好意をもつあまり、自分でも知らず知らずのうちに、彼女の住まいという彼女の人間性にはなんら関係のないところまで勝手にハードルを上げてしまっていたのだろう。

 明穂が振り向いて、立ち止まっている私を不思議そうに見ながらいった。

「どうしたの、森岡君。早く入って?」

 いわれて、私ははっと雑草の間を抜けながら明穂の後に追いつく。高校の制服のワイシャツの肩に、いつの間にか泥がついていたのに気づいた。おそらく、さっきの路地を通ったときについたのだろう。慌ててそれを払い落とす。

 明穂はすでに引き戸式のドアを開けて中へと入っていた。私も中に入る。

 家の中は整然としていて、ごく普通の家に見えた。玄関から入ってすぐに、二階へ続く階段が伸びている。日が差さないせいで異様に暗いこと以外はごく普通の家。しかし、どこからか変な臭いがするような気がした。

「家の人は?」

「奥の部屋でお祖母ちゃんが寝てるの」

 両親は仕事なのか。私は尋ねようとしたが、あまり詮索していると思われたくなかったのでやめておいた。

 明穂は靴を脱ぐと、私を二階へ案内した。

 二階にある明穂の部屋は殺風景だった。勉強机があり、その上に教科書や参考書、勉強道具などが積まれていて、反対側にはベッドがある。部屋の中央には寛ぐためのものか、低めのテーブルが置かれていた。それ以外は押し入れがあるだけだ、必要最低限のものしか置かれていない部屋という感じだった。壁にアーティストのポスターが貼られているわけでもないし、お洒落なカーペットが敷かれているわけでも、可愛らしい小道具が置かれているわけでもない。年頃の女の子らしい部屋とは到底いえなかった。

「座ってて。今お茶を淹れてくるから」

 明穂はそう言い残すと部屋を出ていった。私はいわれた通り床に座り込むと部屋全体を見回した。想像とかけ離れているとはいえ、明穂の部屋にいるということを実感すると落ち着かなくなった。

 明穂が戻ってくると、彼女が淹れてくれた茶を飲みながらふたりで勉強に取り掛かった。使っているテーブルがあまり大きくないため、自然とふたりの距離は近くなり、私は嫌でも明穂を意識せずにはおれなかった。

 そうして、しばらく勉強を続けていた時だった。

「明ちゃん、お友達かい?」

 部屋のドアの方からしゃがれた声が聞こえてきた。私は突然のことに心臓が跳ね上がりそうになった。そして、声のした方を見ると、思わず声を上げそうになっていた。

 ドアの所に、白髪の老婆が立っていた。明穂の祖母なのだということはすぐにわかった。しかし、その容貌が異様だった。

 だらりと肩より下まで垂れ下がった白髪はぼさぼさで、顔を両側から隠しておりまるで山姥のような風貌だ。白髪の間から覗いている両目は、眼球が膜でもかかっているかのように白く濁っている。右目はこちらをじっと見つめているのだが、左目はあらぬ方向を向いている。口は薄ら笑いしているように開いていて、そこから並んでいる歯が見えているが、幾本か抜けていたり、溶けたような不自然な形をしているものがあった。寝間着らしき着物が弱冠はだけていて、その胸元から、拳大のグロテスクな疣のようなものが覗いていた。

 老婆のその風貌は私を唖然とさせた。

「ええ、お祖母ちゃん。同級生の森岡君よ」

 明穂に紹介され、はっとして頭を下げた。声を出そうとしたが上手く出せなかった。

「へぇ、そうかい」

 それを聞くと、老婆ははっきりとした薄笑いの表情をつくって、私を嘗め回すように見た。私は老婆の視線が身体中を這ってくるのを感じて、嫌悪感に震えた。

「お祖母ちゃん、部屋で寝てなくちゃ駄目じゃない。さあ、一緒に戻ろう?」

「またあの暗い部屋に戻れっていうのかい? 嫌だねぇ、あそこに一人でいるのは。明ちゃん、お祖母ちゃんと一緒に遊んでおくれよ」

 老婆はしゃがれた声のまま甘えるような猫撫で声をあげた。

「いま森岡君と勉強中なの。終わったら遊んであげるから、それまで辛抱して。ね?」

 明穂はそういうと、老婆を支えて引き返させた。老婆は振り返りながら、再び森私に薄笑いを向けた。私はなんだか馬鹿にされている気がして、嫌悪感と共に苛立ちが湧き上がってきて思わず舌打ちしそうになった。老婆は、階段に差し掛かると視線を私から外し、明穂に支えられながらそこを降りていった。

 私は老婆の視線から解放され、息を吐いた。

 あの老婆は病気なのだろうか。老婆の風貌や様子から見て、尋常な状態ではないように思えた。介護施設に入院させないのだろうか。ヘルパーは雇っていないのか。今日そのような人物が来ていた様子はない。両親が仕事に行っている間、明穂が老婆の世話をしているのか。しかし明穂が学校に行っている間は? 様々な疑問が頭をよぎっていった。

 老婆を部屋へと連れ戻したらしく、明穂が一階から戻ってきた。

「お祖母さん、大丈夫なの?」

 私の問いに、しかし明穂は答えなかった。俯いていて表情がわからない。明穂は俯いたまま、私の隣にやってきて腰を下ろした。

 なにかあったのだろうか。どう声をかけるべきか、私が思案していた時だった。

「ねえ、森岡君」

 明穂が俯いたまま私を呼んだ。聞いたことのないような冷たい声だった。

「さっき、お祖母ちゃんのこと、笑ったでしょ」

 笑ってしまっていただろうか。いや、そんなことはない。嫌悪感はあったが顔に出さないようにしていた筈だ。

「俺、笑ってなんか……」

 明穂が顔を上げた。明穂は見たこともないような、憤怒の表情を浮かべていた。

 次の瞬間、頬に強烈な衝撃が飛んできた。一瞬なにが起きたのか理解できなかった。しかし、明穂が怒りの形相を浮かべたまま立ちあがるのを見て、平手打ちされたのだとわかった。

「嘘よ。森岡君笑ってた。私、見たんだから」いいながら、明穂は肩を小刻みに震わせていた。「皆そうなのよ。お祖母ちゃんを見ると、馬鹿にするみたいに笑うか厭な顔をするのよ!

お祖母ちゃんだけじゃない。私まで白い目で見られて、遠巻きにされる……。誰もこの家に寄りつかない。どうして。私やお祖母ちゃんがなにをしたの⁉ 誰にも迷惑かけてない! 

ただ普通に暮らしてるだけなのに! どうせ、あなただって今、私とお祖母ちゃんをそういう目で見てるんでしょ。見下してるんでしょ!」

 私は激昂する明穂をただ呆然としながら見ていた。この豹変ぶりはなんだろう。目の前にいるのははたして本当に明穂なのだろうか。打たれた左頬が疼いていた。

「お、落ち着けよ。一体どうしたっていうんだ……」

 明穂は軽蔑のこもった眼差しを私に向けた。

「馴れ馴れしくしないで。私、知ってるのよ。あの噂のこと」明穂の口からでた言葉に私はドキリとする。「私たちが付き合ってるって噂……。森岡君、男子にそのこと訊かれたんでしょ。そのとき、なんて答えたの?」明穂の声音が甲高い詰問口調になっていた。「なにも答えなかったんだよね? ただ誤魔化しただけだったんでしょ。でも、それってどうしてなの? 私たち、付き合ってないのにどうしてちゃんと否定しなかったの?」

 明穂の態度が急に、怒りから嘲りに変わった。

「森岡君、私と付き合ってるって皆から思われたかったんでしょ。だから否定しなかったのよ」

 瞬間、私の感情が明穂の豹変に対する恐怖や怯えから、どうしようもないほどの恥ずかしさへと変わった。明穂がどうして、そのことを知ったのかはわからない。とにかく、その真意を知られたことが顔から火が出るほど恥ずかしかったと同時に、本人から嘲笑われて深く傷ついてもいた。

「それだけじゃない。森岡君って、いつもいつも、そうやって自分を大きく見せてばかり。得意でもないことを得意だって言い張ったり、ありもしない自慢話を語って見せたりして、陰ではクラスメイト達の悪口をいって見下してる。でもそれって、自分が陰口をいわれたり、見下されたりしてるかもしれないことが怖いからでしょ。だから、そんなやり方で予防線を張ってる」

 明穂は、なお座り込んだままの私を見降ろしながら、小さく笑った。

「森岡君、私があなたのこと好きだと思ってた? ……あんたなんか好きじゃない。好きなわけないじゃない。臆病で、私やお祖母ちゃんを笑ってる人たちと同じ目をしてる、そんなあんたのことなんか、好きなわけない!」

 明穂の言葉のひとつひとつが私の胸に突き刺さっていたが、最後の言葉で、私の心の均衡を保たせていたダムが決壊し、様々な感情が一気に溢れ出てきた。目の前が真っ白になった。

 気がつくと、テーブルの上の勉強道具一式を乱暴に鞄に押し込んで部屋を飛び出していた。玄関向かうまでの途中、あの老婆が立っていて逃げ出していく私を、あの人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべながら見送っていた。

 私は玄関を飛び出し、元来た道を全速力で駆け抜けた。走りながら、私は目から涙を溢れさせた。

 どうしてだろう。どうしてこんなことになったのだろう。自分がなにをしたのだ。自分のなにがそんなにいけなかったのだろう。私の頭の中で、どうしてどうしてという言葉が駆け巡っていた。明穂が豹変した理由も、あの老婆に笑われた理由も、自分が涙を流さなければならない理由も、なにひとつわからなかった。

 好きな子に気持ちを踏み躙られ、心をズタズタに引き裂かれた。あの薄汚い老婆にさえ笑われた。

 走りながら、いくつもの感情が私の心に押し寄せていた。そのなかでも最も強かったのは、悲しみと惨めさだった。



 明穂の家は焼け落ちていた。

 家は木材やコンクリートの壁までもが焦がされ、すべてが崩れ落ちていて見るも無残な有様だった。庭に茂っていた木にも燃え移ったらしく、一本も残っていなかった。雑草が伸びきっていることだけは、あのときと同じだった。

 その光景を見た瞬間、〝あの日〟にこの家で体験した出来事が私の脳内にフラッシュバックした。この家での強烈な出来事が一瞬のうちに蘇り、私はしばらく茫然自失となった。

 祐二は私を心配そうな様子で見ながらいった。「大丈夫か?」

 私はそれには答えず、少し間を置いてからいった。

「そうか……」私は苦しくなって、深く呼吸をした。「明穂の家は……燃えたんだな」

「そうだ」祐二が俯く。

「明穂は……」

「火事が起こったのは夜中だった。火は、一階の奥の方から上がっていた。一番奥にある台所からだ。一緒に暮らしていたお祖母さんは、その台所に近い奥の部屋で寝ていた。だから助からなかった……。明穂は二階の自分の部屋で寝ていて、火事に気付いて一階に降りた。そして、お祖母さんを助けようと思ったんだろうな、一階の奥に向かおうとして、途中で倒れた。消防隊が駆けつけて消火活動を始めたときには、日はかなり燃え広がってた。道が狭いからここまで消防車が入れずに、消火活動の準備に時間がかかったんだ。それでも、奇跡的に明穂は助かった。消防隊員が家に踏み込んで、廊下に倒れていた明穂を救出したんだ。顔と手足に火傷を負ったらしいが、命に別状はなかった」

「住んでいたのは……ふたり、だったのか?」

「そうだ。俺も後から噂で聞いたんだが、明穂の両親はだいぶ前に事故かなにかで亡くなっていたらしい。両親はふたりとも莫大な保険金をかけていて、ふたりはそのお金でなんとか食い繋いでた。両親の死後、明穂にはその保険金とお祖母さんだけが残された」

 私は驚きを隠せなかった。あの日、明穂の家を訪れたときも両親は仕事かなにかでいないのだと思い込んでいた。

「俺も驚いたよ。当時はそんな話、全く聞いたこと無かったからな。どうして秘密にできたのか不思議なんだが、明穂はかなり苦労していたみたいだ。なにせ、火事で亡くなったお祖母さんは、だいぶおかしくなっていたみたいで、完全に介護が必要な状態だった。でも、生活を支えるのに精一杯で、そんな余裕はとても無かった。だから明穂がひとりでお祖母さんの介護をしてたんだ。そういう明穂の家の事情を知ってても、近所の連中は全く協力的じゃなかった。というのもな……」そこで祐二は苦々しい表情になった。「明穂も精神的にかなりおかしかったというんだ。突然、近所の家の塀を蹴ったり殴ったりの奇行に走ったり、夜中に奇声をあげたり……それで周りの人間は皆明穂やお祖母さんのことを気味悪がってたまったく不思議だとしかいいようがない。学校じゃ明穂はそんな素振り少しも見せなかった。それどころか、至極まともな性格で皆に好かれてた」

 それは、あの日私も感じたことだった。普段の明穂と、あのときの明穂とは、恐ろしいほど別人だった。

「でも、おかしくなったとしても無理ないと俺は思うよ。両親が死んで、自分は学業も家事もこなさなくちゃならないだけじゃなくお祖母さんの介護までしなくちゃならない。なのに、助けてくれる人は誰もいない……」

 私はなにもいえなかった。あのときの明穂の言葉が脳内で反芻された。あのとき、私は自分が一方的に傷つけられたと思い込んでいた。だが、先に気付つけてしまったのはもしや私の方ではないのか。意図してのことではないにせよ、自分があの老婆に嫌悪感を抱いてしまったことは事実である。それを明穂は敏感に感じ取ったのではないか。そしてそれは、精神的に不安定だった明穂にとって、かなりの打撃となったのではないか。

「それで、明穂はいま……」

「俺もよくは知らないんだ。あれ以来、明穂とは会わなかったし、全部人づてに聞いた話だからな。ただ、あの火事の後、引き取り先が見つからずにしばらく施設に入れられて生活保護を受けることになったらしい。それ以上のことはなにも……」

 私はやるせない気持ちになった。明穂は、火事で家も、唯一の肉親も失い、その後どのようにして生きていったのだろう。そもそも、今も生きているのだろうか。

 私はまだ聞いてないことがあるのを思い出した

「火事の原因は何だったんだ?」

 祐二は再び苦々しい表情をつくっていった。「放火だよ」

 私はごくりと唾を呑み込んだ。

「台所にある裏口のドアが開いていて、そこに灯油が撒かれた痕跡があったらしい。使われた灯油は、この家の庭の倉庫に仕舞われていたものが使われたんだ。あの火事の後、警察があらゆる証拠を探って捜査していたらしいが、結局犯人はわからず仕舞いだった」

 そうだった。私も、あの当時自分が知ることのできた情報を思い出した。この放火事件はニュースでも話題になり、放火された家にあった灯油が使われていたことから、衝動的な愉快犯による犯行ではないかと報じられていた。なぜよりにもよってこの家だったのか。それだけではない。奇しくも、放火が起きたのは〝あの日〟だったのである。あの夜、火事の後校長や担任教師、学校関係者に連絡がいき、明穂と同じクラス委員長である私の家にもいち早く連絡がきたのである。

「昨日、明穂の話題になったとき、お前が俺をからかってるなんて思ったのはお前がこの出来事を忘れるはずないと思ってたからなんだ。あのとき、クラスメイト皆がショックを受けていたけど、中でも武史にとっては衝撃的な事件だったんだと思ってた。一体どうしてこんなこと忘れちまったんだ?」

 私は答えられなかった。原因はこれに違いない。あの日、明穂の豹変を目の当たりにし、数々の罵倒を浴びせられ、私はかなりのショックを受けた。そこに追い打ちをかけるかのように明穂の家の放火事件が起きた。ふたつの出来事が重なって私は引き籠もるようになり、精神的に不安定になった。私の脳は彼の精神的均衡を保つために、この出来事を忘れようと記憶の奥底に仕舞いこませたのだ。だが、大学一年の盆の日、帰省した私は一度忘れたその記憶を呼び起こしてしまった。だから、二度とそうならぬように、私は無意識のうちに地元へ戻ることを拒んでいたのだ。

 祐二と別れた後、私は自宅への道を歩きながら考えていた。

 〝あの日〟私は、自分の裏の一面を明穂に暴かれ否定された。確かに当時の自分はそういった一面をもっていた。そして私はその弱い一面を隠しながら生きてきた。誰にも知られたくはなかった。それを明穂に暴かれ、悲しむと共に激しく怒っていた。明穂を恨むようにすらなっていた。

 しかし、明穂の気持ちになって考えてみると、なんともいえないものがある。当時明穂が自分をどう思っていたのかわからないが、自分の家に招くくらいだから嫌いではなかったのではないだろうか。もしかしたら、明穂は期待していたのではないか。私なら自分たちを受け入れ、助けてくれると。だが、その期待が裏切られたことを感じ、衝動的にあのような言葉を口にしたのかもしれない。もちろん、憶測にすぎない。私の思い込みかもしれない。今となってはなにもわからなかった。

 自分はどうすればよかったのだろう。それもわからない。だが、明穂の気の毒な人生を考えるとなにかしてやれたのではという気になってくる。今気づいても遅すぎた。もうなにもできることは無かった。明穂はどこでどのようにして生きているのか、それとも、もうこの世にはいないのではないか。せめて、どこかで生きていてほしいと思った。

 気分は落ち込んでいたが、すべてを思い出すことができてすっきりしたという気持ちもあった。私は自宅に着き荷物をまとめながら、だがひとつ忘れていることがあるのを思い出した。

 母とのことである。

 私が引き籠もっていた理由、長い間帰省しなかった理由はわかったが、それと母との不仲が繋がらない気がした。だがよくよく考えてみれば明穂のことと、母との不仲が繋がるはずはない。母は私が明穂と仲のいいことは知っていたが、明穂本人と会ったことすらないのである。では、母との不仲は全く別のことが原因だったのだろうか。

 それとも、と私は思った。

 引き籠もっていたこと自体が原因だったのだろうか。あのとき、引き籠もっていた私を説得していたのは母だった。父は仕事でほとんど家におらず、私が引き籠もっていたことによる精神的負担はほとんど母が背負っていた。しかし私は、部屋を出ていくこともなく、母の言葉に耳をことすらなく、心を閉ざして母を完全に拒絶していた。そのことがさらに母の精神的負担を倍増することになり、結果的に母も息子に心を閉ざすようになっていったのではないか。

 そう考え始めると、そうとしか思えないようになっていた。そう思うとなんだか無性に名悲しくなった。驚くことに、母に受け入れてもらいたい、という感情が湧いてきた。この六年間で一度も覚えたことのない感情だった。明穂のことでショックを受け心を閉ざしていたことが原因で、不仲になったということが悲しくて仕方なかった。

 荷物を持って一階に降り、奥の間にある祖母の遺影に手を合わせた。

 母は茶の間の縁側で洗濯物にアイロンをかけていた。

「もういくの?」

 母は息子が来たことに気付いたらしく、振り返らないままいった。

「うん」

「そう。……気をつけて帰りなさいね」

 また帰ってきなさい、とはひと言もいわなかった。そのことが私の胸に突き刺さった。このまま別れるのは耐え難いような気がした。

「母さん、ごめん。俺が悪かったよ」

 ぴたり、とアイロンをかけていた母の手が止まった。

 私は思いきって、母に今の自分の感情を打ち明けた。

「母さんがなにに怒ってるのかはわかってる。高校三年のとき、俺が引き籠もって母さんに迷惑や心配かけた。……なのに俺は、心配してくれた母さんを拒絶した。俺は自分のことしか考えてなかった。本当に申し訳なかったと思ってる。でも、あのとき俺、本当につらかったんだよ。辛くて辛くて……だから、そのこと母さんにわかってほしい。もう許してほしいんだよ。今更遅いかもしれないけど、今からでも普通の親子に戻りたいんだ」

 母が振り向いた。私はは少し離れたところから見て、母が驚きに目を見開いているのがわかった。いや、驚きだけではない。その表情に恐怖の色が混じっているのが見て取れた。なにか恐ろしいものを見るような目で私を見ている。

 一昨日の夜、母と二階の廊下で出くわしたことを思い出した。そのときも母は、今と同じ顔をしていた。ずっと前にも母の同じ顔を見たことがある。

 その瞬間、なにかを思い出しかけた。絶対に思い出してはいけない記憶が、私にはまだあった。心臓が早鐘のように鳴り始める。やめろ思い出すな。絶対に思い出してはいけない。

 だが、私は思いだしてしまった。

 眩暈がした。自分が今どこにいるのか理解できなくなった。

 発狂しそうだった。

 私は今この瞬間、自分が六年間ここに戻りたがらなかった本当の理由がようやくわかった。

 戻りたいわけがない。人生で一番忘れたままでいたかった記憶を思い出すことが、こんなにも恐ろしいことだと知っていたなら。

 母の声が聞こえてきた。

「あんた……一体、なにをしたの?」

私の記憶が激しい速度で巻き戻り始めた。



「森岡君、私があなたのこと好きだと思ってた? ……あんたなんか好きじゃない。好きなわけないじゃない。臆病で、私やお祖母ちゃんを笑ってる人たちと同じ目をしてる、そんなあんたのことなんか、好きなわけない!」

 明穂の言葉のひとつひとつが森岡の胸に突き刺さっていたが、最後の言葉で、私の心の均衡を保たせていたダムが決壊し、様々な感情が一気に溢れ出てきた。

 そのなかでも最も強かったのは、怒りと憎しみだった。

 目の前の女の子に、自分の最も知られたくなかった部分を暴かれた。暴かれて、嘲笑われて、ズタズタに引き裂かれた。許すわけにはいかなかった。絶対に、許せなかった。

 その後の私の行動は衝動的だった。私は立ち上がった。そして、目の前にいる明穂の肩を、力任せに後方へと押し飛ばした。明穂の身体は勢いよく後ろへと倒れ、彼女の後頭部が狭い部屋の壁に思い切り激突した。

 その様子を見ても、私の激しい怒りと憎しみは治まらなかった。私はなおも理性を失ったままだった。

 私は自分でもわけのわからない喚き声をあげながら、倒れている明穂に掴みかかった。明穂の右足が前に繰り出され、その右足は私の下腹部を直撃した。あまりの痛みに私は呻きながらその場に蹲った。そのことが私の怒りに油を注いだ。

 明穂は私が痛みに悶えている隙に部屋を飛び出した。廊下を突っ切り、一階に続く階段へと向かおうとした。私はすかさず起き上がり、明穂の来ていたブラウスの裾を引っ張った。明穂の身体は廊下の床に引き倒された。

 明穂が廊下に転がって仰向けになり、私はその上に馬乗りになった。理性を失い凶暴な獣と化した私はその状態のまま明穂の首に手をかけた。明穂の口から「うぐっ」という声が漏れた。

「ふざけるな、お前が俺のなにを知っているっていうんだ……。なにも知らないくせに、知ったような口を利くな。俺は臆病なんかじゃない。臆病なんかじゃない。臆病なんかじゃない」

 壊れたラジオのように繰り返し呟きながら、徐々に明穂の首にかけた手に力を込めていった。明穂は声を発することもできず、苦しさに目を見開きながら私の手を剥がそうともがいた。しかしそれは不可能だった。

「俺はおかしくなんかないぞ。おかしいのはお前だ。お前とあのババアだ。お前たちは狂ってるんだよ。頭がイカれてるんだ。俺は普通だ。臆病なんかじゃないんだ」

 自分に言い聞かせるかのように、私は呟き続けた。

「なにしてる!」

 しゃがれた怒鳴り声が飛んできた。私ははっと顔を見上げた。

 階段の降り口の所にあの老婆が立っていた。老婆は物凄い形相で私を睨みつけていた。私はそのときになってようやく、自分が何をしているのか理解できた。

「明ちゃんから離れるんだよ、この悪童が! その汚らわしい手を放しな。この妖怪め、魍魎め、明ちゃんを殺す気かい!」

 私は慌てて首元にかけていた手を放し明穂から飛び退った。明穂は起き上がって喉に手を当てながら激しく咳き込んだ。老婆が明穂の元に駆け寄った。

「お祖母ちゃん、森岡君は危険よ。彼はおかしくなったの。いえ、元からおかしかったんだわ。彼は狂っていたのよ! 頭がイカれてるのはアンタの方だわ! アンタは狂ってる」

 明穂は怒鳴った。

 それを聞いた老婆は目を見開いて私を見つめ、興奮したように飛び跳ね始めた。

「おお……狂っておる。狂っておる。この童は狂っておるぞぉ。……おおおおぉぉ、狂っておる!」最後は甲高い叫び声になっていた。

 私の頭にまた血が昇った。狂っているだと、お前たちが俺をそういうのか?

「アンタは私を殺そうとした! アンタは人殺しなのよ、森岡君! 人殺しよ!」

「人殺し……人殺しじゃ……人殺し、人殺し、人殺しがおるぞぉおお!」老婆は明穂の言葉を何度も繰り返した。繰り返しながら、はしゃぐ子供のように飛び跳ねていた。

 私はたまらず逃げ出していた。

 自宅に帰り着くまでの間のことを、私はなにひとつ覚えていなかった。自宅に帰ってきても、心の動揺と先程私を支配していた激しい感情は治まっていなかった。

 夕食の間、母から様子がおかしいことを何度も問いただされた。あまりにもしつこく聞くので、私は「うるさい!」と怒鳴ると二階の自室へと引き返した。怒鳴られた母は、目を丸くして自分の息子を見ていた。

 自室に戻っても落ち着かなかった。苛立たしく声をあげながら、壁を殴ったり床を思い切り踏んだりした。明穂の家でのことが頭から離れなかった。明穂の言葉、狂っているといわれたこと。あの老婆にさえ、狂っているといわれたのだ。

 俺は狂ってなんかいない。あいつらがおかしいんだ。

 そう自分に言い聞かせる。しかしなによりも腹立たしいのは、自分も本当に狂っているのではないかと思わされることだった。あのとき、衝動的にとはいえ、明穂を殺しかけたことは揺るがない事実なのだ。あのまま老婆にとめられなければ本当に殺していたかもしれない。自分は本当に頭のおかしい人間なのではないか。

 そんなことを考えているだけで気が狂いそうだった。

 もう明穂の家でのことは忘れたかった。忘れられさえすれば、また今までのように自分を疑わずに生きられる。だが、どうすればいいのだろう?

 そのとき、私の頭に考えが閃いた。

 簡単なことだ。明穂の家でのことを全て忘れ去るためには、あの家が無くなればいい。あの老婆も、明穂も、消し去ってしまえばいいのだ。そうすればすべてを忘れてまた元の自分に戻ることができる。

 そのためにどうすればいいのか、私にはわかっていた。

 明穂の家を訪れたとき、庭で見た倉庫になにが入っているのかは大体察しがついた。

 思い至ったその夜、私はこっそりと家を抜け出した。

 気づいたときには、炎がすべてを包み込むその光景を見つめていた。

 周囲の家々から人の気配が感じられるようになり、私はこっそりとその場を離れ自宅へと逃げ帰った。

 両親も祖母も寝ていると思っていたが、二階に上がったところで部屋から出てきた母と出くわした。母は私がこっそり家を抜け出していたことに気付いていたらしかった。

「こんな時間に……」母は、どこへ行っていたのかと訊こうとしたのだろう。しかしその言葉は最後まで発せられなかった。母は私の表情を見たまま凍り付いていた。

今の自分はそんなにも恐ろしい顔をしているのだろうか。きっと、しているのだろう。私は母の脇を無言ですり抜けて部屋の中へと入った。

しばらくして、電話が鳴った。普通なら考えられない時間帯である。私にはその電話の内容がわかっていた。七、八回ほど呼び鈴が鳴ったところでそれが止んだ。母が取ったのだろう。母が小さな声で電話の向こうに応じているのが聞こえた。

私はその様子が気になって部屋のドアを開け、顔を出した。廊下で母が、もう切れているであろう電話代の受話器を持ちながら、放心したように立ちつくしていた。

私が見ていることを知ってか知らずか、母がこちらに顔を向けた。母と目が合った。母の眼には驚愕と恐怖の色が浮かんでいた。私はその眼に宿った感情を読み取ることができる。〝まさか、ありえない。考えすぎだ。〟という感情と、〝もしかしたら、そうかもしれない。〟という感情。どちらの方が強いかは、その眼を見れば明らかだった。

母はそれを訊くことを恐れていた。訊いてしまったら彼女の恐れるその想像が現実のものになってしまうと信じているかのように。

 しかし、母は訊かずにはおれなかった。震える声でその質問を口にした。

「あんた……一体、なにをしたの?」



 私は母から逃げるようにして実家を後にし、最寄駅から電車に乗り込んでいた。電車に揺られながら、自分が思い出した事実を受け入れられずに放心していた。

 私だった。明穂の家に火をつけたのは、あの老婆を死なせたのは、私だったのだ。

 あのとき、私は明穂に罵られて涙を流しながら逃げ出したりはしなかった。逆上して明穂を殺しかけ、そのうえ自分にとっての忌まわしい記憶を消し去るために明穂の家に火を放ったのだ。結局私の行為は、さらに忌まわしい記憶をつくりあげる結果にしかならなかった。しかも、すぐにそれを忘れることはできなかった。私は一週間、罪悪感と自分がしたことの恐ろしさに苦しみ続けた。私の罪が暴かれることへの恐れもあった。

 唯一そのことに気付いた母も、私にとって恐怖の対象となった。毎日部屋の外から聞こえてくる母の問いかけは、私に対する断罪の呪文となって頭に耳にまとわりつき、私を苦しめ続けた。母は最初から確信をもっていたわけではなかっただろう。しかし問いかけになにも答えず部屋に籠りきりになった息子の姿に、次第に疑いようのない事実を突きつけられていったのではないか。

 母が気づいてからもそれを誰にも話さなかったのは、息子が犯罪者であると現実から目を背け、それが証明されればどうなるかを知っていて恐れたからだろう。父にもそれを話さずにひとりで苦しみ、息子と向き合うことを諦め、拒絶するようになったのだ。

 私は一週間の引き籠り期間を経て、その出来事を本当に忘れ去ってしまった。あの決断をしたときには想像もできなかった苦しみで、精神が崩壊しかけていた。私の脳はそれを防ぐために、私の犯した罪の記憶を奥へ奥へと封じ込めたのだ。明穂に自分を暴かれた記憶よりももっと奥の保管場所へ厳重にしまい込んだ。しかし、それはふとした記憶の糸口で開いてしまう脆弱なものだった。

 私はなんということをしたのだろう。あのときの私は自分のちっぽけな虚栄心を見破られ、否定されただけで自分を失ってしまうような気がして、それを恐れるあまりまともな人間には考え付かないような解決法を見出して実行したのである。明穂の家を燃やし、あの老婆を死なせたのだ。

 明穂に申し訳なかった。申し訳ないなんて言葉では到底済まされるはずもない。けれど、そんな言葉しか私の頭には浮かんでこなかった。

 明穂の言った通りだ。狂っていたのは、私だった。


 何も考えず、まるで本能だけで行動する生き物のようになり、私はいつの間にか東京駅にたどり着いていた。駅を出ると、夜景にいくつものネオンが浮かび上がり、いくつもの雑踏がその場を行き交っていた。ロータリーにはタクシーが行列を成して止まっており、私はそのなかのひとつに乗り込んで自宅のアパートの場所を告げた。

 帰ってどうしようというのだろう。ベッドに入りぐっすりと寝て、朝一番に起きていつも通り会社に出勤しようというのか。

 とてもそんな気にはなれない。とはいえ、私は自分でもなにを望んでいるのかわからなかった。

 タクシーの運転手はおしゃべりだった。私はほとんど相槌も返さずにいるにもかかわらず、そんなことはお構いなしに一方的に話しかけてくる。迷惑だ。

 私はぼんやりと流れる景色を見ながら、あの家のことを考えた。

 明穂に案内されたあの日、不気味にそびえ立っていたあの家。燃え盛る業火に包まれていたあの家。何年もの間残骸となって放置されていたあの家。

 どのときも、私にはあの家が強烈なまでの存在感を放っているように見えた。まるであの家しか世界に存在していないかのように、それ以外のものはなにも見えなかった。だがそれは私の記憶による補正だったのかもしれない。私は長い間、あの家のことを忘れていたつもりでいたが、本能では覚えていたのではないか。私が記憶を消し去ってもあの家は私の中にしっかりと居座っていたのではないか。

 私はあの家の記憶を心の奥に封じ込めたと思っていたが、違ったのではないか。逆だったのではないだろうか。あの家が、私の心と記憶を支配していたのではないかという気がしてならない。

 馬鹿げた考えである。

 だが、狂った私に実にふさわしい考えだ。

 気がつくと、運転手がおしゃべりをやめてミラー越しにこちらを見つめていた。目が合うと運転手は慌てたように逸らした。

「どうしました。運転手さん」

 今の心境とは裏腹に、自分でも驚くほど穏やかな声で尋ねた。

「いえ、何でもないです」

 私よりも二十は上だろうか、中年のタクシー運転手は努めて視線を前方から外さないようにしているという様子だった。

「遠慮なさらずにいってください。僕の顔になにかついてます?」

 運転手はまたミラー越しに私の顔に目を向けながら、躊躇いがちに口を開いた。

「じゃあ……いえね、今ちょっとお客さんの顔を見たときに、ふっと頭に浮かんじゃったんですよ。馬鹿げた考えだと思うんだけども……」

「どんな考えですか?」

「いや、なんだか……〝人でも殺してきたような眼をしてるな〟って」

 いってから運転手は、〝しまった〟という顔をした。しかし私は、腹の奥から笑いがこみ上げてくるのを感じた。声に出そうになるのを抑えようとしたが無理だった。

私は大声で笑い出した。運転手がギョッとした顔で私を見た。

「運転手さん、よくわかりましたね。凄いですよ。そうです。僕、人を殺したんですよ。昔ですけどね。しかも、どうやって殺したと思います? ……放火ですよ。狂ってるでしょう? 僕は狂った人殺しなんです」

 私は自分でも馬鹿みたいだと思うくらいに笑いながらいった。笑いすぎて苦しくなり、ひとつひとつの言葉を発するのに苦労した。

 運転手は吸い込まれるようにミラーに目を向けていたが、はっとして前方に視線を向け直した。運転手の頬に汗が一筋垂れていくのが見えた。心なしか、車の走るスピードが速くなった。私はその間も笑い続けていた。

 私はなぜこんなにもおかしくて仕方ないのか、自分でもわからなかった。やはり本格的に狂っているのかもしれない。

 だが、長い間他人に隠し自分にすら隠し続けていたことを口にして、少しだけ清々しい気分になっていた。

 私は再び、あの家のことを考えた。あの家は燃えた。燃え尽きて無残な残骸と化した。しかし私は、あの家がまだどこかに存在しているのではないか、そんな風に思えてならなかった。

 私はまた忘れるのだろうか。母とのことも、老婆のことも、明穂のことも、あの家のことも、すべて。そしてまたなにかをきっかけに思い出すのだろうか。一度目も、二度目もそうだったのだから、そうかもしれない。それとも、今度は違うのだろうか。なにもわからなかった。だが、ひとつだけ確かなことがある。

 今はまだ、あの家を覚えている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] こういう忌避された故郷。失くした記憶。 だんだん蘇る過去、みたいな物語は大好きです。 バッド、ハッピーエンドにかかわらず、です。 [気になる点] おそらく主人公も昔の彼女も「異常者ではない…
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